以下の文は、アムネスティ・インターナショナルが1994年に出したブータン難民についての報告書の日本語訳です。これは私的に翻訳したもので、誤訳や原文の意味を忠実に反映していない場合がありえます。他所に引用する際は、必ずアムネスティ・インターナショナルの英文の原文にあたってください。

AI INDEX : ASA 14/04/94

ブータン  強制的な追放



序章

 1994年中頃までに、およそ86,000人(その大多数はブータン出身のネパール語を話す人々)がネパールの難民キャンプに居住している。[1]彼らの運命は不確かなままである。この問題についてのブータンおよびネパールの政府間会談は、1992年11月にスタートしたが、まだ結論に達していない。1993年10月に、両政府は、ブータンへ帰る人々のことを念頭に置きつつ、これらの難民を分類する4つのカテゴリーについて同意した。しかし、1994年10月の時点で、難民がどのカテゴリーに分けられるかを決定する基準やメカニズムに関しては、まだ合意に至っていない。その間にも、人々はそうする以外ないと信じている様子で、ブータンからネパールに続々と入国している。

 アムネスティ・インターナショナル(以下、AIと記する)は、ネパールのキャンプに滞在している難民の大多数が、ブータン当局によって取られた施策の結果、ブータンを追われたと信じる。確かに両政府が同意した難民のカテゴリーの第1番目は、「亡命を余儀なくされた真正ブータン人。」とある。その名称自体が、少なくとも南部ブータン人の一部は強要されて亡命するに至ったと考えられる、というブータン政府による認識を呈するものである。アムネスティは、人々の非暴力な政治的、宗教的、あるいは他の良心に基づく信条を根拠とする、または彼らの人種、性別、肌の色、または言語などを理由とし、公的な手段として強いられる強制亡命の執行に反対する。AIは、ネパールの難民キャンプに滞在する難民の多くが人種の違い、または政治信条を理由にブータンから追放されたものと見ている。

 1991年11月および1993年11月にAIからネパールのキャンプでインタビューを受けた人々は、ブータンからの退去に至った様々な理由を話した。下記に述べられるように、それらの理由の中には公的な手段によって当局から立ち退きを強いられた例も含む。これらの手段は、2つの主要問題をめぐる、ブータン南部、ネパール語圏内の不穏な情況の中で採られていたものである。まず第一の問題は、ブータン北部の伝統文化、ドリグラム ナムザ(driglam namza)を土台にした国家統合政策である。これは1989年の1月にジグメ・シンゲ・ワンチュク(King Jigme Singye Wangchuck)国王によって布告されたが、この政策は、政府が国民に特殊なブータン北部の慣習を採り入れることを求めることによって、ブータンにおけるネパールの文化を消滅させるつもりだという恐れを生じさせた。第2に、1988年に始められ、まだ継続されていると伝えられている不法移民およびブータン国民を識別する国勢調査の実施が、ブータン国民と認められなかった者は国外退去になるという恐れを生じさせた。これらの恐怖感は、調査が行われた専横的なやり方と、ブータン南部の人口の一部に起こった政府の政策への反対を抑えた政府軍のやり方によって、深まっていった。

 国家統合における政府政策、および市民法(Citizenship Act)の適用に対する不安は、1990年初頭からブータン南部に広がり始め、同じ年の9月には一連のデモへと達した。デモ中には、放火や破壊行為が行われたこともあったと報じられている。南部の政府反対者(政府が“ngolops”あるいは「反国家主義者」と呼ぶ人々)による最初の暴力行為は、1990年2月に報告された。これらは窃盗や、ブータン北部の服を着ている人々からの強奪を含んだ言われている。1990年中頃から、「反国家主義者」たちは彼らの活動を殺人、市民の誘拐、および南部の公共施設に対する攻撃といったより重い犯罪を含むものに拡大していった。攻撃の中には、教師[2]を含む国勢調査員および他の役人たちに向けられた。ブータン南部における役人と民間人に対する攻撃はまだ報告され続けており、ある報告では、犯人がネパールのキャンプからブータンへ侵略を図ったともいわれている。「反国家主義者」に帰せられる特殊な政治的動機を裏付ける確かな証拠がいつもあるわけではない。付け加えるならば、現在政府も、「反国家主義者」自身がネパール語を話す人々を脅迫し、家を捨てさせ、キャンプに追いやっていると主張している。

 拷問と強姦を伴った専横的な南ブータン人逮捕が1991年に加速するとともに、人々は自分達もそのような暴力の犠牲者になることを恐れ、ブータンから逃れ始めた。しかし、1992年中頃からは、そうした人権侵害全般が行われたというような類の報告は著しく減少し、人々を国外に追放させるべく採られる当局の処置の性質は変わってきているようである。この、やや遅れた時期にキャンプに辿り着いた難民の多くは、国外退去を強いるために採択された面に行政的な手段について語った。それはいわゆる「Voluntary Migration Forms (自発的移住申請書)」に、しばしば従わなければ巨額な罰金や入獄を課すという脅しのもとに、署名させられることも含んでいた。これらの書式に署名することは、署名をした当人はブータンには戻らないということを意味し、退去に当たってはそれまで所有していた土地に対する補償として、幾分かの配当金(それはいつも支払われたわけではなかったが)があった。また別の理由でブータンを去る人々もいた。村落共同体が一団として当局から立ち退きを求められる場合で、それは殺人や窃盗など、「反国家主義者」に帰せられる犯罪に対する全体的な処罰として地元当局より実行されたものだった。

