虚業の日本

宮城島 一明 

 これだけ不景気だと騒がれていても、日本の完全失業率は、景気復調の途上にある西欧諸国あるいは景気沸騰中の米国のそれよりまだ低い。つまり、労働を通じて富の生産に携わっている人が人口に占める割合が比較的多いことになる。より多数の人が額に汗して働いた恩恵は、当然、我々の日常生活の質に反映されているはずである、そうでなければならない、と誰しもと思うのが当然である。

 日本の国民一人当たりのGDPは、米ドル換算で世界の一位ではないものの、スイスとルクセンブルグに次いで三位である。国によって物価が違うので購買力で補正して再度比較すると、日本は、ルクセンブルグ、米国、スイス、ノルウェイ、アイスランドに次いで六位である。俗に世界の金持ちクラブとも呼ばれるOECD加盟国の中で、どちらかといえば上位に属する。にもかかわらず、我々の日常生活は豊かさの実感とは無縁である。

 生活の豊かさはその国に住んでみないことにはわからないし、客観的に比較することが難しいから、世界六位という順位が現実相当なのかどうかは即断できない。そこで、もし仮に生まれ変わって最も平均的な所得階層の一員になるとしたら、どの国に生まれたいかという質問に自答してみることにしよう。例えば、筆者自身の場合、希望対象の国としての日本の順位は、後者の統計で七位のデンマーク、八位のベルギー、九位のカナダ、十位のオーストリア、十一位のドイツ、十二位のオランダ、十三位のフランス、十四位のオーストラリアのいずれよりも明らかに下にくる。十五位のイタリーに対しては若干の迷いが生じるが、十六位のスウェーデン、十七位のアイルランド、十八位のフィンランド、十九位の英国の住人の方が、どうやら日本よりよい暮らしをしている。これらの国は全て過去に住むか訪れるかして見知っているから、これはそれなりの主観的根拠に基づいている。こうしてみると、日本の実力は、二十位台の前半、つまり、二十位のニュージーランドと二十一位のスペインのあたりと考えるの妥当であろうか。ちなみに統計上の順位は以下、韓国、ポルトガル、ギリシャと続く。

 我々の日常生活、特に住宅事情、労働条件、自然環境などの生活の根幹を成す領域がOECD加盟諸国の多くのそれに比べて貧弱なのだとすれば、それは、日本では、せっかくの勤労者の労働が我々の生活を豊かにするような財の生産に結びついていない事例が多いためではないかと疑わざるをえない。別の表現をするなら、いくら働いても一向に社会を豊かにするのに役立たない仕事に従事している人たちがいるのである。このような職業を総称して虚業と呼ぶことにしたい。虚業に携わる人々が真の財を生み出す実業ついたならば、同じ労働に対してより多くの富を社会全体が享受できるはずだ、というのが本論の要旨である。

虚業のあれこれ

 まずは、いわゆる企業内失業者の存在が見逃せない。かつては窓際族、いまはリストラ予備軍などと呼ばれつつも、肝心のリストラがなかなか実行されないままに毎日職場に通う人々である。業種によっては一般市民の目に触れる機会が少ないが、客商売では目に付きやすい。例えば、ある都市銀行の支店窓口。店内に入るなり、「今日は何の御用ですか」と四十から五十歳代の男性接客担当者が擦り寄ってくる。この不景気だから、個人が銀行に持ち込む金の多寡は知れたものである。いくら親切にされようと不親切にされようと預ける金の額は変えようもない。口座の新規開設でなければ両替か、振り込みか、用事は決まっている。記入用紙と提出窓口だけを分かりやすく示しておいてもらえれば、身体障害でもない限り、助けはいらない。それなのに、判りにくい窓口、記入しにくい用紙を用意し、わざと接客要員の仕事を作っている。宝くじの発売日に、バナナの叩き売りよろしく客の呼び込みをしているのも感心しない。大声で呼び込んだら売り上げが上がるのだろうか。そのくせ、公共料金の自動振替の手続き窓口では長時間待たされたりする。いっそのこと、彼の接客係殿には銀行名の入ったゼッケンを付けて道路のゴミ拾いをしてもらったほうが、企業の社会的イメージが向上するだけでなく街もきれいになり、一石二鳥なのだが。

