形見のカメラ

昨年暮れ、かみさんの父が他界した。73歳だった。
草花を愛したその人は、いつも穏やかな笑顔で 俺達をむかえてくれた。
うちの店の前に置けるようにと、丹精された庭先のプランターは、季節の花でいろどられていた。
ありがたく頂戴して、店先に飾らせていただく。どうかすると、日当たりのかげんで、せっかくの花をじきに枯らしてしまうことがあった。けれども親父さんは
「また来年こしらえるから」と言って、とがめだてする事はけしてなかった。

病床の枕元におかれた一輪挿しには、娘や孫達が庭から摘んできた花が、お守りのようにそっといけられていた。

 四十九日が過ぎて、形見分けのはなしを おふくろさんからいただいた。
「俺はいいですから」
と言おうとして、ふと言葉をつぐ。親父さん愛用のカメラを、借りたままになっているのだ。
それは、ミノルタSR-Tという一眼レフカメラで、天体写真を撮りたいから-と、半年以上まえから俺のてもとに置いてあった。
70年代初頭に発売されたこのカメラ、当時のサラリーマンの1か月分の給料と同等、いや それ以上の金額だったと、かつて親父さんから聞かされた事がある。
今はやりの、フルオートなんとかといった代物じゃなく、すべての操作が手動のこのカメラは、その点において、天体写真の撮影にもってこいなのだ。〔バルブ〕というシャッターのポジションは、天体を撮ったことのある人くらいしか、知らないのではないか。
「お借りしてるカメラ、あれ 俺が持っていてもかまいませんか」
お義兄さんも「ぼくは使うことはないから」と言ってくれて、かくてかの写真機は、主を変えた。さらにもう一台、日本初のオートフォーカス一眼レフ、ミノルタα7000まで頂戴する仕儀と相成ったのである。
早速、ビックカメラへ出かけて、足りないパーツを求める。ちゃんと、専用の部品がおいてあったのには驚いた。さすが、本職はカメラ屋。

 月のない週末、天体望遠鏡と、2台のカメラを車に積み込み、俺は初めての撮影にでかけた。
撮影地に決めた場所は、五日市のとある里山である。天体望遠鏡にカメラを載せて、日の暮れを待つ。
ところが、ここの空ときたら、薄明がすぎても大層あかるい。3等星くらいまでしか目視できないのである。予想外であった。いったいどれくらいの星が写せるものだろうか? 高感度フィルムは、空の明るさまで映しこんでしまい、しらっちゃけた写真にしかならないのだ。無論、星は写らない。
が、こんな悪条件下こそ、このカメラの本領が発揮される場面でもあるのだ。絞り、感度、露光時間、昔の本でたくわえた知識を総動員して 撮影開始。
レリーズを押し込んで しずかにシャッターをきる。
望遠鏡で、星の動きを追いながら、思いは、遠い昔にとんでいた。
親父さんが子供の頃は、ここにも、プラネタリウムさながらの 満天のきらめきがあったに違いない。
そう、俺が選んだこの場所は、親父さんの生まれ故郷なのである。
 あの頃とはすっかり変わってしまったであろう風景の中で、あのひとが見上げていたのと同じ夜空を、このフィルムにうつしこみたい。
そして、いつか成功したあかつきには、親父さんの霊前に お供えするつもり。
そのとき初めて、高価なカメラを引き継ぐことの許しがもらえる、そんな気がするのである。