連載:西洋料理店の楽しみ


第3回:食卓の脇役達

今回は、食卓の脇役に徹することの多い小物たちに焦点を当ててみたい。一口に小物といっても、食べられるものと食べられないものがある。まずは、食べられないものから。
 

フィンガーボール

食べられそうで食べられないものの代表といえば、まず思い浮かぶのが、フィンガーボール(手水鉢)とその中の液体である。決まって、生暖かい水の中にレモンのスライスが浮かんでいる、あれである。昔、晩餐に招待された王様が渇いたのどを潤すためにゴクゴクと飲んでしまい、それを見た招待者とその家来達が、王様に気まずい思いをさせまいと、自分たちもそれぞれ飲み干して見せたといういわく付きのあれである。

この手水鉢の長所は、油にまみれた手指を、あるいは生臭みのついた手指を、わざわざ中座して手洗い場まで行かなくてもその場で処理できることである。洗浄効果の点からいえば、手水鉢を三つぐらい麗々しく食卓に並べ、第一の鉢には下洗い用の荒塩入り温水、第二の鉢には本洗い用の石鹸液、第三の鉢には濯ぎ用の温水、と完璧を期したいところであるが、某料理店案内書の分類で星がいくつも付いている店ですら、そこまでしているのを見たことがない。食卓上のスペースの問題であろうか。

しかしながら、手水鉢は他の重要な役割も担っている。それは、手水鉢がいかなる場合に登場するのか考えてみればよい。それは、料理の一部を手で保持して(奉持して?)食べる類いの料理を注文した場合である。骨付き肉料理あるいは甲殻類ぶつ切り料理の場合を考えたい。鳥獣肉であれ、甲殻類であれ、最も滋味豊かな身は骨または殻に密着しているのが常である。従って、これらの料理は、ナイフとフォークだけでも食せることは食せるのであるが、それでは肝心の一番美味しい部分をうまくこそげ落とせない、それではあんまりだ、というわけで、どうぞ手を使ってかぶりつくなり、ほじくり出すなりしてください、あとで手の指は洗えますから、という店側の有り難い心遣いである。

女性の側にも似たような心理があるのかどうか知らないが、少なくとも男性であれば、連れ合いの女性が美しい指を汚して料理にかぶりつく場面は、まことにエロチックな光景であるといわざるを得ない。そういうわけで、連れ合いが骨付き子羊肉のローストなぞ注文し、時満ちて食卓に手水鉢が運ばれてこようものなら、それは待ちかねた景色を見られることが近いことを予告する合図の他ならない。さあ、いよいよだぞ、という期待感をいやが上にも盛り上げる、それが手水鉢の果たす役割のひとつである。
 

生牡蠣

本当に媚薬的効果があるのかどうかは眉唾とされている生牡蠣にも手水鉢が付きものである。たいてい生牡蠣は食卓の全員で注文するから、手水鉢もでかいやつを牡蠣の皿台の真下に置いてくれれば食卓全体が整然としてスペースの節約にもなると思われるが、いまだそういうサービスをする店に当たったことがない。牡蠣の殻であれば油がギトギトと浮かぶこともないのであるが、それでも手水鉢を同席の人と共有するのは、何か侵してはならない一線を越えることになるのだろうか。

生牡蠣といえば、食べられる小物が色々ついてくる料理の一つである。まずは黒パンとバター。これらについては既に紹介した。次に、レモンの櫛切りまたは半球切り。そして、刻みエシャロットなぞを入れたワインヴィネガー液である。問題はこのうち後者である。そもそも、誰が生牡蠣に酢を添えるなどということを考えたのであろうか。きっと昔の知恵者であろう。いまでは流通が発達し、海から遠く離れた地にも生牡蠣が迅速に配達されるようになった。新鮮な牡蠣であれば、そのまま食べるのが、断然美味しい。百歩譲って、レモン汁を二,三滴垂らしてもよい。しかし、千歩譲っても、酢を生牡蠣にかけて食するということは、流通の改善された現在においては、全く意味がない。意味が無いどころか生牡蠣の味を破壊する行為であるとすら言えるだろう。何も料理店の方からわざわざ料理をまずく食べる方法を客に指南する必要は毛頭ない。旧習に囚われている料理店には一考を求めたい。
 

