グルジア彷徨記 

ー過去を遡る旅ー


宮城島 一明 
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夢を見て目覚めた。ここは何処だろう。自分の家ではない。ホテルの部屋。早朝。

自分の家、生活の基地、それは一旦失ってはじめてその存在に気づく。

かつて、同じ場所に7日と続けて寝起きしない生活を送っていたことがあった。町から町へ、空港から空港へ。愛用の枕だけを携えて。見慣れたはずの街角がよそよそしい素振りを見せ始めたとき、それは危険な信号か、それとも流浪人への第一歩か。

カーテンを開ける。うっすらと紅をさした群青の空は、東の空であろう。此処が北半球ならば。そう、ここはグルジアの首都、トビリシの町である。北や西方の丘の家々の壁が柔らかい光を反射し始める間にも、東の朝焼けは輝度を増していく。

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東京のJ社がグルジア旅行に招待してくれたのは全くの偶然であった。世界の国のいくつかを歩いてきたが、中南米と中央アジアの辺りだけは私にとって未知の領域であった。それで、一も二もなく、招待を受けたのである。

そもそもトランス・コーカサスのこの付近は、アジアの始まりのような、ヨーロッパの終わりのような不思議な素性の土地である。かつてのアルメニア帝国はポンペイウスの遠征以後、ローマに朝貢する王国になったという。コンスタンティヌスのキリスト教公認と相前後するようにしてキリスト教化して以来、異教徒に対する最前線基地としての役割を担ってきた。

国の守護聖人は言わずと知れた聖ゲオルギウスである。小アジアから身を起こしてローマ軍の精鋭兵士となったジョージ君がある都にさしかかったとき、王の姫君が竜の生け贄に捧げられているの目撃。若者は竜を槍の一撃で見事倒し、一躍名を挙げたという。しかしながら、グルジアという国の名は想像に反して、アラビア語あるいはペルシャ語由来のようである。ロシア語でグルジアのことをグルジアと言うから、我々はグルジアのことをグルジアと呼んでいるに過ぎない。英語で日本のことを日本と言わないのと同じである。

誇り高きグルジア人は、自らをqartveli、祖国をSaqartveloと呼ぶ。

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初日は市内見物というのが現地のエージェントの手配してくれた予定らしい。その前に腹ごしらえをしなければ。

河を見下ろす断崖絶壁のとっついに張り付くように立つその食堂は、旅行ガイドによれば「川岸上のレストラン。景色よし。予約可。会食会場としても最適。」と素っ気ない。暖かな日差しが渓谷を満たし、谷間に広がるトビリシの町はその恩恵を拝受している。緑色の水面は極めて穏やかに、しばらく凝視してはじめて流れの行方が知れる。

品書きにはグルジア語と英語が併記された皿と、グルジア語でだけ記された皿とがある。迷わず後者を目暗で注文すると、ひとつは粘性のない辛いカレー、もう一皿は塩漬けの葡萄の葉で巻いた粽であった。オランダのグロルシュ・ビールが長旅で脱水した体に染み込んでいく。この快感の前には、それが輸入物であろうと、現地合弁企業の製品であろうと、最早どうでもいい。

爽快な微風と眩しい光の中を立ち上がると、長い病から回復したばかりの時のような心許なさを感じた。かつて弟が、生まれて初めて立って歩いたときの心細さを憶えていると言った。こういう感じだろう。

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トビリシ市街の中心部は広い通りの両側に展開している。そのRustaveli通りも、それと並行する通りも、かすかに登り、あるいは下っている。葛折のZ状の道路がいくつも重複していると考えていいかも知れない。トビリシは7つの丘に開けた町。サンフランシスコは坂の町、リスボンも7つの丘の町、ローマもまた然り。

かつての共産圏の町を知っている人にとって、トビリシ市街の風情は、どこか見慣れた風景であろう。ただし、美化する前のポツダムやライプチヒのような暗さはなく、ワルシャワのような重たさもない。ましてやモスクワのような威圧感はない。かといって、ブダペストやプラハのような歴史の堆積が感じられるわけでもなく、イルクーツクの野生も、ブカレストの切実さもない。軽さと明るさと楽天さとが痛んだ町に漂っている。