 AIがインタビューした難民で、ブータンから強制的に追われたと語った人の多くは、安全な時がきたらブータンに戻りたいと語った。そしてブータンとネパール両政府の会談は、誰に帰国を許可するか、という決定を導くために行われている。しかし、両国政府によって同意された4項目にまたがる分類を見ると、その人がブータンの国民、あるいは市民であるかどうかということが彼の帰国の権利を確立するための決定打として位置づけられているようである。もし市民権が、ある難民が祖国へ帰れるかどうかを決定する要因に使われるとするならば、国際法がもたらす保証は履行されないといえる。

 国際人権法の下では、人は誰でも祖国に帰る権利を有している。[3] ある国の市民を含むことは明かであるが、もしそれが「彼らの国」であるならば、祖国へ帰る権利は公式に戻るべき国によって「市民である」と認められていない人々にも行使されうるのである。ブータンを強制的に追われたネパール語を話すブータン出身の人々、および自発的に国を逃れた人々は、その人が他国の国籍を持っているという確立した事実がない限り、ブータンに帰る権利がある。AIが知る限りでは、ネパール難民キャンプに滞在する、人種的にはネパール系である難民の大多数の「祖国」は、ほとんどの人が多国籍を持たないため、ブータンである。ブータン南部の人口の最も大多数を占める、今は「南ブータン人」として知られる人々は、19世紀の終りから20世紀初頭に南部のデゥア(Duar)谷から移住してきたネパール人開拓者の子孫であり、ほとんどがヒンズーである。このような移住は1959年にブータンによって禁止され、最近の南部の情勢は、ネパール人開拓者の流入を緩和しようとして用いられた、または市民権手続きを制定しようとした政府の政策の一環としてみることが出来る。これらのブータンを自分の祖国とする人々の例外は、インドやネパールから最近移住してきたネパール民族である。ブータン政府は、難民キャンプには、ブータンからではなく他の場所から流れ着いた難民も混ざっていると主張している。

 市民権だけでブータンに帰国できる権利を有するかどうかを決定する場合、他のいくつかの追加的な問題を予想することが出来る。1985年ブータン市民権法はいくつもの曖昧な条項を含んでおり、下に述べられるように、専横的なやり方で適用されているようである。この法律はまた、主要な人種グループに属さない多くの人々、また平和的手段によって政府の政策に反対する人々をも排除するために使われ得る条項をも含んでいる。

 AIはまた、ブータンに帰された際の迫害をいまだに恐れる人々が、難民キャンプに滞在する難民の中に存在することを懸念する。国際法で求められているように、このような人々が彼らの庇護申請が完全に考慮される機会を与えられるということが絶対的に必要である。もしブータンに帰った場合、彼らが深刻な人権侵害のもとに曝される危険がないと決定づけられない限り、上記のような難民は一人として帰されるべきではない。

 これらの懸念はブータン南部からネパール語を母国語とする人々が依然としてネパールに入り続けているという事実[4]と、強制的な亡命へと達する、南ブータンにおけるネパール語を話す人々に向けられる施策を述べ続けているという報告によって深まっている。この視点を描写するため、下項に、ネパールに1994年4月に着いたサムチ(Samchi) 地区、ドロカー(Dorokha)出身の280人以上の難民のケースを述べる。

 AIは、帰国する難民が、彼らをそもそも国外退去に追いやった類の人権侵害に再び曝すようなことにしないためにも、完全かつ独立した南ブータンにおける人権情況の査定が不可欠であると信じる。

4つの分類に対する懸念

 1993年10月に、ネパールとブータンの政府は、難民キャンプのすべての人々を4つのカテゴリーに分類することに合意した:
 
  1. 強制的に立ち退かされた真正ブータン人
  2. 移住したブータン人
  3. ブータン人以外の人
  4. 犯罪を犯したブータン人


AIは、この分類法は、強制的に国外退去させられ、祖国に帰る権利がある人々すべての人々に帰国を許容するものではないことを危惧する。それが彼らの国であるならば、4つのカテゴリー内すべてに国際法で定められた、ブータンに帰る権利を有する人々が存在し得る。

 AIの知る限りでは、この分類をどう使うのか、あるいは人々がどのような方式によって分類されるかなどに関しての明確な情報はいまだに公表されていない。AIは、ブータンに帰るということを念頭においての難民篩い分けが行われる前に、国際人権法施行を保証するため、ある種の重大な問題点に取り組むべきであると信じる。

 第一に、前に述べられたように、国際人権法は国によって公的に市民であると認められていようといまいと、難民が祖国に帰る権利を保障している。もし彼らがそう望むならば、ブータンを自分の国とする人々は誰でもそこへ帰ることが出来るという保証が確かなものになるかどうかを明白にすることが必要である。もし、その代わり、4つのカテゴリーが暗示するように、誰が国に帰るかを決めるために適用されるものが市民法だけであるならば、この分類法には危惧の要因になる。というのは、それでは国際人権法のもとに決められている保証が満たされない可能性があるからである。

