ブータン難民発生の経緯


1958年 市民権法を制定

(1959年 チベット騒乱)

1972年 ジグメ・シンゲ・ワンチュク国王即位(第四代国王)

(1975年 インドによりシッキム併合)

1977年 市民権法を改正

1985年 新たな市民権法(国籍法)を制定

1987年 ネパール系のトップ政治家テク・ナット・リザル氏、何人かの行政官の開発援助金不正流用を摘発する

1988年 国勢調査 (北部支配民族の総人口比の低下が明らかになる)

1989年1月 ブータン国王、ブータン北部の伝統と文化に基づく(南部の民族にとっては強引な)国家統合政策を発表(4月に施行)

1989年2月 南部の学校内のネパール語の禁止

1989年11月 ネパール滞在中のテク・ナット・リザル氏、ネパール当局に逮捕されブータンに引き渡される(拉致されたと主張する資料もある)

(1990年 ネパール、絶対王政から議会制民主主義へ)

1990年9月−10月 ブータン南部全域でデモが繰り返される

1991年 ネパール系ブータン人に対する、恣意的逮捕、レイプ、拷問が激しくなり、大量の難民の流出する


関連地域地図(IMADR提供)

1992年 ひどい人権侵害は減るも、「自主的移住用紙」にサインさせられ国外追放にされる難民が増える

1992年 国家保安令

1992年11月 難民問題についてのネパール・ブータン両政府の二国間協議を行うことで合意 (その後も断続的に行われるも、両国の意見は平行線で、ほとんど成果を挙げていない)

1993年10月 第一回閣僚級合同委員会 ネパール・ブータン両政府は、難民キャンプの収容者を4つのカテゴリーに分類することで合意

1993年11月 テク・ナット・リザル氏に終身刑がくだる

1994年2月 第二回閣僚級合同委員会

1994年3月 ブータン国王による「国を去らないように訴える」国王勅令

1994年4月 第三回閣僚級合同委員会

1994年6月 亡命中のネパールでツァンラ/ツァンラカ(シャルチョプカともよばれる。チベット文化の影響を受ける前より東部ブータンに定住していた)を中心に、ドルック・ナショナル・コングレスという政党が結成される

1994年6月 第四回閣僚級合同委員会

1994年末までに インド・ネパールへの難民の総数は12万人に達したと推定される

1995年2月 第五回閣僚級合同委員会

1995年4月 第六回閣僚級合同委員会

1996年?月 第七回閣僚級合同委員会

1996年 国連難民高等弁務官事務所はブータン難民キャンプに対する予算を約10%カット

1997年1月 ドルック・ナショナル・コングレス(東部ブータン系)といくつかの南部ブータン系を中心とした政党が、ブータンで”民主化への合同戦線”を結成

1997年10月 ドルック・ナショナル・コングレスが平和的なデモなどを呼びかける。 ブータン東部でドルック・ナショナル・コングレスの党員・シンパの恣意的な逮捕が行われる。 逮捕者は複数の仏教の僧侶、子供を含む150名以上?

199?年 キャンプ内で成人に対する教育・職業訓練を行ってきたNGOのOXFAMが撤退

1998年3月 ネパール政府はブータン難民問題を国連の人権会議にあげる

1998年4月 ”民主化への合同戦線”、平和的なキャンペーンをブータンの全ての民族に向けて呼びかける

1999年9月 3年半ぶりの第八回閣僚級合同委員会 ブータン・ネパール両外務大臣の会談 進展は見られず

1999年10月 ネパール、国連総会でブータン難民問題をあげる

1999年11月 閣僚級合同委員会 ブータン・ネパール両外務大臣の会談

1999年12月 テク・ナット・リザル氏、他の40名の政治犯と共に釈放される

2000年2月 次官級予備会談 難民認定基準などで折り合わず

2000年4月 EU代表団、難民キャンプを訪問 ブータン政府を非難するコメント

2000年5月 国連難民高等弁務官・緒方貞子、ブータン・ネパール・インドを訪問 インド政府は協力を表明

2000年5月 第九回閣僚級合同会議 ブータン・ネパール両外務大臣の会談 
二ヶ月のうちに(両国による)難民のカテゴリー分類のための作業が開始されることで同意? 国籍認定に、現時点では国連難民高等弁務官事務所の基準は用いられず、両国政府が基準を作成?