青葱

話が本題から外れるが、似たようなことは日本料理にもあるのである。例えば、豆腐(冷や奴でも、湯豆腐でも)に薬味として添えられる青葱である。確かに、大豆製品(豆乳、湯葉、豆腐)には独特の生臭い香りが微かにある。しかし、その臭みは大豆本来のものであって、それは、山葵やら生姜やら大根おろしやらで中和しなければならないような魚の強烈な臭みと同列に論じられるものでは、到底無い。逆に言えば、例に挙げたような大豆製品に関する限り、それ自体の味というのは実に繊細かつ微妙なものであって、その仄かな味わいというものを構成する必須部分として、先に述べた大豆の臭いが重要な役割を果たしているのである。従って、豆腐に青葱を加えるなどということは、あたかも豆腐の味は味わいたくないと宣言するようなものであって、ましてや料理店が敢えて刻んだ青葱を用意するなどというのは錯誤的行為であろう。
 

牛の骨の炊きあげ

閑話休題。食卓の脇役ということでは、塩を忘れることはできない。近頃は狂牛病対策ということもあってお目にかからなくなったが、牛の骨だけを炊きあげたという田舎料理がある。牛の骨は数センチの厚みに切断され、その断面が上に向けて皿の中央に置かれている(気の置けない店では骨を皿に山盛りにして出してくるところもある)。そこで徐に、鈍く白く光る骨髄の上へ、卓上に用意された子壺から岩塩の美しい小結晶を附属の小匙で厳かに振りかける。ぷよぷよとした骨髄の脂肪の上にまぶされて頼りなく踊る岩塩結晶が水分に溶けきらないうちに、その土台ごと別の小匙で掬って食すわけであるが、この段に至っては、もはや塩が主役なのか、骨髄が主役なのか、それを言うことは難しいであろう。
 

食卓塩

食卓塩は、英国料理では更に重要な役割を果たす。何と言っても、付け合わせの蒸気炊き野菜ときたら、味が全然ついていないことが多いのである。美味しい野菜なら塩味が無くても楽しめるが、そういう幸運に恵まれることは稀である。そこで、塩の出番となるわけである。食卓に運ばれた料理の上に、味見もしないうちから狂ったように塩を振りかけている米国人や英国人を見ることがたまにある。彼らの行動を見て眉をひそめてはいけない。彼らにとって、それは最早、条件反射の域に達しているのである。ちなみに読者諸兄も英国に旅行してみられるがよい。おそらく、三日と経たないうちに、料理が運ばれるやいなや塩を目暗のように振りかけている自分に気がつくであろう。

ようやく日本でも誰にも気兼ねせずに自分で塩を作ったり売ったりすることができるようになった。また、大きな食料品店に行けば、岩塩、海塩を問わず、世界各国の様々な塩が手にはいるようになった。自分はどうしてもこの塩でなければ、という気に入った塩が見つかったならば、小さな容器に入れて持ち運ぶのも悪くないかも知れない。西洋料理店に堂々と醤油を持ち込むのと違って、この程度の持ち込みならば、料理店も大目に見てくれるに違いない。
 

オリーブオイル

ついでに油にも触れておこう。南欧料理ではオリーブオイルが料理に欠かせない。オリーブオイルは調理に用いるだけでなく、食卓の上にも瓶ごと置かれる場合が少なくない。勿論、生野菜サラダを注文した場合、運ばれた野菜の上に酢と油で好みの味付けを施すのにも使うが、料理の味を引き出すために、オリーブオイルだけを料理の上に掛け回すことが習慣化している人も少なくない。色といい、香りといい、いい油だなと思ったら、料理屋の親父を褒めてみるのも一興である。突然、親父がしたり顔になって、いや、お客さんは違いがわかるね、実は家内の実家で今でも爺さんが手作業で絞っている特製の油なんだよ、生憎これは去年の油なんだけれど、それでも凄くいいだろ、という調子で、イタリア版手前味噌といったところである。

オリーブオイルの変形として、huile piquante(仏語)と称するものがある。唐辛子の類を細かく切り、それをオリーブオイルの瓶の底に沈めたものである。ちょっと舐めただけではすぐに辛さが来ないが、しばらくの間をおいて舌の根にジワッと辛みが押し寄せるような調味油である。なぜか、フランスのイタリア料理店にはほとんど必ず置かれており、ピザの上に振りかけて食べるのに慣れてしまうと、何となく手放せなくなる。ところが、本家のイタリアでは、むしろ置いていない店の方が多いようにも見受けられる。むしろ、ピッザに何かをかけるなら只のオリーブオイルをかける方が本道である、ということなのかも知れない。
 

タバスコ

最もいただけないのが日本のピザ屋に常備されているタバスコである。緑のにしても赤いのにしても、あれを振りかけた日には、美味しいピザも不味くなってしまう。ただし、不味いピザを美味しくする効果もあるようである。

(1999年2月7日)