 鉄道の改札口で切符に鋏を入れる作業は、単調で辛いものだろう。自動改札機の導入でこれらの職種はなくなるのかと思いきや、改札口には一人または数人の職員が配置されているのが常である。彼らは、これらのハイテク磁気読み取り改札機が故障するのを傍らで見張ったり、大きな荷物を抱えた客が通過できないようにわざと狭く作った自動改札の前で立ち往生したスーツケースを持った客が助けを求めてくるのを待ちかまえているのである。そもそも、無銭乗車を防ぐためには車内検札さえあれば改札口はいらない、あるいは逆に、改札口があるのだから車内検札はいらないと思うが、鉄道会社の考えは違うらしい。そんなことをしたら、改札口の職員、改札機メーカーの社員を含めて多くの人々が失業してしまうのであろう。

 鉄道部門は、ほかにも虚業の好例を提供してくれる。我々は汽車の切符を買うのに一般のクレジットカードが使えないのを余り不思議に思わないが、たいていの先進国では、ヴィザだろうとダイナースであろうと、普通の窓口で普通の切符を買うのに使用できる。むしろ、これが先進国の条件であろう。日本のJRはといえば、地域会社ごとに設立されたクレジット小会社がそれぞれ専用のクレジットカードを発行し、JR西日本のカードは、JR東日本の駅では使えない、という有様だそうである。もちろん、余剰社員の受け入れ先を確保するには、優れた方法である。無論、現代人の紙入れは既に膨大な枚数の磁気カードで膨れ上がっているから、JRの地域限定クレジットカードなど作る酔狂な消費者は多くないだろう。信販会社の仕事はさぞかし暇に違いない。

 夜十時過ぎの駅前。数十台とも数百台ともしれないタクシーの群。車と同数の働き盛りの人が運転席で当てもなく客待ちをしている。日本の夜の見慣れた風景である。なぜタクシーの大群の出番かといえば、バスをはじめとする公共の市内交通機関が一斉に運行を終了する時間であるからである。夜十一時頃まで運転するものもあるが、主要な路線に限られる。そこで、帰宅を急ぐ人はタクシー以外に移動手段が無くなるのである。二百円少々のバス代で済むはずのところが、深夜割増2500円の出費となる。タクシー運転手の立場に立てば、深夜に単価5000円の客をほんの3回乗せれば生計が立つ。これはどうにも変である。一般に、鉄道は真夜中過ぎまで運行しており、それに接続すべき路線バスに対する需要も同じ時間帯まで存在する。たとえ客数は経るにしても。バスの運行が都合良く夜十時頃に止まるのは、深夜タクシーという虚業種を維持するための、バス会社あるいは自治体の苦肉の策である。料金を割り増しにしたうえで夜間バスを運行させれば、よほど利用者のコストは少なくて済むはずなのである。

 あるいは、ガソリン・スタンド。自分で給油することは危険なのだ、火がついたらどうする、だから専門家に任せなければならないのだと我々は信じ込まされてきた。それによって、莫大な数の雇用が確保されてきたことは事実である。しかし、その理屈に根拠がない、つまり、日本人の知能はセルフサービスで給油している国の民族に比べて劣っていないことがわかったのにもかかわらず、また、きれい好きな日本人の窓ガラスを拭いてもらいたがる習性を考えに入れるにしても、無人スタンドの数が大して増えないのは納得がいかない。精油企業は無人スタンドからの余剰利益で有人スタンドの要員を雇っているのだろう。

 高速道路の料金所も同じである。日本全土に高速自動車網が敷かれ、車の所有者は多少の違いはあっても、一定の頻度で高速道路を利用し、そうでないときには一般道路を走る。ならば、厳密な受益者負担を求めることに意味はない。高速道路の維持に必要な経費はガソリン税の一部として一括徴収すれば良いのである。仮に日本が他国と陸続きで、ある国で給油した車が日本の高速道路をただ乗りしたまま出国する、などということが起こりうるなら話は別である。しかし、極東の島国日本において、それはありえない。あるいは、A地点からB地点に向かうのに運営主体の異なる二本の高速道路が並行しており、料金競争を通じて客の奪い合いをさせる必要がある、などという状況も日本においては存在しない。現在の料金徴収制度の目的は、高速道路の料金所小屋を建設する会社、料金チケット発行読み取り機を製造する会社を生存させ、料金所において幾ばくかの雇用を創出し、高速出口渋滞がもたらすガソリン消費を増大を促す、これ以外にはない。

