ブータン難民って?

どうして難民が発生したのでしょうか
  


  
はじめに

 私たちにとって、神秘の国、ブータンの印象は決して悪いものではありません。近年まで他国とほとんど交渉をもたず、独自の文化と伝統を守っている山間の王国、といったイメージでしょうか?

 しかし実際には、人口約60万人のこの国からは、1990年頃より、インド・ネパールに12万人以上の難民を出しているのです。この数は、総人口の5分の1にもなるのです。いったい、どういうことなのでしょうか?
 
そもそもブータンは多民族国家です
 
 私たちが、ブータンという国を思い浮かべるとき、山間の地域に住むモンゴロイドの人たちの顔を思い浮かべます。でも実際には、この地域は多くの民族が共存しているのです。

 ごくおおざっぱな分類では、北の山岳部に住む仏教徒のドゥルクパ(東部に住むインド・モンゴロイド系のツァンラ/ツァンラカ(シャルチョプカとも呼ばれる)、西部にはチベットからやってきたガロップ等の総称。ゾンカ語が標準語だが、数多くの言語がある)、南のインドと国境を接する平地に主に住んでいるネパール系ブータン人(ロシャンパと呼ばれる。ヒンドゥ教徒でネパール語を話す)です。人口比は、ドゥルクパが50%ほど、ロシャンパが40%ほどといわれていました。

難民が流出した理由は?

 いささか単純化された説明になるかも知れませんが、1989年に導入されたブータン北部の伝統と文化に基づく(南部の民族にとっては強引な内容、例えば暑い南部で北部の民族衣装の着用を強制)国家統合政策により、誘発された南部の民主化運動(暴力的な事件もあったと言われている)を口実に、行政機関をあげての「民族浄化」が行われたためです。

なぜ、そのような(南部の民族には強引な)国家統合政策が導入されたのか?

 よく言われている説明は、
 

  1. 南部のネパール系ブータン人は、文化的にも北部のドゥルクパと大きく異なっており相容れない
  2. 南部のネパール系ブータン人の人口増加率は高く、人口比でも北部のドゥルクパを上回る勢いであった
  3. 人口比でネパール系が増えた仏教王国シッキムがインドに統合されてしまった先例が、ブータン政府を神経質にしていた
  4. ブータンという国家のアイデンティティをドゥルクパの文化に統合してゆく必要性があった
  5. 教育などを通じて同化を行うなどの時間がかかる穏健な手段を取る余裕がないため、強硬な行政的な手段(実質的な追放)に訴えた


 というものです。

 このような強硬な同化政策(文化的に統合は不可能であったことは最初から明らかであったので、実質的には異文化の排除つまり「民族浄化」を意味する)を行ったドゥルクパはチベット系とされています。そのチベットは中国により併合されてしまい、漢民族により文化・宗教的にも政治的にも抑圧された状況にあります。同じチベット系の人々が漢民族に受けた抑圧を、今度はブータンでチベット系の民族がネパール系の民族に対して行っているのはなんとも悲しい現実です。

 また、見逃してはならないのは、ブータン政府の弾圧が民主化を要求する同じ仏教徒である東部ブータンに住むツァンラ/ツァンラカ(シャルチョプカとも呼ばれる。チベット文化の影響を受ける前より東部ブータンに定住していた)に対しても、1997年以降激しくなっているということです。

どのような解決が可能なのでしょうか?

 現在も、ネパール・ブータン両政府間の交渉が行われていますが、両者の意見の隔たりは大きく、解決は困難な情勢です。一種の「国策」としてネパール系の住民を国外に追いやったブータン政府が、問題解決(つまり難民のブータン帰還)を望んでないのは明らかなので、二国間交渉での解決が困難なのは当然ですが、ブータンの実質的な宗主国インドをはじめ国際的な関心が低いことも、解決を困難にしています。(インドは、ネパールからの二国間交渉の仲裁要請を拒否している)

 ちなみにネパール政府は難民約10万人がブータン人であるとしていますが、ブータン側はそのうちのせいぜい2−3千人がブータン人であるとしています。

最近の動き

 1999年12月、10年間にわたり拘禁されていた”ブータンのマンデラ”と言われるテク・ナット・リザル氏が他の40名の政治犯と共に釈放されました。テク・ナット・リザル氏は上記の一連の出来事の前は、ネパール系ブータン人のトップ政治家でした。国会議員を3期にわたり勤めた後、1987年に王立会計監査長に任命され、開発援助金をめぐる不正事件を摘発しました。この摘発によりドゥルクパの恨みをかったと言われています。