 ある人が「ブータン人(カテゴリー1、2、そして4)」か、または「非ブータン人(カテゴリー3)」であるかをどのようにして決めるのかはまだ知られていない。もしその決め手となる要因が、1985年市民権法で定められているように、もしその人がブータン市民権を持っているかということであれば、それは市民権法の曖昧な条項とそのしばしば専横的な適応の仕方のために、懸念を伴うものである。例えば、多くの場合において、市民権法の必須条件である1958年時点にある人がブータンに居住していたかどうかを証明するのは、現在に至っては不可能である。これは登録が曖昧であるためである。ある人々は市民としての身分証明を変えられ、または調査記録から名前を消されている人々もいて、あるいは土地税の領収書やその類の書類を提出することによって居住を証明出来たかもしれない人々も、地元当局からそれらの書類を没収されている。これらの要因は後にもっと詳しく述べられる。第二に、市民法は帰化による市民権を認めているものの、「どのようなやり方であっても、王、国家、またブータン人に反対する言及あるいは行動をしたことがある」という記録を持つものにおいてはこの権利から除外されている。これは、非暴力的表現による政府への反対を含みうる。この法律のもとでは、市民権の適応は「理由を挙げることなく」拒まれる可能性がある。最後に、ドゾングカ語(Dzongukha語、北ブータンの言語)を話すこと、またはブータンの文化、慣習、伝統そして歴史が市民権取得の必須条件ということ自体、南ブータンでネパール語を話す人々を排除する手段として使われうる。

 カテゴリー2(移住したブータン人)も、このカテゴリーに含まれた人々の運命如何では、懸念の理由になりうる。もしブータンから移住した者が他に市民権を持たないならば、国際法のもとで、自発的に国を出たかそうでないかにかかわらず、彼らはブータンに帰る権利を有する。AIは1985年市民法において、ブータンを出た市民の権利に値する条項について関知していない。しかしながら、以前の市民法(1958年市民法、1977年に修正)は一度国を出た後再入国したいという者に対して、市民権の回復までに2年間にわたる再入国のための保護観察期間を課した。市民権回復を拒んだ一つの理由は、人は「国王の政府に対するいかなる活動に対しての責任がある」というものであった。ゆえに、このカテゴリーに属する人々に帰国を許可することを拒むことは強制亡命へと達することから、ブータン政府からの、自発的に移民し、後に帰国を求めるブータン人に対していかなる制限をも適用しないという保証が必要である。

 カテゴリー4も、「犯罪行為」という概念が定義されないままになっているため、同様に懸念の対象になる。またこのカテゴリーに分類される人々をブータンに帰させないことが意図されているならば、国際法に触れうる。ブータンの法律は、政府に対する反対表明に、暴力的・非暴力的という一線を一切引かない。ゆえに非暴力的手段で政府の政策に反対したネパール語を母国語とするブータン人が祖国に帰ることを阻まれる可能性がある。さらに、国際法のもとでは、彼らが犯罪行為をしたかしないかにかかわらず、市民には祖国に再入国できる、無条件の権利を有している。犯した罪に対して彼らを裁判にかけ懲罰を課すことはできるが、亡命を強いることはできない。

ブータン当局によって実行されている強制退去の様々な側面を明らかにするケース

 AIからインタビューを受けた多くの人々が語ったところでは、彼らは1979年から1981年の間に行われたと報じられる最初の国勢調査の後に発行されたブータン市民身分証明書を保持し、ブータンにおける彼らの身分は保証されていると信じていた。しかし、最近に行われた調査で「非国民」あるいは「不法移民」と分類されていたことがわかり、国を退去することを求められた。国勢調査チームによって、最初に口頭で彼らはブータン市民であることと告げられ、しかし後に「不法移民」とみなされ国を出なければならなかった、と語った人々もいた。またある人々は、ブータン国民と分類されていたが、既に東ネパールの難民キャンプに住んでいる親戚がいたため、または政治犯と親戚関係にあったため、地元当局によって「自発的に」移住するように圧力をかけられた人々もいた。いくつかの例では、ブータン市民と認められていたのにもかかわらず一団で退去させられた、ネパール語を話すブータン人の家族からなる村全体[5]のことについて語られた。これは窃盗や、「反国家主義者」要素であると当局にみなされた、地方政府に対する攻撃に対する報復として退去させられたものらしい。ブータン政府によると、難民の中には、政府の評判を悪くするためのキャンペーンの一部として、南ブータンに残っていたネパール語を話す人々を脅していた「反国家主義者」からの脅迫のためにブータンを去った人々もいるということである。

 キャンプの中にいた人の中には、彼ら自身、村民の立ち退きと追放に加わることを命じられた地方公務員だったという人もいた。例えば、サルバン地区(Sarbhang District)の村長は、地方公務員が暗殺された後、村民の市民身分証明書を集めるという命令に従わなければ投獄する、と脅されたと語った。この例は、下に述べられる。他にも、地方当局から、既に国を出た人々の家を破壊せよという命令に従うことを拒否し、「自発的移住申請書」にサインすることを命令され、彼ら自身も国を去ったという人々もいた。

