mon journal intime

essai essai essai

2000年

先日はK社の用でフランスに出張した折、ほとんど毎日氷雨に祟られた。いつもお世話になっている大家に敬意を表し、彼流の日記をつけてみた。
 

X月9日

 お馴染みのMKシャトルで空港へ。ツーリストクラスは満席、機内で米国映画を上映していたようだが、何を観たのか、全く覚えていない。
 

X月10日

 一日中、K社の仕事。世界各国のお友達にご挨拶。
 

X月11日

 今日も、朝から晩までK社の仕事。
 

X月12日

 夜、リヨン街の映画館で「Taxi No.2」(99年仏)を観る。シリーズ第一作の痛快な記憶があったのだが、なんと今回は、日本人を虚仮にして笑わせるという内容。物語は、日本の国防大臣が視察のためマルセイユ空港に降り立つところから始まる。あとはニンジャー、ニンジャー、という掛け声とアクションの連続。駐在外交官のS氏にこの話をしたら、いまどきまだそんな映画が、と呆れていた。日本人のやくざ役は在仏中国人のようだった。
 

X月13日

 今日もお仕事。午後は十年ぶりに英国大使館に行った。会議室の壁には、巴里市内の墓地を題材にした版画が所狭しと掛かっている。英国人のユーモア全開ですな。
 

X月14日

 仕事が終わってから、喜劇座でモリエールでも観るか、と出向いたところ、売り切れ。若い頃には開場直前のキャンセル券千円転売窓口の列に並んだものだが、この雨の下では。地下鉄で天国大通りに出て、「Le Gout des Autres」(99年仏)を観る。自ら主演もしているAgnes Jaoui監督の女性特有の視点と感性が新鮮で好ましい。
 

X月15日

 まだ時差が解消せず、朝の目覚めは早い。午前中は小雨の中、サンタントワヌ新地の家具工房を見学。オデヲンの医学書店に飛び込んで速攻で資料購入、そのままモンパルナスの映画観街へ。

 一本目は、「La-Bas Mon Pays」(99年仏)。60年代と90年代のアルジェでの鮮烈な事件が同時進行する。極東の島国で脳天気な生活を送っている閑人にはちょうど良い刺激と衝撃を与えてくれる。撮影は、どうやらモロッコで行ったらしい。

 二本目は、口直しに、「Le Chien du Jardinier」(95年スペイン)。観客席は、熟年夫婦で満席。いや、スペイン語を話す女性って素敵ですね、てなことを考えていると、ほとんど字幕を追う暇がない。でも、字幕なんか見ていたら、Emma Suarezの笑顔を見逃してしまう。スペイン支配下のナポリで繰り広げられる夢物語の撮影は、ポルトガルの有名避暑地シントラだったようです。栄誉あるゴヤ賞を総嘗めにしたのも頷ける?原題は、「El Perro del Hortelano」
 

X月16日

 往路では、枕二個分の重さもあって荷物は丁度20キロほどだった。

 帰りは本を買い込んだので30キロ近いかな、と思っていたら、実際は39キロだった。受付のお姉さんが美しい眉を顰めて、今度からは注意してくださいね、と。

 機内での一本目は、「Sleepy Hollow」(99年米)。といっても、撮影の多くはロンドンのスタジオで行われたようだし、イギリス英語を話す俳優も出ていて、どちらかというと英国ホラーの伝統の上に位置する感じ。感想は無し。

 次は、「Being John Malkovich」(99年米)。これはなかなか面白い。これから観る人のためにも内容は詳しく話せないが、Cameron Diazが猿檻に閉じこめられるので、彼女が嫌いな人は観たら爽快かも。

 「Anna et le Roi」(99年米)はご存じの通りの大衆路線。ここでJodie Fosterの喋るフランス語が分かったからといって図に乗っていると打ちのめされるのが、「La Fausse suivante」(00年仏)。Isabelle Huppertは良い俳優だけれど、いつも同じような感じで出演しているのはなぜだろう。特別な役作りをしないのだろうか。

この伝統的フランス語劇のなかで、彼女と互角に渡り合っているSandrine Kiberlainは魅力的。しかし、彼女が2年も前からVincent Lindonと結婚していたとは。知らなかった人は 
http://www.ecran-noir.com/stars/gen/kiberlain.htm
を見よう。

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1999年

8月26日

省エネ大作戦 危機一発!

何事も気分に流されやすい私であるが、先日、勤務先の大学が米国の叙臼輔布巾須大学と中国医学院と共催した環境問題についての会議に出席してからというもの、日常生活の中で資源やエネルギーを節約することを考えるようになった。

徹底的に節約をしようと心がけるなら、都市生活を放棄し、山奥に隠遁し、なるべく二酸化炭素を放出しないように身体運動もせず、洞穴の陰で息を潜めて生活すべきなのだが、理想に向かって踏み出すには、なかなか勇気がいる。

そこで、自己満足の域を出ないという批判は重々承知の上、身近なところで、少しずつでも節約を実行することにした。これは、ささやかな節約実行に際して経験した、波瀾万丈の物語である。

私は、時折、家族の所有する自家用四輪車を運転するが、概ね20秒以上信号待ちするときにはエンジンを停止することにしている。エンジンを停止すると、方向指示器の点滅灯が消えたりして、交通違反を犯す危険が生じるが、資源節約のためにはやむを得ない。

これだけでは手ぬるいと考え、長い下り坂でもエンジンを切ってはどうかと、某国道で下り坂の直線区間にさしかかった時に実行してみた。ギアをニュートラルに置き、エンジンを停止すると、車体は、下り斜面のおかげで、加速するでもなく、減速するでもなく、するすると滑るように走って行くではないか。時速40キロにして味わう静寂の世界である。

間もなく私は、操舵器(ハンドル)が効かないことに気がついた。これは、動力補助型操舵器(パワーステアリング)である以上、仕方がない。もっとも道は直線であるから、曲がる必要もない。

やがて、三百メートルほど前方に、渋滞で停車している先行車の列が目に入った。制動をかけなければならない。そこでブレーキペダルを踏もうとして驚いた。幾ら重みをかけてもペダルが奥に引っ込まないのだ。このとき、頭の中で真っ赤な警報燈が点滅を始めた。これはひょっとして、日本航空123便と同じ状態なのではないか。油圧系統が作動しなくなったM社製四輪車は、操舵不能に陥ったのみならず、制動不能にも陥っていたのである。

エンジンを再始動すれば油圧系統が復帰するであろうと予想できた。しかし、始動に手間取れば、衝突は免れない。

咄嗟の判断で、手動ブレーキを使用して減速することに成功し、事なきを得た。自車後部のブレーキランプが点灯しないままに減速することになったので、後続車両に追突されることを畏れたが、幸い、後続車両の運転者は注意深い人であったようだ。

こうして、命懸けで数ミリリットルのガソリンの節約に成功したわけだが、油圧制御で操舵および制動を行う仕組みの自動車に乗って居られる方は、くれぐれも私の真似をせぬよう忠告いたします。