1991年冬から翌年にかけての市街戦で炎上したかつての中央ホテルは西側資本が買い取ったが、復旧作業は遅々としている。ソルボンヌのルイ大王学校を思い起こさせる中央学校も修復されて端正な正面を取り戻し、裏庭にはプールを建築中である。共産主義時代の人民和合モニュメントの脇に建設中のマクドナルド一号店の正面に聳え立つ近代的なイヴェリア・ホテルは、アブカジア地方の難民アパートになって久しい。ボルガ、タイガ、フィアット・ポルスカを押し分けるようにして、ドイツ製の高級乗用車が町を徘徊している。
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今日は山の上の遊園地に行った。山の上までは同じ山の中腹からケーブルカーが出ている。山頂には小公園があった。ただでさえ急斜面の山の頂上であるから、そこで錆びてギシギシ鳴る観覧車に乗り、トビリシ市街を眼下に、遙か彼方にコーカサス山脈を望んだときには、思わず足許がふるえた。あとで読んだ観光ガイドには、「テレビ塔のある山へはケーブルカーが運行。テレビ塔の下に古い遊園地があり、アトラクション等が利用可能であるが、老朽化しておりあまりお勧めしない」とあった。

無事に下山。散策の仕上げにと、風呂屋に行った。かつてローマ人が足跡を残した町ならば、やはり温泉に期待せざるを得ない。単純硫黄泉で、透明な湯である。Kissaという垢擦りを試したところ、専門の垢擦り男がマジックテープの雄(オス)側でできた手袋でゴリゴリ擦ってくれるのである。余りの痛さに耐えながら、全身から出血している惨状を想像していたが、後で確かめてみると、体皮は全体に薄くなっているようであったが、どこも皮膚は破れていなかった。

私の苦悶をよそに、同行者は浴室隣の休息室で、MTVに夢中である。

町の名前であるTbilisiとは「暖かい」の意だという。温泉にちなんだものであろう。


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旅行の楽しみは、やはり、食事。おまたせしました。

トビリシ人の間食兼昼食兼夕食になるものといえば、言わずと知れた、しかしながら知らない人は知らない、khachapuriである。魚の骨が咽頭の上の方に刺さったと想像してほしい。チクチクと不快な痛み。この骨をとろうと、息を溜めて一気に吐き出すときの音、それがkhaの子音の音に近い。母音をiに取り替えて、子音もついでに口蓋化させると、khiの音が出せる。気息は舌の両側近くを走り抜ける。この音が出せないと、もう一つの名物料理、khinkuliが注文できない。

余談であるが、グルジア語の単語には、強勢が最終音節の直前(paenultima)あるいは更にその前(antepaenultima)に置かれるものが多いようだ。そのせいか、イベロ=コーカシアン語族に属する、というよりも、孤立言語の一つであるグルジア語を、欧州語に馴染んだ耳にとって異質でないものにしている。

音声学の実習はここまで。腹が減ったところで、まず、khachapuriから賞味しよう。一見、具を乗せ忘れたようなpizzaのようである。ところがどっこい、具のチーズは上と下の薄皮の間に挟み込まれているのである。冷えたkhachapuriは冷めたピザのようなもので、やはり焼きたてがうまい。生地の香ばしい風味がチーズの味と香りと鼻腔の中で混ざり合う。使うチーズの種類によって違った風味を出せるが、アンモニア臭の強いチーズを使ったものでは味も相当強烈である。

Khachapuriの亜型として、厚みのあるタイプがある。舟形をしており、割れ目の中に、下部には溶けたチーズが、その上にゆるい半熟の鶏卵が納まっている。この流動部分を熱いうちにフォークの先でかき混ぜれば、やがて、チーズ入りスクランブルド・エッグのような状態になる。ここでおもむろにナイフとフォークを用いて船体外皮を少しずつ切り取り、内部のチーズ入りスクランブルド・エッグにまぶして口に運ぶのである。注意点は、外皮を薄く切り取ること。さもないと、船体に穴が空き、内部の流動体が外に漏れ出す危険がある。

東の横綱Khachapuriは基本的にチーズに含まれる塩味でいただく。これに対し、西の横綱khinkuliは、チーズを使わない。子羊などの挽肉にタマネギ、赤とうがらし、それに高菜のようでいてケイパーのような独特の香りのある漬け物のみじん切りを合わせる。この具を中華饅頭の皮で包み、蒸し上げればkhinkuliの出来上がりである。見かけは、形も大きさも、ちょうど饅頭と蒸し餃子の中間のようである。味も諸兄の想像を裏切らない。