国勢調査実施の結果としての強制追放

 下に含まれる例証的なケースは、その祖国がブータンであり、そして他にいかなる国籍も持たない人々が調査中に「非国民」として分類され、引き続いて国を退去することを強いられたことを実証する。

 1985年ブータン市民権法は、ある人がブータン市民として登録されるためには1958年にブータンに居住していたことを証明しなければならないとしている。1988年に始まった調査実施期間中、当該者がブータン市民であると認められるためには、1958年の居住証明を調査チームに提出しなければならなかった。

 ネパールでAIがインタビューしたブータン南部の人々は、調査チームがどのように働いたかを語った。彼らは、調査チームが村に到着すると、家族の長が、村長に求められ、ブータン市民身分証明書、結婚証明書、地租領収書を含む土地所有の公的書類、身元証明書(出生証明書に似た書類)などを含む書類を持ってチームまで出頭する。これらの人々は、1958年の地租領収書、または両親ともブータンで生まれたことを示す身分証明書を提出することが出来、正真正銘のブータン市民である(調査で用いられた7重の分類システムの中のF1)と分類された。両親のうち一人がブータンで生まれたことを証明する身元証明書を提出することが出来た人々は、F4あるいはF5と分類され、市民権資格ははっきりしないままだった。どちらの書類も提出できない人々は、「非国民」(F7)と分類された。家族の代表者は口頭では彼と家族がどのカテゴリーに置かれるかを告げられたが、多くのケースにおいて、彼は調査チームから個々の家族のメンバーがどのカテゴリーに割り当てられたかを示すいかなる書類も渡されなかった。[6]

 ある人が1958年にブータンに居住していたことを示すどんな書類でも、市民権の証明として受理する[7] と政府は表明したが、AIがインタビューした南ブータン出身の人々は、実際はそうではなかったと語った。もし彼らが1958年ではなく、前年の文書を提出しても、それは受理されなかった。例えば、1958年分は無いが、1956年あるいは1957年の地租領収書を持っていた人は「非国民」として分類された。身分証明書を持っているが1958年の地租領収書、または身元証明書を持っていない人の場合は、「非国民」と分類された。身分証明っよはしばしば調査チーム、あるいは他の地方公務員によって強奪され、没収された。

 非国民と分類された人々は、彼らは地方公務員、あるいは調査チームから短期間の内に国を去るか、罰金を払うか牢屋に行けと言われた、と語った。初期(1991−1992)に国外退去した人の中には、軍人に悩まされたり脅されたりし、また他の村民が殴られたり女性が暴行されたりするのを目撃し、彼ら自身がそのような扱いの犠牲になる前に国を去る決意をした、という人もいた。それより後に退去した人々は、彼らを追放するための、それほど残忍ではないが有効さにかけてはまったく引けを取らない方法について説明した。

 1993年7月にネパールに向けてブータンを去った、シュッカ(Chhukha)地区出身の28歳の農民は、次のように証言した:
 

 私の父と伯父は、ブータンに定住するために移住し、私はそこで生まれました。私の家族は2回にわたって一緒に調査チームまで出向きました。最初のとき、私は身分証明書を持っていきませんでした。2度目は、調査チームから私の1958年度の地租領収書と身分証明書を求められました。地租領収書は伯父の名前になっていました。調査チームは1958年度の地租領収書が伯父の名前になっていたため、私の身分証明書を返すことができないと言いました。私はF7(非国民)と類別され、役人は私に6日以内に国外に退去しなければならない、さもなくば6千ルピーの罰金を払うか、あるいは6ヶ月間の牢屋行きだと言いました。私は貧しいですし、国を去りました。

 シュッカ地区出身の工場労働者は、何が彼女の身にふりかかったか説明した:

 1993年のシュッカ地区での国勢調査実施中に、私は1958年度の地租領収書を持   っていなかったために、F7(非国民)と分類されました。私は持っていたすべての地租領収書を調査チームに引き渡しました。私はブータンで生まれましたが、私の両親がブータンで生まれたかどうかについてはわかりません。私は工場労働者で、2週間分のお給料をもらえるところであり、そのために家に残っていました。ある日5人の兵士が家にやってきて、私を地面に押し倒しました。私の15歳の娘は怖くなり、森の中に逃げました。私はとても怖くなり、3人の子供を連れてただちにブータンを出ました。


 また1993年にシュッカ地区を去った人に関する別のケースでは、当該者は、彼の両親と兄弟が既にネパールに向けてブータンを去ったという理由で非国民と分類された。彼は、どうやら家族が退去したということだけで、地区行政の役人は彼の市民身分証明書と地租領収書を没収し、家族と同じようにネパールに出発するように命令した、と語った。彼は11エーカーの土地を残してきたと言った。

 あるケースでは、最近の国勢調査中に正真正銘のブータン人と分類された人々が、その 後、見たところでは地方政府の役人の判断のみを基に、市民権を奪われている。ある女性が彼女のケースをAIに次のように語った。
 

