告別〜富士見村の叔母へ |
大好きだった叔母が逝った。 65年の生涯だった。 彼女は8人兄弟の末っ子である。 すぐ上にうちの親父がいる。 女将(妻)は、泣いた。なにしろ、嫁として、私の親類のなかで一番頼りにしていたのが叔母だったから。 舅より早く起きられない自分を悔いたり、 前夜し残した洗い物を 翌朝舅に任せてしまう自分を恥じたり、 嫁としての勤めを果たせないことにうしろめたさを覚える日々、 そんな女将に、叔母はいつも優しく声をかけてくれた。 「親父さんにまかしときな。 働くのが 好きな人なんだから。」 あとで、そんなやり取りが電話であったことを聞くにつけ、 解決してやれない嫁の悩みをまるく治めてくれる叔母の存在に 感謝の念を 禁じえなかった。 女将も どれだけ救われたかしれない。 自家菜園でとれた野菜を たくさん送ってくれた。 親父の体調を いつでも気遣ってくれた。 そして、 おふくろが他界したとき、 3日間、我が家に泊まって、われわれの世話をやいてくれた。 きっと叔母は、 誰とでもそんな風に付き合っていたのだろう。 我慢することも、たくさんあったと思う。 でも、他人の笑顔のためには 自分を後回しにする人であった。 そして 親父の、一番の電話相手も やはり彼女だった・・ 酒を飲めば、きまって、2本目のビールの肴は 叔母の声だったのだ。 女将が、何度も口にする。 「いいひとは、なんで皆早く 死んじゃうんだろう」 去年の夏、狭山観音巡礼の道中、叔母と携帯電話で 話したことを思いだす。 「私のからだのことも よーく拝んでおいてね」 「まかせてください、叔母さんがずっと元気なように頼んどきます」 告別の祭壇に飾られた写真の中の叔母は、 フラダンスの衣装を着ていた。 彼女に ダンスの趣味があったことを 我々は、初めて知った。 叔母のほうこそ、ほんとは もっと自分のことを話したかったのかもしれない。 きっといまごろ、お袋を相手に、 ハワイアンの講釈でもしていることだろう。 この世で見せられなかった 色鮮やかなムームーをおふくろに押し付けながら 笑い転げていることだろう。 合掌 2006.8.28 |