 彼は、1988年の国勢調査のありかた(ネパール系の住民に対して無理難題を突きつけ、市民権を剥奪するなど、強硬なものであった)に対し、国王に訴えたところ「反逆罪」で逮捕され、1993年には終身刑がくだりました。彼はアムネスティより「良心の囚人」として、救援活動の対象とされてきました。

 ネパール系有力政治家の釈放が、諸外国向けの「民主化」のポーズなのか、それとも、これからなんらかの動きの前触れであるのかは不明です。今後も、注意深く情勢を判断する必要があると思われます。

交錯する論点

 このホームページを作るにあたって、数多くの日本人が書いたブータン難民についての文章を読ませていただきました。その中で目に付いたのは、日本との類似性を指摘して、「経済成長の中で失われてしまった日本の姿」をブータンに求めようとする情緒的な論調の多さです。

 なかには、その延長で難民問題でのブータン政府の行いを、自国の文化を守るため仕方なかったものとして、同情的な論調のものまで見受けられました。実は、このような感情は特殊なものではありません。ブータンを知れば知るほど、このような感情がわき上がるのが当然なほどに、ブータンという国は魅力的なのです。(ブータンはそれを充分認識して行動しています)

 しかし、そう言った感情に陥ったときに、私たちは大切な視点を失っていることに気がつかなければなりません。ダブル・スタンダードに陥っていることは、アフガニスタンのタリバンのイスラム原理主義政策への感情と比較することでも明らかです。

 そもそも「伝統と文化」は「排外主義」でしか、保持できないものなのでしょうか。そうではないことは、ほんの10年前まで、ブータンの諸民族が平和に共存していたことからも明らかです。ブータン難民の問題は「歴史」ではなく、今現在の12万人の重大な人権侵害なのです。

追記 (2001年7月1日)

 20世紀の終了間際、EUを初めとしてヨーロッパ諸国および任期終了直前のクリントン政権による強力な外交圧力がブータン政府にかけられました。

 そして、2000年12月27日、ネパール・ブータン政府は両国で国籍認定のジョイント・チームを作ることに合意しました。

 2001年3月26日からは実際に現地で両国の共同チーム(JVT)による国籍認定作業が開始されています。しかしながら、最初の2ヶ月間で認定作業を受けることができたブータン難民は、キャンプに収容されている1万7000家族10万人のうち、わずかに400家族2500人のみとなっています。仮にこのペースで認定作業が進むとさらに6年以上かかる計算になります。

 ブータン難民を巡る情勢は、この一年間で大きく好転しました。特に、ブータン難民が「希望」を持つことができるようになったのは素晴らしいことです。喜ぶべき展開の中で、悲観論を書きたくはないのですが、それでもやはり今後の展開を楽観的に考えることは難しいと思われます。

 事実上の宗主国であるインドに次いで、最大の援助国である日本が、ブータン難民問題の解決に向けて簡単なコメントを発表することはあっても、大きく関与することがない(なかった)のは悲しいことだと私は個人的に感じます。
 

 このことは、インドネシアの抑圧的なスハルト政権を支えるために、「東ティモール」問題の解決に向けた国連などの決議にことごとく棄権や反対票を投じてきた日本政府が、PKFを送る先鞭をつけるために(そして世論誘導のために)東チモール問題を利用しているかのようにも見える昨今、より強く感じます。(PKFを送ること自体の是非は別ですが)

 多くのティモール人の血が流される前に、日本が出来たことは、それはそれは大きかったはずです。ところが日本政府が長年行ってきたのは、残念ながらそれとは全く逆のことでした。


 ブータン難民問題について、日本は、そして私たちはまだまだ多くのことが出来るはずです。むしろ、「キャンプに収容されている難民」「進展しない2国間交渉」という変化のない10年の後、国籍認定作業・本国帰還・再定住といった実際的な諸問題が(10余年の矛盾を抱えて)起こってくるこれからこそが、正念場ではないでしょうか。

 ブータン難民たちが日本に向けている期待は、私たちの想像をはるかに上回るものなのです。
 


注:このサイトに記されている内容は、わたしの個人的な意見等であり、
文中に出てくるUNHCR等のいかなる団体の見解を意味するものではあ
りません。質問、意見等も、当サイトの管理人宛にお願いいたします。
  



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