Khinkuliは、やはり熱いうちにいただきたい。手で持ってハグハグいただくのが正式であるが、妙齢の女性におかれては、別法もある。饅頭の最上部、ちょうど皮が厚く合わさった臍の部分に対し横からフォークを突き刺し、饅頭を逆さに持ち上げる。そして、饅頭の底部の角(底部といっても、逆さになっているから、今は上部になっている)を注意深く噛み切るのである。その穴に吸い付いて、火傷しないように気をつけながら内部に溜まった熱い旨汁を飲み込み、それから、おもむろにその他の部分に食いつけば、手を汚すことがない。

モスクワで、大男のロシア人がグルジア料理店でKhinkuliを2個だけ注文し、皿の上で汁も身もグジャグジャに分解し、千切ったパンと混ぜて食べていたのをみて、あるグルジア人は仰天したという。本場グルジアでは、Khinkuliは大人なら最低5個、多いときには20個近く一人で平らげてしまう。外皮にブラックペッパーをしこたまかけていただくのが美味しい。

そもそも、共産圏諸国では各都市のトップ・レストランはグルジア料理店であるのが通例であったという。そこでは当時の特権階級市民がグルジア・ワインだの、ボルジョミ水だのを傾けていたことであろう。

近々、鴨川畔にてグルジア料理店を開店する予定である。乞うご期待。


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トビリシ滞在のハイライトは、近郊の古都Mtskhetaへの日帰り旅行であろう。途中、回り道をすれば、山城のごとく下界を睥睨する崖山の頂に君臨するCross Churchを拝観することも可能。拝観は無料、ただし開いていれば。

寺のテラスからの眺めは抜群。遠く5000メートル級の万年雪を抱く山々を望み、眼下にはMtskhetaの町で支流に交わるクラ河を望む。河はトルコに発し、グルジアを貫流し、アゼルバイジャンでカスピ海に注ぐ。

Mtskhetaの寺院でも、あるいはトビリシ市内の寺院でも、宗教サービスには合唱、それも男声合唱が欠かせないようである。カトリック教会のオルガンの代用であろうか。ちなみにグルジア正教会の最高位聖職者のことをcatholicoという。余談であるが。

グルジア正教会がロシア正教会に併合されていた間に色鮮やかな壁面の多くは削り取られ失われたが、いくつかの教会では今でも内陣上方に美しい絵を見ることができる。特に、Mtskheta聖堂の祭壇に向かって右側の身廊奥の壁には不思議なナイーヴなモチーフが見る者の注意を捉えて離さない。

トビリシ観光も本日が最終日。一昨日は、グレゴリオ暦に遅れること十日余りのグルジア正月であった。やはり、クリスマスもそれに合わせて遅かった。もっとも、イエスの誕生日が何日であったかというのは、聖書に正式には書かれていない。4世紀のローマの為政者が当時民衆の間で人気のあったミトラ教の祭日がたまたまその日であったことから、その人気を取り込むため、エイヤッと12月25日に定めたに過ぎない。

ミトラ教は古代のグルジアにおいても流汎した宗教であったし、やはり広く信じられた拝火教のシンボルである火車は、今でもグルジアの貨幣を始めいたるところに見られる。片や卍(まんじ)、片や鉤十字。

火といえば水。トビリシにきてトビリシ海を見ないのは、ローマに行ってトレーヴィの泉を見ないようなものであろう。

トレーヴィの泉は、ここで持ち出すまでもないことであるが、泉ではない。ローマ市外から引き込んだ水道の水を用いた噴水である。噴水を敢えて泉と命名したのは誰であったのか、よほど人寄せの才覚があったとみえる。

トレーヴィの泉が泉でないように、トビリシ海は海ではない。重金属がたっぷり含まれていそうな湖水を舐めてみたが塩辛くなかった。案内書に依れば、「トビリシ海と呼ばれる人造湖、市民の憩いの場」となる。かつてモスクワの共産党の大物が船遊びをしたという広大な湖面も、今は閑散としていた。まして、冬である。
 生き物の気配の感じられない荒れ果てた湖畔の赤土の大地を走る一条の未舗装道路。その道を遠くから古ぼけソ連製の白いラダがこちらへ向かってきたかと思うと、途中で方向転換をし、やがて彼方に去っていった。

トビリシ湖、強者どもの夢の跡。

芭蕉がシルクロードを旅しなかったのは日本文学にとって大きな損失であった。

(1999年1月19日)