 1992年6月、私の地区での国勢調査実施中に、私はファンツショリング(Phuntsholing)にある国勢調査事務書に赴きました。調査チームから私の夫はどこか、と聞かれ、私は3年前に離婚したことを話しました。私の両親を連れてきて彼らに引き会わせるように言われましたが、私は彼らが既にブータンを去っているといいました。すると彼らは私に、両親がもうそこにいるならばなぜネパールに行かないのか、と聞いたので、私は独身の女性にとってはそう楽なことではないから行きたくないのだ、と答えました。彼らはまた私の店のことを詳しく尋ね、身分証明書を出すようにいいました。ですから私は村長に会いに行き、彼は私の父が副村長であったため、村の長老達から私の身元証明書を手に入れることが出来るだろう、と教えてくれました。私は調査チームに身元証明書を提出し、彼らは私を「ブータン国民」(F1)、私の子供達を「ブータン人の母親と外国人の父親を持つ子供達」(F4)と分類しました。私の元の夫はシッキム(Sikkim)で生まれだったからです。そして1993年9月中頃、私達は村長の家での会議に呼ばれ、彼からダングパ(Dungpa)、つまり副地区長から手紙が届き、そこには村民を類別したリストが書かれてあり、私達がF7(非国民)と分類されたことを聞いたのです。私が理由を聞いても、村長はもうなす術がないというばかりでした。あくる日、私は持ち物を一緒に持っていっていいものかを聞きに、また村長の家に行きました。彼は、私がそこにいるところを見られたら、村の長老は逮捕される危険があり、また私がこれ以上国にとどまれば、軍や警察は私を逮捕するだろう、といいました。だから1ヶ月後、私は国を後にしてネパールに来たのです。


 あるケースでは、夫婦が調査チームによって別々のカテゴリーに類別され、夫婦の一人がブータン人であった場合でさえも、家族は結果的に国を去らなければならなかった。[8] 例えばサムドラプジョンカー(Samdrupjongkhar)地区、サムラン(Samrang)村出身の農夫は、彼は正真正銘のブータン人と類別されたが、インド生まれの彼の妻はF4と類別された。彼はその時、妻がF4であるため、8,500ルピーの罰金を払うように命じられた。彼にはその額を払うことは出来ず、彼、妻、そして7人の子供達は国を去った。また別のケースでは、1958年度の地租領収書を提出できなかったサムチ(Samchi)地区出身の大工は、子供達も一緒にF5(ブータン人の母親と非ブータン人の父親との間に生まれた子供)と分類された。一方彼の妻は、身元証明書を提出できたため、ブータン人と分類された。家族は副地区長から、彼らがF5と分類されたため、国を退去するように命令し、もし退去しなければ多額の罰金を課せられるだろうと言い渡された。家族は補償を受け取り退去する以外に選択肢が無いと感じ、国を出た。

他人が犯した罪に対する全体懲罰の形を取る村落共同体の強制追放

 インタビューを受けた何人かの人々は、AIに、ある村出身の大人数のネパール語を話す人々が、当局が「反国家主義者」の犯行と判断した犯罪が起こった後で、全体懲罰の形でブータンを強制的に追われたケースについて語った。

 例えば、1992年5月、サルバン(Sarbhang)地区で起きた、「反国家主義者」の犯行とされたチミ・ドージ(Chhimi Dorji)副地区長(dungpa)の暗殺後、大規模の立ち退きが報告されている。AIは、サルバン(Sarbhang)地区、ゲイレグファグ(Geylegphug)出身の人々にインタビューをした。彼らはこの事件中に強制的に亡命させられた、と語った。新しい副地区長に国を出るように命令され、脅されたのである。彼らの語ったところによると、1992年6月、彼らの住む一角のすべての村民がすべての書類、身分証明書などを地方当局に無理やり提出させられ、「自発的移住申請書」に署名させられた。翌月、ブータン国王がその地区を訪れ、村民に移住しないよう説得した。しかし国王が去った後、村民は供述によると、軍と警察によって脅され、新副地区長に大人しく立ち去るように、さもないと「どんな手段を使っても」強制的に退去させる、と言われた。村長は政府の高官から出された、村民の身分証明書を集めよという命令に従わなければ投獄する、と脅されたと言われている。補償の支払いを待つ間、村民は町へ移ったが、そこではぶらぶらしている者は誰でも投獄する、という通知が出された。村民はトラックを借り、彼らのうちの半分がもらえるはずの補償を受け取っていなかったが、国を去った。

 ブータン政府はゲイレグファグ(Geylegphug)からの人々の出発の背景に関して、異なる見解を発表した。[9] それによると、家族達は正式な手続きで移住することを申請しなかったが、彼らの申請書の受理が間に合おうと間に合わないと、2日後にはネパールの難民キャンプへ向けて出発する、といった内容の最後通牒を地区行政官に送りつけた、ということだ。当局は、家族達に首都、ティンプー(Thimpu)から到着する、2人の高等裁判書裁判官、王立詰問委員会の議長、そして家省のヅオンカーグ(Dzongkhag)地区調整部官から成る高等調査チームが到着するまで待つように説得したと言われている。政府によれば、調査チームは地方当局に対して行われた強制追放の申し立ては偽りであり、「国際的な同情と反国家的運動の支援を得ようとするプロパガンダの一部を形作るものである」、との判断を下した。

