共和制から帝政へ


 現代日本の国体は何かといえば、一応、立憲君主制ということになるらしい。つまり、タイやイギリスなどと同じである。では、五十年後の日本はどうなっているかと問われれば、世界地図上に日本国が残っているという前提に立つ限り、それはおそらく帝政の日本ではないか。

 この場合、帝政の帝とは政府の長の意味であって、天皇のことではない。とすれば、帝政という言い方は、誤解を招くかも知れない。広い意味での民主的信任に基づいた少数者による統治という意味で、民主的寡頭制といった方が適切であろう。

 古代ローマ史を研究している塩野七生氏によれば、ローマが王政から共和制、共和制から帝政へと政体を転換させたのは、その時々の社会経済的環境への適応の結果であるという。小国日本を大国ローマに対比するのはおこがましいが、国家存亡の危機に立っている現代日本のなかに、政体変容への萌芽が現れたとしても不思議はない。

 第二次小泉内閣の顔ぶれを見てみよう。すると、国会議員ではない閣僚が少なからず枢要ポストを占めていることに気付く。経済財政担当・金融担当大臣の竹中氏は大学教授であり、外務大臣の川口氏と文部科学大臣の遠山氏は官僚出身である。このほか、法務大臣の森山氏と総務大臣の片山氏は現職の国会議員ではあるが、官僚時代にはそれぞれの出身官庁で指定職まで務めている。

 これまでも、文化庁長官くらいならば、民間人が務めたことも何度かあったが、外交や教育、経済政策などの大臣職を非議員が同時に占めたことは近年記憶にないことである。大臣だけではない。内閣府特命顧問の島田氏のように個人として政府に参加している場合、経済財政諮問会議や道路関係四公団民営化推進委員会などの組織を通じて参加する場合を含め、選挙による国民の負託を受けていない民間人が政府の重要な意志決定に関与する体制になっている。

 これには多くの政治的理由があろうが、大きな要因は国会議員の人材不足である。一口に人材不足といっても少なくとも二つの原因がある。ひとつは、有為な人材が選挙に出られない、出たとしても当選しづらい仕組みになっていることである。もうひとつは、能力のある人が当選したとしても、選挙区への利益誘導の口利きであるとか、党員集めや献金集めに忙殺され、まともに政策を勉強するような時間がとれず、結局、政権の頭脳や戦力になるだけの力を蓄えられる人が少なくなるのであろう。

 地元への利益誘導や支援基盤の利益代弁だけを自らの仕事と心得ている国会議員が我がもの顔に跋扈している状況では、痛みを伴う改革の実施を彼らに任せることはできない。そこで日本の行く末を案ずる首相としては、しかたなく、民間の人材を政府機構の要所要所に配置することになるのであろう。

 かくして、「必要な高速道路は建設する」とか「民間人が何をいおうと法案を通すのは国会だ」などと国民の選良が叫べば叫ぶほど、彼らの姿は、元老院に拠って立ち、皇帝を中心とする官僚団への権力移行に抵抗した勢力に酷似してくる。当時の元老院が地中海のローマ勢力圏に住んでいた人々をどこまで代表していたか、今日の日本の国会が日本の住民をどこまで代表しているか、その比較判断は筆者の能力を超える。だが、少なくともふたつのことを言って差し支えなかろう。すなわち、国民の代表を選ぶ方法はたくさんあるという意味で、選挙で選ばれてさえいれば必ず絶対的な権力正当性があるとはいえないということ。もうひとつは、元老院主体の共和制ローマでは、おそらく五世紀まで国の命脈を保てなかったであろうということである。

 帝政化の傾向が見て取れるのは国政のみではない。知事に不信任を突きつけては自らの墓穴を掘る県議会にしても、住民投票の要求を当然のように否決する地方議会にしても、民意を代表するメカニズムの制度疲労が起きているのが現代日本の姿である。特に日本の地方制度は、行政府の長を直接選挙で選ぶ大統領制を採用しているので、この種の矛盾が表面化しやすい。もしも日本の国政で議院内閣制に手を加えてイスラエル型の首相公選制を採用したら、おそらくは野党の党首が首相に選ばれ、国政は大いに混乱することであろう。

 いまの国会議員に罪があるのではない。長期展望に立って日本の将来を見通すことができない議員が少なくないとすれば、第一に、彼らを選んだ選挙民の不徳を責めるべきである。一族郎党の利益擁護しか念頭にない人を選挙で選ぶのも地域住民の勝手であるが、亡びに向かう彼らの道連れにされる他人にしてみれば、たまったものではない。さすがに今の日本の現状では、ソクラテスのように誇りを持って死杯をあおるわけにもいくまい。

 せめて、選挙区人口を議員割り当てに正しく反映させる仕組みがあれば現状は違っていたのではと思わずにはいられないが、司法の責任者とて所詮は歴代政府の長に任命された人たちであるから、今さら彼らの資質や行状を問うても始まらないであろう。全く別の選挙制度の下でも同じ結果になった可能性は捨てきれない。

 このままでは日本は持たない、というのが将来を憂える国民の感覚であろう。おっとりと、まずは憲法を改正しやすくするために、憲法の改正規定を改正する準備をして間に合えばよいが。それとも、日本人特有の、いわゆる遵法意識の欠如が土壇場の日本人を救うことになるのか。後代の歴史家は、日本国憲法下と大日本帝国憲法下のふたつの日本を対比して、どのような評価を残すだろうか。

(2002年12月10日)