 これらはいずれも、金の流れを作り出すことには寄与するが、人的資源・自然資源・時間資源を浪費するだけで、我々の生活はいっこうに豊かにならない。むしろ逆である。車上との電波通信を用いた高速道路出口の自動料金徴収システムの導入に膨大な資金を導入する内閣の緊急経済対策の意気込みは心情的には理解してやりたいが、GDP豊かさランキング十五位のイタリアでは、何年も前からとっくに実用化されているシステムである。ハイテクか何か知らないが、有能な頭脳を動員してこのシステムを開発しようとしている日本の先進技術を代表する某社、道路公団という組織、日本という国は、いったい何なのか。それは、衛星打ち上げを安く請け負ってくれる国があるのにその数十倍の金をかけて初歩的な衛星打ち上げ技術を自己開発しようとする国、1000円で買える安全で美味しい外国米があるのに、2000円する国産米を作ろうとする国でもある。国鉄を分割した鉄道会社の間で高速車両建造競争を繰り広げる一方、肝心の新幹線技術は海外の高速鉄道建設入札において連戦連敗を繰り返す国である。技術開発は、将来、世界市場で競争力を発揮する可能性がある場合にのみ意味がある。あるいは、食糧自給政策は、戦争状態になっても外国の助けを借りずに生き残る可能性があるような資源国においてのみ意義がある。TGVが優れているなら日本も導入すればいい。カリフォルニアの米も買えばいい。新幹線やアナログハイビジョンテレビなど「敗者の規格」に固執して社会全体が得るものはあるのか。我々は、将来の日本国民から国債という形で借金をして、その金を海や山に捨てているのではないと、誰が言い切れるかだろうか。

日本モデルと西欧モデル

 虚業に携わる人の数は想像できないくらい多いだろう。半虚業に従事している人々も加えれば、欧州の先進諸国との失業率の差分は飲み込まれてしまうと思われる。日本モデルと西欧モデルとを比較するなら、同数の顕在的あるいは潜在的失業者に対して、前者はこれを企業が内部に抱え込んで給与を支払いつつ虚業に従事させる社会であり、後者は、これらの人を失業者として顕在化させた上で公的な失業手当てを払い、再就職のための職業教育を施している社会ということになる。日本でも欧州でも餓死する失業者が出現していない以上、社会全体としては似たようなコストを払ってこれらの人々を養っているといえるが、そのやりかたが違うのである。失業のコストを企業内部で処理するのか、社会保険等の公的枠組みで処理するかの違いである。問題は、どちらの制度の方が現在あるいは将来の社会に利益をもたらすのかである。

 虚業の存在は行政の諸規制と切り離して考えることはできない。ガソリンスタンドの例でわかるように、天下り的に規制を設けることによって、本質的な需要が存在しない領域に錬金術的に雇用を創出することができる。これに対し、規制が少ない社会は、社会全体の、あるいは特定業種の景気の変動に敏感である。雇用を維持できない業種からはスムーズに労働力が吐き出され、景気次第ではこれを別の新興産業が吸収していく。こうして、産業構造の転換が進み、経済・社会構造が変容していく。労働市場が、労働需要に敏感に反応する状態である。

 規制ずくめの社会の最たるものが共産主義社会であった。筆者は東欧の共産主義政権が崩壊する前後にいくつかの国を訪れる機会があったが、最も印象的であったのは、これらの国の役所を訪れたとき、廊下に並ぶ椅子と机と電話の番をしている職員たちの数であった。もちろん、ほとんど全てが国有であるから、役所であろうと市中のレストランであっても同じである。建物の入り口から入り、目指す人に面会するまでの間、あるいはダイニング・ルウムにたどり着くまで、長い長い廊下を通り抜けていく。その曲がり角ごとに、件の机がおかれ、そこで、職員が廊下を行く人間を誰何する。一体何をしているのやら、スラブ語の素養のない筆者にはさっぱりわからないが、電話で誰かと話をしてから、奥へ進めと命令する。20メートル進むごとにこの繰り返しである。この職種の果たす目的は読者諸氏の想像に任せるほかはないが、いずれにせよ、おいこら式に権力を笠に着れること、自分の占有できる電話があること、空調の効いている場所で着席しての勤務形態であることからして、彼らがどちらかといえば恵まれた階級の公務員達であったことは間違いない。まさに虚業のチャンピオンというにふさわしい職業であった。