「自発的」移住

 ネパールの難民キャンプでAIのインタビューを受けた人々は、彼らが地方政府役人から、彼らの土地に対する補償を受け入れ、自分の意志で国を退去するという内容の「自発的移住申請書」に無理やり署名させられたと語った。下に、いくつかのこのような事例が述べられる。インタビューされた人々の中には、申請書が彼らが話しも読めもしない北ブータンの公式言語であるドゾングカー(Dzongkha)で書かれていたため、申請書に何が書かれているかまったくわからなかったが、地方政府役人からはその内容について何の説明もされなかった、と語った人々もいた。別の人々は、申請書に何が書かれているかは知っていたものの、既に従わなければ多額の罰金や投獄である、と脅されていたため、署名するより他の選択肢はなかった。ある場合には、インタビューされた人々によると、申請書への署名と補償の支払いは政府の役人によってビデオに録画されたということだった。その時以来、AIは政府当局によって、移住は自発的に行われたことを「証明する」ために、前記のようなビデオを見せられたジャーナリスト、及びブータンへの旅行者が存在することを知った。

 「自発的移住申請書」に署名させられたと感じた、と語った人々は、彼らが受け取った報酬は彼らの土地の価値に値しないものだったとも語った。中には、署名をしたにもかかわらず、補償をまったく受け取らなかったという人々もいた。また、役人が教育費、医療サービス費、また場合によっては投獄されている間の費用、などとして補償額から控除したとも言われている。

 ある場合には、地方行政局の命令で、ブータンを去った家族の家は破壊された。そのような破壊行動に参加することを拒んだ人々は、彼ら自身無理やり「自発的移住申請書」に署名させられ国を追われた。1993年1月にブータンを去ったチラング(Chirang)出身の農夫は、AIに彼と別の5人の村人は、国を出た人々の家を解体するようにという村長からの命令に従うのを拒んだという理由で、「自発的移住申請書」に署名を強いられた。彼らは破壊のための公式命令を見せてくれるように頼んだが、村長は口頭で命令を受けただけだ、と言った。従うのを拒んだ6人はドゾング(dzong)、行政官のところに呼び出され、そこで地区長官によって、家を破壊せよという命令に彼らが従わなかったため、彼らは「自発的移住申請書」に署名し、土地に対する補償を受け取らなければならないと言い渡された。もし彼らがそれを拒むならば、多額の罰金と3年間の入獄に直面するだろう、と地区長官は言った。農夫は彼の土地の価値よりもずっと低い補償を与えられ、彼の市民身分証明書と地租領収書は没収された。6人の村民すべてが同様の仕打ちを受け、全員国を去らねばならなかった、と彼は語った。

 AIがインタビューしたもう一人の農夫は、彼もまた「自発的移住申請書」の署名することを要求され、1993年10月にブータンを去った人である。彼は、1990年に同年9月の抗議運動に参加し、「反国家主義者」に寄付を渡した疑いで、2ヶ月半の間投獄された。彼は王の恩赦で釈放された。釈放後、彼は家に帰り、土地を耕した。しかし村長が、その価値の25%を支払うからと約束しつつ、オレンジの収穫を毎年取り上げた。農夫は、この金を一度も受け取らなかったと言った。1993年後半、彼は警察署または軍キャンプに何度も呼び出され、なぜまだブータンに住んでいるのかと聞かれた。地区行政官と村長に「自発的移住申請書」に署名するように言われ、もし国を去らなければ「射殺する」と脅された。殺されるのを恐れ、彼は家族と国を後にした。

 またある人々は、ただ彼らが既に国を出た人々と親戚関係にあるというだけで「自発的移住申請書」に署名させられ、国を追われた。例えば、その証言をAIが入手したサムチ(Samchi)地区、シブソー(Sibsoo)出身の67歳の男性には1990年の抗議運動に参加し、その後ブータンを追われた息子が2人いたが、彼自身無理やり退去させられた。彼の証言によれば、彼の息子の名前は1991年の国勢調査記録からは消されていた。1992年の間中、彼は息子達が既に国外退去しているという理由で、「自発的移住申請書」に記入し退去するように、5通の書面通知、口頭命令などを通じて命令された。彼は命令に従わず、1992年6月22日に逮捕された。シブスー(Sibsoo)刑務所に15日間抑留された後、彼は自発的に国を退去するという文書に署名し、釈放された。彼は、数人の役人の立会いのもとに、地租領収書と身元証明書を提出されるように求められ、これはビデオに録画された。彼は、テーブルから保証金を取った時、特にカメラの方を向くように要求された、と語る。しかしながら、彼はブータンを去りたくなかった。同じように国を去るように命令された近隣の村に住む、他の3家族の人々、そして一人の友達とともに、1993年に彼はティンプー(Thimpu)への旅行許可を申請した。彼ら5人は全員逮捕された。ある晩一人は脱出したが、他の4人は刑務所で3日過ごし、その後、地区行政官の目の前で15日以内に国を出るという文書に署名した。しかしこの男性は、家に帰った。彼は、1993年11月25日に息子の所在について保安部隊から尋問され、そして役人達が出発する前に、村民たちに彼の家を破壊するように命令した、と語った。彼は村民達に家を壊さないように懇願したが、11月28日に役人達がまたやってきて、村民達に使えそうな材木を自分達のキャンプに運ばせながら、自ら家を破壊した。2週間ほどたってから、保安部隊は家の残りを燃やし尽くした。その男性は小屋に移ったが、村民ボランティア[10]から、彼が既に申請書に署名をしていることから、早く彼に国を退去させるように圧力をかけられていると聞かされた。彼は国を去った。

