訛る(なまる)教師は ナゼ多い?   しょの2


 なぜ あの教師(前項)の訛りは、都会にいても治らないのか?
今回は これを考える。

教師の住む世界と一般市民の住む世界が違うということは、
巷間よく言われるところだ。
俺の知り合いの新米教師も、そう言っていた。
職員会議に始めて出席して、彼らの世界観の不思議さを
痛感したというが、このことは主題から離れるので
いまは書かない

で、俺の独断と偏見だが、教師には、我は我と割り切っている人が、
他の職業人より多い気がする。
大人だからうわべの付き合いは悪くないし、愛想もいい。
ただ、その内なる頑強な性質が、自他をかたくなに分けている。
以下、けして教師をばかにしているわけではない。念のため。
俺の周りでは、尊敬できる先生が大多数だ。

自分は自分と思っているから、都会の空気に染められないし、
染まろうともしない。
よって、田舎訛りをみっともないと感じることもないので、
いつまでたっても イントネーションが治らないし、治そうともしない。
「KY」などというが、われこそが正しい空気を発散してると思っているふしがある。
もっとも、ことほどさような強い自覚がなければ、
何十人ものガキんちょを束ねることなど、到底できないだろう。
教育者には 必要な条件なのかもしれない。

あと、あの国語の先生って 音感もすこし悪いのかね?
音感がよければ、しゃべりのイントネーションのおかしさは
メロディーの不自然さとして自覚されていいはずなのに。
それとも、おかしな抑揚を、これぞ我が語調、彼女の個性と、
本人もNHK番組担当者も、後生大事にしているのかしらん?
訛りが悪いというのではない。
正しい日本語教育に支障をきたすことを懸念するのである。

ここで思い出されるのが、宣教師。
一部キリスト教の神父さんや牧師さんの、お説教するときのあの
独特な抑揚である。
落語でも、「宗論」などで、身振り手振りと共に、伝道師のあの口調をおもしろおかしくなぞっているくらいだから、あなたも「ああ あれか」と
思い当たるはず。
きっとあのイントネーションは、迷える子羊を導くのに
ふさわしいものなのだろう。俺など思わず聞き入ってしまう。

そういえば、教師も「聖職者」と呼ばれてましたっけ。