福富太郎 そしてキャバレーハリウッドの思い出      


キャバレー太郎の異名をとる福富太郎に 一度だけ会ったことがある。
場所は 100円カレーで有名な、日比谷の松本楼。
私が21歳の正月だった。
当時私は、銀座のとある出版社で、美術雑誌の編集のバイトをしていた。
仕事といっても、広告原稿を持って画廊と会社を幾度も往復したり、連載執筆家を訪ねて原稿をもらったり、重たい絵画を梱包したり、編集長の移動の際、ベンツを運転したりと、料理の世界で言う 追廻し であった。
ただ、銀座にいれば、ランチタイムに 有名店の料理を、安く食える。
それも、混雑が一段落する時間をねらっていけるのだ。
それが 魂胆であった。

そんな私に、ある日声がかかった。
キャバレーハリウッドチェーンの新年会がある、みな休み明けで忙しいから、
おまえが代りに行って来い。
私は、2つ返事で了解した。
福富太郎は、風俗産業の草分けであると同時に、日本でも指折りの、浮世絵のコレクターだ。それでここにも招待状が来たというわけなのである。

パーティー会場は熱気にあふれていた。折りしもバブル華やかなりし頃。
飲食業界関係者はもとより、マスコミ人、政界人、外国人、その間を、
きらびやかなスーツをまとった選り抜きのホステス嬢が グラス両手に泳ぎ回っている。
私は、自分の貧相ないでたちを悔いながら、会場の隅で小さくなって、小皿によそった料理をチョコチョコつまんでいるばかり。
ホステスさんをこんな間近で見るのはもちろん初めて、最年少で、見知った人は誰もいない。
このまま、誰にも相手にされないで萎縮しているばかりじゃ 男の名折れだ。
私は、思い立ち、会場から化粧室に通じる場所に席を移した。
どれほどの時間、そのすみっこの椅子にかけていただろう。
福富太郎が、目の前をすりぬけて、ひとりトイレへ入っていった。
時節到来。
戻ってきた氏の前に進み出て、私は最敬礼をしながら名刺を差し出した。
福富太郎は、おもむろに内ポケットから名刺を取り出し(それは、普通の倍はある大きさだった)
「遠藤さんね。きょうはゆっくり飲んでって」
と 丸い顔に笑みを浮かべた。やった!
ポンと私の肩を叩いて氏が立ち去った後、私は ホステス嬢に囲まれた。
今まで見向きもされなかった私の前に、シャンパングラスが筍のようににょきにょきとはえだした。大勢の美女が俺ひとりに熱い視線を送る中・・・
「あ、どうも、あ、どうも、あ、あははは・・・こんなに飲めない」
幸福な時間はあっというまに過ぎ去る。
私はすごすごと会場を後にした。

その後、時折思い出して、福富太郎の名刺を探すのだが、一向に見つからない。あのあと、会社の誰かにでも渡したのだろう。
今持っていれば、水商売に生きる私の 心強い御守りになってくれたに違いない。

十数年後、初めて立川のキャバレーハリウッドを訪れた。
現場を倅さんに譲って、福富氏は悠々自適な老後を送られているとのこと。
その店も、去年、閉店に追い込まれた。
氏のノウハウで育てられたホステスさんが、そのサービス精神の故に 客に命を奪われたのだ。
昭和の灯が、またひとつ 忽然と消えた。