 これらの実施は1994年まで続けられたことは、1994年4月9日のサムチ(Samchi)地区、ドロカー(Dorokha)副管区のデンチュカ(Denchuka)とミオナ(Myona)区からの284人の難民のネパール到着によって説明される。彼らの中には、1994年3月24日に、地区行政局からの指示のもとに、村長補佐から彼らと家族に翌日までに家を明渡すように命令されたと主張する27人の家族の代表者がいた。1994年3月24日付けで村長から10人の村長補助宛てに出された回状のコピーによれば、もし村人たちが翌日までに退去しなければ、彼らを追い出すために警察が出動する、とあった。

 報告によると27世帯の家族の代表者の大部分は、国勢調査中には「出戻り移住者(F2)」として登録されていたという。しかし、彼らの多くは1958年度の地租領収書を持っていたと主張した。その中の一人、テク・ナス・アディカリ(Tek Nath Adhikari)は、副地区官(dungpa)のオフィスに呼び出され、彼の兄が既に退去しているので、彼も国にとどまることはできないと言われた、と語った。彼は、1994年3月25日にデンチュカ(Denchuka)の村長から、国を退去するようにとの個人的な警告を受けた。その写しを、AIも入手した。また別の人々は、1月からずっと副管区行政局のオフィスに呼び出され続け、自発的移住の申込書に署名するように圧力をかけられ続けた(彼らにその申込書のコピーは渡されなかった)。数人の人々は、彼らは身元証明書を提出できなかったために、国外退去しなければならないと言われた、と語った。また一人は、彼は兄が「反国家主義者」であるため国外退去しなければならないと言われたという。

 3月25日に家を出た後、彼らはdungpa(副地区官)に指示されたとおり、サムチ(Samchi)町に集まった。そこで、4月7日か8日に、およそ12人の家長が一人ずつ、dungpa(副地区官)による指示を受けた後、ビデオに撮られた。その指示とは、退去の理由を尋ねられた時、彼らは自分達の意志で国を去ると答えることであり、もしそう答えなかったら「彼らはそれ相応に対処されるだろう」というものだった。テク・ナス・アディカリは、一人脇に連れて行かれ、彼がビデオの前でブータンには帰りません、と供述をしている間には、ピストルが背中の下の方に押し当てられていた、と語った。

 難民キャンプに辿り着いた人々の話は、1994年4月9日に政府新聞、クエンセル(Kuensel)紙に発表された報道レポートの記事と異なっている。新聞には、地方行政局は家族たちに退去しないように助言したと主張し、一度国を出た者はもはや市民ではないということを指摘した。3月26日付けの国王の、人々に退去しないよう促す法令が彼らに読まれてあった。記事は国を出ると言った個々の人を引用したが、どうして退去するのかはっきりした理由を彼らが挙げなかったことを指摘している。

 これらの家族の代表者達は、国王の法令は彼らに4月7日のみに読まれた、と言った。これの結果として、5家族と個人2人がブータンに残った。退去した人々は、クエンセル紙の記事が報じたように、彼らがブータンを永遠に去る、または彼らは自分の自由意志で国を去るのである、などの誓約を行ったことは認めた。彼らはこれらの誓約は圧力をかけられたため、あるいは挫折して行ったものだ、と語った。

 これ以来ブータンを訪れる人々は、これらの人々がブータンを去らないように促され、しかし最終的にはトラックで国境を去っていくビデオを見せられている。

ネパール語を母国とする人々が、南ブータンから強制的に追放されているという申し立てを受けてのブータン政府の行動

 今はネパールの難民キャンプで暮らしている人々から集められた証言は、彼らを追い立てるために取られた公式手段の一貫した図式を提示する。しかし、このネパール語を母国語とする人々を追い出そうとする地方役人が取った粘り強い行動は、南ブータン人が国を離れるのを目の当たりにすることを望まない、と繰り返し訴え、また彼らの移住を食い止めようと数々の施策を練ってきた中央政府が与える印象と矛盾する。

 前に言及したゲイレグファグ(Geylegphug)の例にみられるように、強制的な追い立てによるいくつかの主張は、調査の対象になってきた。AIが知る限りでは、最初の調査は1992年1月にブータンの国王の命令において行われ、強制追放、兵士と警察からの、また同じくチラング(Chirang)とダガ(Daga)地区の地方行政局の役人などによる嫌がらせに対する申し立てが調査された[11] 。その報告書は公になっていないが、さらに詳しい調査のために高等裁判所へ送られた。これらの調査の結果として、不動産を公平ではない価格で買うために、この状況を利用したと報告されるチラングの地方裁判官の解雇、および地方行政間の格下げが行われた。

 1992年のあいだ、政府は人々の移住を防ぐべくために様々な施策を導入したようである。ブータン国下院の第71回議会中に、南部地区のために最終決定がなされた開発計画およびプログラムはそれ以前より大きいものであると報道された。国王もまた、すべてのネパール系市民を1992年度の郊外税、および必須の開発事業への労働貢献から除外した。国王は「反国家主義」として入獄していた何千もの人々に恩赦を与え、いかなる正真正銘の市民を国外に追い立てることは、どんな人間にとっても懲罰に値する罪となる、と宣言した法令を出した。

