難民とブータンの安全保障

Rakesh Chhetri著
(Kathmandu Post 紙 2002年1月5日号掲載)

 ついに、2001年12月15日、のろのろと進んでいたネパール・ブータン合同立証チームが立証を請け負っている7つの難民キャンプの中の1つ、クドゥナバリキャンプにおける立証、あるいはインタビューが完了した。立証は2001年3月26日に始まった。クドゥナバリは7つのキャンプの中でも最も小さく、1963世帯中に12447人の難民がいる。合同立証チームは264日かけて(内仕事日153日)1935世帯中の12090人の難民立証を完了した。

 証拠:合同立証チームは、口頭、あるいは彼らが所持する文書に基づいて難民の身分を証明することを課せられていた。市民権カード、政府任命書、納税受領書、家番号、運転および銃免許などを含む難民について入手可能なすべての文書を、チームは調査し確認した。そして、インタビューされたほとんどすべての難民が、ブータン王国政府によって彼らに発行された何らかの文書を所持していることが明らかになった。これは彼らの出自、または彼らのブータンでの最後の法的習慣的住居を証明するものである。

 次のステップ:クドゥナバリ・キャンプでの立証完了の後は、以下のような段階が予測される。クドゥナバリに滞在する立証された難民の本国帰還の開始、立証された難民のカテゴリー分類の導入、残る6つのキャンプでの立証の着手、そして7つのキャンプ内のすべての難民が立証された時点での難民のカテゴリー分類である。立証プロセスは、時間がかかったものの潤滑に行われた。難民は立証に穏やかに協力した。

 しかし、分類プロセスは立証と同じように順風満帆とはいかないだろう。両政府が個々の難民単位でそれぞれのカテゴリーに対する彼らの立場を調和させる必要がある。未だに、3つのカテゴリー(強制的にブータンを退去させられたブータン人家族、犯罪を犯したブータン人、非ブータン人)における両政府の見解には大きな隔たりがある。一つ一つのカテゴリーと、難民一人一人の分類については政府双方の間で不調和が見られるだろう。再び、分類プロセスのあいだ、難民は立証の時ほど受動的あるいは忍耐強くしてはいないかもしれない。彼らが本国帰還を期待できないカテゴリーに分類されたならば即刻、間違い無く問題を引き起こすだろう。

 地政学:ブータンの現在の政治危機と難民問題の根幹がブータンの地政と人口政策にあるため、難民危機は2国間のメカニズムによっては、すぐに解決されないだろう。この20年間のブータン王国の様々な政策は、ブータンからネパール語を話すロシャンパを根こそぎにし、いかなる手段を使っても彼らの数を減らそうというドゥルクパ(ウンガロング)主導の政府の動機を反映するものである。ドゥルクパ化であろうと、ブータン化であろうと市民権、結婚法の適用、あるいはNOCであろうと、すべては南部のロシャンパに向けられている。政府は彼らの優勢を保持するためロシャンパの人口を25パーセントほど減少させることによって、ドゥルクパ(ウンガロング)に有利に働く人口バランスを実現するべくさまざまな攻略を考案した。

 安全保障:ブータン政府は、まだ以下のように見解している。最近、政府が所有するクエンセル(Kuensel)紙上に、6部からなる政府後援の記事が掲載された。その記事は滑稽にも、「ネパールの難民危機を解決しようとするいかなる試みも、ブータンの安全保障上の懸念と関わらざるを得ないであろう。なぜならば19世紀後半に移民してきたネパール系の人々は政治的安定を脅かす危険な存在(volatile)であるからである。」と論じている。このように、ブータンを支配しているエリートは難民の本国帰還を無理に作り上げた安全保障問題と結び付けたのである。このことは、ブータンを支配するエリート層がこの難民問題を解決し、ネパールのキャンプからブータンの「ネパール系の人々」を連れ戻す意志などないというブータンからの明瞭な徴候である。

 何世紀にもわたってブータンに住み、その指導者を受け入れてきたある民族全体が、突然治安にとって「爆発する危険をはらんでいる」であるとみなされ、地政的な犠牲(スケープゴート)になった。他民族国家では、国家の主流にすべての民族をとりこむのは国家の責任である。将来、彼らはシャルチョプカ(東部に住むインド・モンゴロイド系のツァンラ/ツァンラカの別称:訳者注)をもまた支配エリート層にとっての脅威であるということで追いやるであろうか?チベット人も、同様にして90年代半ばに追放された。政治の指導権に対する個人的な安全保障への脅威は、国家の本質的な安全保障システムと同等にはなり得ない。政府と指導者たちは現れては消えていくかもしれない。しかし国家は存在し続けるのである。