 日本ではどうか。日本の社会制度の現状は、億万長者になるのも乞食になるのも個人の勝手とする、野生の、米国流の資本主義を採用しているわけでもなければ、共産主義国のように、とにかく全員に仕事を与えて完全雇用を実現する仕組みを採用しているわけでもない。一部の熱烈な信奉者を除いて、これら両極端の社会体制を日本に採用しようという意見が主流になることは明治以来一度もなかった。両者の中間をとっていこうとする考え方において、日本のとってきた進路は、欧州の社会主義的自由経済のそれとさほど変わらない。

 そこで、両極端の労働政策からは共に距離を置いているといえる西欧モデルと日本モデルのどちらが優れているのか、歴史の中に解答を探すのも一法であろう。敗戦から1970年代前半にかけての三十年間は、日本は生活の豊かさにおいてランキングを上げた時期であり、日本モデルがある程度機能していた時期であるともいえよう。この間に、道路は砂利道から舗装道に変わり、一家に一台の自転車は自動車になった。ラジオはカラーテレビに変わり、団扇はクーラーになった。これは日常生活の質的な変化である。ところが、石油ショック以降の二十五年間、日本の一人あたり所得はドル換算では上昇を続けたが、生活の実質はさほど変化していない。カラーテレビは大型化し衛星放送チューナー付きになったが、テレビであることにはかわりはない。電気洗濯機はマイコン制御になったが、だからといって、汚れの落ち方が良くなったわけでも、主婦の自由時間が増えたわけでもない。車は大きくなり馬力が増えたが、道路の渋滞が緩和したわけではない。橋を架けたり新幹線を通すことは生活の豊かさを増す上でほとんど効果がなかった。技術革新の一本道を邁進する時代から、分岐道に富む時代になったとき、日本モデルは虚業従事者の量産を始めてしまったようである。

 日本は元来、外国への投資が盛んであるが、一方、外国の投資家の興味を引くことのない国である。それが大幅な資本収支の輸出超過となって現れている。どうして、外国の投資家は日本に投資する気にならないのか。なぜなら、投資は、利潤を求めておこなうものだからである。企業の採算部門からの収益をそのまま社内失業者の人件費に充当してしまうような企業に投資しても高い配当は望めない。だれもそのような企業に好んで投資はしない。日本の投資家ですら、むしろ外国に投資したほうがましだと考え、事実、外国への投資が盛んなのである。

虚業から実業への転換

 我々の生活を豊かにするためには、虚業の就業者を実業の就業者に転換しなければならない。それには、どうしたらよいのか。第一には、虚業の従事者を一旦失業者として顕在化させること、第二には、国民の新たな需要を喚起し、それに応える新業種の発展を助けることである。

 まず、第一のテーマである虚業従事者の絞り出しを阻害しているのは、終身雇用慣行であり、会社の経営者が内部昇進によって決まる仕組みである。このような原則によって立つ組織では、その活動の一部又は全部が虚業になったとき、思い切って転業するという一種の自己否定ができない。行政による斜陽業種あるいは弱競争力業種の保護もいけない。外国からのモノとサービスの輸入自由化も重要な因子である。これによって、国内の虚業種は相当追いつめられるであろう。失業率は増大し、治安も悪くなるかもしれないが、これも明日の日本のためである。