難民の検証作業を家族単位で行うべきだと主張するネパール側と、個人単位で行うべきだと主張するブータン側との溝を埋めようと国連難民高等弁務官事務所が仲裁案を提示するが、ブータン政府は拒否(ネパール政府は受諾)
2000年10月 ネパール政府はブータン政府に難民問題についてのさらなる話し合いを要求

2000年11月 英国王室のアン王女がブータン難民キャンプを視察

2000年12月 米国国務副長官らネパールおよびブータンを訪問。難民問題についての解決を促す

欧米の強力な外交圧力がブータン政府に対して加えられた
2000年12月27日 ネパール・ブータン政府は両国で難民の検証のためのジョイント・チームを作ることに合意 「検証の作業を世帯単位で行う」というネパール案を、ブータン政府(個人単位の認定を主張していた)が受け入れる形

2001年1月 EU、ブータン・ネパール両政府の合意を歓迎する議長声明

2001年3月26日 ブータン・ネパール両国の共同チーム(JVT)による難民の検証作業が開始される

2001年4月26日までの一ヶ月間に233家族(1380名)の難民の検証作業が行われた

2001年5月末までの約二ヶ月間に400家族(2500名)の検証作業が行われる

2001年6月 ネパール国王、射殺される

2001年8月 第11回閣僚級合同委員会 ブータン・ネパール両外務大臣の会談

2001年9月4日までに、5989名(955家族)の検証作業

2001年9月 キャンプ内の政治団体として有力なブータン人民党の結党  (1990年)以来の党首ブダトキ氏がダマックで殺害される

2001年11月 ブータン・ネパール両国の高官協議

2001年12月 7つのキャンプの中で1番小さいクドゥナバリ・キャンプの立証作業が終了

2002年2月 開かれる予定であった第12回閣僚級合同委員会が無期限に延期される

2002年7月 EUの調査団がブータン難民キャンプでの実地調査を行う 

2003年2月 第12回閣僚級合同委員会(カトマンドゥ)

2003年3月 ブータンのドナー国会議(第8回円卓会議)が(ブータン政府とUNDPがホストで)ジュネーブで開かれた
         (2002年から始まっている第9次五ヵ年計画に必要な10億円ほどのファンドレイジイング が目的)
         ブータンはドナー国に対しネパールにいる難民をブータンに帰還させると宣言(させられる) 
 
2003年3月 第13回閣僚級合同委員会(ティンプー)
         ブータン国王は、クドゥナバリ・キャンプにいる難民が2003年末までに本国へ送還されるだろうとネパール側に保証?

2003年4月 ブータン政府は、ブータン国内に少なくとも3ヶ所のキャンプを設営しつつあり、 そこに本国に帰還した(ブータン)難民を収容しようとしており、ネパールがそのような提案に暗黙に同意したらしいことが報道される。
 
2003年5月 ネパール・ブータン合同立証チーム(JVT)は、クドゥナバリ・キャンプのカテゴリー分けを完了
        (対象者の70パーセント以上のカテゴリー分けを完了。残りの30パーセントは政治的判断とされる。)
 
2003年5月 第14回閣僚級合同会議(カトマンドゥ)
     クドゥナバリ・キャンプの難民(約12000名)のカテゴリー分けの結果が明らかにされる
     カテゴリー1(真正のブータン人)3%
     カテゴリー2(自発的に移住したブータン人)75%
     カテゴリー3(ブータン人以外)20%
     カテゴリー4(犯罪歴のあるブータン人)2%
     これらのカテゴリーのうち、1,2,4の人々を帰還させる用意があると表明
     このうち市民権(国籍)が与えられるのはカテゴリー1のみとされる。

いくつかの報道をまとめると、大多数(75%)を占めるカテゴリー2は、ブータン国内の3箇所に設営されるトランジット・キャンプに収容され、そこでさらに2年間?を過した後、市民権の申請をすることができる(認可されるとは限らない)とされている

2003年9月 UNHCRの難民高等弁務官ルード・ルベルスは、執行委員会(ExCom)会議にて、UNHCRが立証プロセスから排除されていることに不快感を表明。3つの方策を取る事を示唆。1つはネパールが難民のネパール定住を許す姿勢であるので、UNHCRは自助努力を促すプロジェクトを進めつつ、難民キャンプ維持から徐々に撤退する。2つ目は、安全が保障されにくいケースについては第三国への再定住を進める。3つ目は、ブータンがUNHCRのブータン入国を拒否しており、帰還プロセスをモニタリングできないため、帰還を推し進めない。

2003年10月 第15回閣僚級合同委員会(ティンププー)
          カテゴリー分けされたクドゥナバリ・キャンプの難民のうちカテゴリー3に分類された難民について、難民側の再調査申請をネパール・ブータン合同立証チーム(JVT)が2004年2月15日までに完了すること、Sanischareキャンプを次に立証作業を行うキャンプとすることなどが決められる。

2003年12月 ブータン側のJVTの要員と、ブータン難民との間にこぜりあいが発生。ブータン側はそれを口実に、要員をブータン本国に引き上げる。これ以降、全ての本国帰還に向けたプロセスが中断してしまう。

2004年10月 UNHCRの難民高等弁務官ルード・ルベルスは、執行委員会(ExCom)会議にて、ブータン難民問題解決への可能な選択肢の検討を表明。選択肢には、UNHCR事務所がブータンにない状態であっても難民の本国帰還、地域の諸国を含めた第三国定住、難民をホストしている地域を包含するため徐々に援助を広げること、を列挙した。
 
2005年4月 「UNHCRは半年以内に7つのキャンプの立証作業を始める」との報道


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