 ブータンは、政治の指導者たちへの安全保障と、国家の安全保障とを、識別することが出来ていないようだ。支配層にとっては、「社会的多元主義は、慣習、伝統、そして文化の多様性が、その国をより豊かにするようなもっと大きな国にとってのみ役に立つものである。ブータンのような小国は、社会的調和や国民間のまとまりの成長を邪魔しかねないそのような多様性の贅沢を味わう余裕はない」のである。―この「民族の結合」マントラは1990年、ブータンの危機の初期の段階中に、国王によって伝えられた。後知恵でさえそのような文化浄化政策を放棄する代わりに、それ(「民族の結合」マントラ)は国の安全保障の理解に臆せずに組み入れられた。

 その記事は、ブータンは「長期的な安全保障のために、文化的結合や中立といった非軍事的な選択肢をえらんだ。」と主張する。なぜ他の非軍事的選択肢は採られなかったのか?なぜ「文化的結合」が採択されたのだろうか?―それが支配層のエリートに都合がよかったからである。文化的結合とは実際、文化の浄化である。それこそブータンがネパール語を話すブータン人に行ったことである。他民族社会における、国家後援の文化結合は危険であり、国家を分断する可能性を秘めている。人間は、彼らの文化と言語に対してはとても感傷的で情緒的であるものである。現代において、「文化的結合」の道を辿ることが出来る国家は一つとしてない。歴史が、文化とアイデンティティが衰退していないことを立証する。国家の文化の多様性はその国を必ず豊かにし、また安全保障を強化するのである。

 様々な「非軍事的選択肢」は包括的展望における国家安全保障システムを強化するために用いられることができる。自由な民主主義、人権、法の秩序、司法の独立、権力の分離、活気があり機能している市民社会、そして政党は、最良の利用可能で非軍事的な「安全保障の選択肢」であり、国家の安全保障を強める。これらの要素は、今日の支配エリート層の権力の侵食を意味するため、一度も考慮されたことはなかった。ブータンが「文化的結合」のような「非軍事的選択肢」を好むことは、全体主義への道を表す。文化の結合はまた「国家との意見と視野の一致」を意味し、国家の見解を受け入れないこと、または反対することは反国家分子や裏切り者とみなされる。文化の結合は封建制度、そして古色蒼然とした封建的かつ非民主主義システムへの追従、従属を助長させるために捏造されたものである。

 この画策された安全保障の概念を背景に、ブータンは80年代の初め、いくつものうわべだけで不誠実な国家統合政策を開始したが、それらは完全に失敗に終った。異民族間の結婚に金銭的な手当てを施すことによって国家の統合政策が出来るわけなどない。また、衣服や言語規約を強要することによって「文化結合」が達成されるはずもない。ブータンの国家としての地位への主要な必要条件は、国家システムの統合および防衛である。そしてそのシステムでは、すべての民族、文化、言語そして宗教グループが、共通の「場」を共有するのである。

 外国の役割:現状の下では、ブータンが自国の難民を本国帰還させるという可能性は全くない。ブータンと世界中の他の難民危機の教訓は、難民は他の国あるいは国々が圧力をかけた時のみ戻ることができる、ということだ。そしてブータン難民の文脈では、その他の国とはインドである。難民問題紛糾の解決におけるインドのぬきんでた役割を決して無視すべきではない。インドの役割は、ブータン難民の合法である本国帰還への願いという問題に関しては、最も重要なただ一つのファクターである。悲しいことに、インドが2つの隣国間に仲裁に入りたくないということは、また別の問題である。

 しかしながら、友好的なインドの政府は、無力な難民がブータンに帰ることが出来るように、その「好意」を利用して難民問題を解決する手助けをすべきである。それは隣国の内政干渉ではなく、人道的な行動になるだろう。国際法もまた、長期にわたる未解決問題に対する「好意」行使のための条項を提議している。インドはブータン、ネパール、そして難民コミュニティーでは尊敬されている。難民が彼らの問題を国際フォーラムに持ち出したのは、ただインドの前向きな役割が欠如していたからなのである。

著者は安全保障および戦略の問題を専門とするブータン人である。

これは私的な翻訳です。引用などに際しては必ず原文にあたってください。

原文は以下のリンク
http://www.nepalnews.com.np/contents/englishdaily/ktmpost/2002/jan/jan05/features.htm#3


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