 第二に、新しい需要の発掘であるが、これには国民の発想の転換が必要である。いままで、こうなればよいのに、こうできればいいのに、と夢描いていたことを現実の需要に脱皮させるのである。この分野では、現状突破を助けるために、大いに行政あるいは政治がイニシアティブをとったらよい。数値目標の設定が良いだろう。一例を挙げよう。日本の生活の貧しさは、国土に対する道路面積が狭いことが一因である。道幅が狭いから、混雑し、渋滞する。危ないからスピードが出せない、燃費も悪い、移動に時間が掛かる。遠くから通勤できないから、居住条件の悪い町中に住まざるを得ない。環境を守るには自動車よりも自転車だと思っても、車道では車が怖いから自転車に乗れない。自転車専用車線がないからと歩道を走れば、今度は歩行者が安全に歩けない。道幅が狭いから、高層建築を建てられるのは幹線道路沿いに限られる。だから集合住宅は一般に五月蠅い、空気も悪い。集合住宅が低質だから、庶民の人生目標はマッチ箱のような一戸建て取得となる。かくして猫の額大の庭付き一戸建て住宅が郊外に大量に造成され、田園風景を破壊する。総合的な土地の有効活用ができないから、一戸あたりの住宅面積が小さくなる。一戸建て住宅の購入を望めない人々にとっては、自家用車の中だけが自分の城になるため、大きな車体の車の取得が働き盛りの青年の人生の第一目標になる。安い軽油価格が蔓延らせたディーゼル車が歩行者と沿道に騒音と排気ガスを振りまく。道が狭いから街路樹を植えられない、街の景観はみすぼらしくなる、街角に憩いのベンチがない。道が狭いから、駐車場の確保できない商店は衰退以外に道はない。道が狭いから、地震などの大災害が襲うごとに大勢の人が犠牲になる。

 こうしてみると、日本中の道幅を広げることさえできれば、それだけで日本人の生活の質は飛躍的に高まるように見える。実際にその通りだ、と国民が納得するなら、今度は政治が取り上げ、行政が目標を立てる番である。そう、西暦2100年までに日本の全ての道路の幅を倍にすると目標を立て、行政が、道沿いに不動産を所有している人から道幅の50%相当の面積を買い取ったらよい。相続税の物納等の形態を考慮すれば、なんとか100年で目標は達成できるのではないか。あまりに遠大な計画に見えるかも知れないが、今、取りかからなければ、永久に実現しない。過去の政府の無策のつけを取り戻すのはそれほど大変なことなのである。

 住居問題は重要だから、別の切り口からも見てみよう。例えば、来年を期して、住居用の建物の壁と床は厚さ50cm以上とする、そして、必ず地下には駐車場を備えること、と法で定めてしまうのもいいのではないか。猫の額のような土地では、地下に駐車場を掘れないから、いやでも土地所有の集中化が進む。大きな建物が建つ。50cm厚の壁と床は、音と気温の面で快適な暮らしを約束する。新規格の集合住宅は一戸建てを手に入れるまでの仮の住まいではなく、生涯の城になる。子孫に残す財産になる。そこでは、全戸がピアノを買ったらよい。高級オーディオを備えたらよい。静寂の中で茶花を楽しんだらよい。パーティを開いて一晩中踊り明かしたらよい。誰の邪魔にもならず、誰からも邪魔されない。もとより全戸が駐車場付きである。今のところ自家用車の車内だけが自分の城であるという人が質の高い集合住宅を手にすれば、必ずや付随的需要が刺激されるに違いない。夢物語のようだが、西欧で中流階級の住む家屋とは、現在このようなものである。

不要な規制と必要な規制

 上で見たように、古い規制のあるものは虚業の存続を助け、新しい規制のあるものは実業の誕生を助ける。単なる脱規制が最適化された社会をもたらすわけではない。規制さえ取り外せばバラ色の世界が開けると思うのは幻想であり、それを人に説くのは詭弁である。無論、不要な規制を取り除くのは必要だが、破壊のあとにどのようなグランドデザインを描くのか、それが重要である。。大人げない役所いじめや数あわせの行政改革はこのくらいにして、良いアイデアを出して賢い規制を導入してくれる政治家を選挙でえらび、効率的な行政を展開してくれる役人を高給をもって遇そうではないか。不要な規制をはずすにしろ、必要な規制を作るにしろ、どのみち行政官の果たす役割が多くなるのは、西欧モデルの傍系に位置する日本の宿命だろう。

(1998年12月28日)