 チアング(Chiang)とダガ(Daga)に訪問中、調査チームはネパール語と英語で書かれた国王の法令を配り、地区開発委員会にその言わんとする重要な点を説明した、と報告されている。国王は、彼の市民権を放棄し、他国へ移住したいという希望を持つ者は誰でもそうする自由があるが、いかなる行政官、または保安官においても、ブータン人を脅迫し無理やり国外退去させることは深刻な法律違反、そして懲罰されるべき犯罪となる、と述べた。いかなるブータン国民が行政官、または保安官によって脅迫され、国外退去に追いこまれた場合、市民はそのケースを直ちに自治省、地方裁判所、あるいは高等裁判所に報告すべきである。もし必要とあれば、嘆願書を直接国王に提出することも可能である。

 ブータン政府によると、強制的な追い立てに対する苦情は、国王の法令以来一切届けられていないということである。

 国王は何度にもわたって南ブータンの村を訪れ、村民を移住させないように説得しているということである。国王はまた、地区行政官に対し、日常業務的に移住申請を受理せず、なぜ移住を希望するのか、また彼らが本当に移住したいかどうかを突きとめるように指示した。また、国王は当局によって「反国家主義者」あるいは政府反対者だと目される人々を立ち退かせようとする下院の提案を拒否し続けているということである。

 これらの施策にもかかわらず、ネパール語を話す人々は1994年中頃も次々とブータンを去っており、また、上記のケースが如実に表しているように、脅迫されて立ち退いたということが報告され続けている。
 

付記・後記

  1. 東ブータン出身の、サーショップ(Sarchop)系ブータン人も難民キャンプに滞在して  いることが報告されている。

  2.  
  3. これらの事例についてのさらなる情報を求める向きには、AI発行の "Bhutan: Human rights violations against the Nepali-speaking population in the south, December 1992, AI Index: ASA 14/04/92" を参照のこと。このレポートは、南ブータンに蔓延する状況の背景をより詳しく説明し、主に1990年と1991年に報告された専横的な逮捕、拷問または強姦などを記述している。

  4.  
  5. 例えば、世界人権宣言の第13条は次のように読まれる:「すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。」(訳注:日本国外務省仮訳文)

  6.  
  7. 国連難民高等弁務官によれば、庇護を求める1、072人の人々が、1994年の最初の5か月にネパールのジャパ(Jhapa)地区、カカルビッタ(Kakaruvittta)保護センターで保護された。これらの人々のうち、90%がほぼ収容所を求める人々であると判断された。

  8.  
  9. 「村落区」という名称は、一般的に3人から6人の村民のグループに対して使われる。

  10.  
  11. AIの代表が1992年1月にサムチ(Samchi)で会った地方政府の役人は、このプロセスを少々違うように説明した。彼らは、申請書はそれぞれの村民の詳細な情報と一緒に書き込まれ、次いで調査チームのリーダー、地区行政官および村落委員会のリーダーによって署名された、と話した。4枚のコピーが取られ、内務省、副官区省、そして地域省と村落長に送られる。彼らの分類に同意できないものは、まず最初に村落長に、そして司法の問題として扱われる地域レベルで苦情を申し立てる事が出来る。

  12.  
  13. 情報局によって発表された、1992年8月12日付けの"Anti-National Activities in Southern Bhutan"を参照されたい。当該者が1958年にブータンに居住していたことを示す証拠書類はどんなものであろうと、(土地所有証書、または土地の売買、贈答、遺産などを示す書類、またはあらゆる種類の納税書など)市民権の決定的証明として受け取られた。

  14.  
  15. 1988年11月に、国王は下院にブータン市民と結婚した外国人に、両親と子供達、また夫と妻が離れ離れにならないように、居住許可証を発行するべきだと提言した。下院は、ゆえに、ブータン市民と(1985年市民権法よりも以前に)結婚した非ブータン人には、医療、教育など真正ブータン人が利用できる社会福祉を享受する権利を与える特別居住証明書が付与されるということを決定した。AIがインタビューした、家族のメンバーが様々なカテゴリーにまたがって分類されてしまった家族は、特別居住者証明書を与えられていなかった。

  16.  
  17. ブータン、ティンプーの情報局が1992年8月に発表した"The Government of Bhutan's Anti-National Activities in Southern Bhutan, Department of Information, Thimpu, Bhutan, August 1992, pp 13 - 17."の13ページから17ページを参照されたい。

  18.  
  19. 村落ボランティアは、彼らの村を護るため、地元のグループを形成する。AIは、これらのグループの性質に関しては不充分な情報しか入手出来ていないため、当局に情報を求めているところである。

  20.  
  21. より詳細は、"Amnesty International, Bhutan: Human rights violations against the Nepali-speaking population in the south, AI Index: ASA 14/04/92, December 1992."を参照。
translated by K2
以上の文は、アムネスティ・インターナショナルが1994年に出したブータン難民についての報告書の日本語訳です。これは私的に翻訳したもので、誤訳や原文の意味を忠実に反映していない場合がありえます。他所に引用する際は、必ずアムネスティ・インターナショナルの英文の原文にあたってください。

     表紙へ戻る