音響、放送技術関係

中学時代

プロフィールの覧にも記したように、私をラジオ少年にしたのは中学校の放送委員会がきっかけでした。最初から技術担当を買って出ましたが、放送そのものが好きなので原稿書きから選曲、アナウンスまで何でもやりました。
ラジオ番組に出てくる「生中継」とか「特設スタジオ」という言葉にやたらと魅力を感じ、3年のときの文化祭(内容は合唱コンクールにすぎなかったが)では会場の体育館から「お昼の校内放送」を敢行したいと考えました(文化祭当日は放送機材のほとんどが体育館に持ち出され、本館放送室にはマイク1本残らなかった。学校中のマイクを集めても4本ぐらいしかなく、文化祭は自分や友人の私物を借りて使っていた)
体育館と本館放送室を結ぶ中継回線をどうするかが最大の課題でした。有線でつなぐとすると100mほど音声ケーブルが必要ですが、そんなものが中学校にあるはずもなく、無線(当時、TOA製の40.68MHzのワイヤレスマイクが1本だけグランド用としてあった)ではとても届かず、目をつけたのが校内10ヶ所ほどに設置されていた松下通信工業製の「バス配線方式インターホン」でした。本館放送室にもその電話機があり(面白い電話機で、12個の穴のあいた回転ダイヤルがついていて回しても戻らない。要するに中身は12接点のロータリースイッチ)。うれしいことに体育館の放送席近くにもその配線(16芯ケーブル)が来ていました(電話機は壊れたらしく撤去されていた)。そこから使われていない線を2本探し当て、これを中継回線に使おうという魂胆です。音声信号に乾電池で直流電流を重畳させ、それでリレーを作動させて放送室のアンプ電源をONにするという回路まで作りました。
この企画は周囲の賛同が得られず結果的にボツになりましたが、私はその後も生中継にこだわり続け、高校になってようやく体育館とグランドからの全校生中継を成功させました。それも中継放送したい内容が特にあるわけではなく、単に技術的な興味だけで行ったのでした。
その中学校は、私が卒業した2年後に校舎が改築され、放送設備も真新しくなって当時としては最先端の「校内カラーテレビ放送設備」を持つまでになりました。あと数年遅く生まれていたならばと悔やまれます。ちょうど私がいた時期は放送設備が最も老朽化し、全校放送のアンプは現在地に校舎が建てられた昭和40年頃に導入された真空管式(松下製。電力増幅は6CA7のPP、60W×2台)を最後までだましだまし使っていたのです。何もない時代ではありましたがそれはそれで楽しかったです。当時の写真はほとんど残っていませんが貴重な一枚を紹介します。

文化祭で体育館の放送席に私物も含むありったけのアンプ類を積み上げ、
にわかPA屋さんの気分にひたっていた中学時代


ナショナル(Technicsでない)の「まな板」ステレオカセットデッキ「RS-450」、
Technicsのステレオアンプ「SU-3000」、松下通信工業のゲルマニウムトランジスタ式
レピータ(簡易ミクサー)の「CF-402」などが見える。

高校時代

高校に入学して何よりも嬉しかったことは、放送が「委員会」ではなく「部」だったことです。中学には運動系の部しかなくて運動音痴な自分には入りたい部がなく、それでも強制加入だったので比較的ラクそうな卓球部に入り、1年のときは毎日参加していましたが全然面白くなく(部員数がやたら多くて練習の順番がなかなか回って来ない)、嫌気がさして2年生以降はほとんど行かなくなりました。前述のように部活より放送委員会のほうに熱中しましたが、こちらは毎日あるわけではない。週1日の当番制であとは学校行事のときぐらい。まともな機材や音楽ソース、それに最も肝心な「話のネタ」だって義務教育の中学校にはそれほどあるわけでもなく、番組のレベルはきわめて低いものしかできませんでした。
それが高校では部活動ですからやりたいことに毎日とことん熱中できる、これは嬉しかったですね。
部登録の日に迷わず放送室へ行くと、先輩の部員は女子ばかりでしたがそれは全く気にしませんでした。しばらくすると同級生の男子が2人入り、1年男子が3人となりました。(逆にこの年は女子の新入部員がいなかった)。顧問の先生は、「久しぶりに男子部員が入ってきてくれて嬉しい」と言ってくれました。
吉城高校は私が入学した年度に校舎を新築移転したばかりで、放送設備も新しくなっていました。(東芝製)
とにかく放課後は放送室に入り浸っていました。番組を作るだけでなく、機材もふんだんにあったので片っ端からいじりまくり、ほとんどの機材は分解して中身を確かめ、ハンダゴテを入れて改造(改悪、それとも破壊?)、修理をやりまくりました。
当時はまだ珍しかったSONYのビデオテープレコーダ(白黒、1/2インチオープンリールのAV−3500)や撮像管式の白黒カメラもあったのでよく使いましたが、ビデオ編集の設備はなかったのでテレビ番組の制作にまでは至りませんでした。
学校行事とりわけ球技大会は楽しみでした。ケーブルの敷設作業がとても楽しく(放送局のスタッフになった気分!)体育館とグランドの同時進行だったので双方の連絡用にインカムを設置したり、グランド放送席から体育館の放送室を経由して全校に放送するという試みも行いました。(スピーカ配線ケーブルの空き芯を利用)
「NHK杯・全国高校放送コンテスト」の県大会には常連で参加していました。技術が専門だった私も2年のときに顧問に薦められて、無謀にも「朗読部門」というの参加し結果は惨憺たるものでしたが、同級生が「アナウンス部門」で入賞し、翌年の後輩の女子部員は同じくアナウンス部門で全国大会(会場はNHKホール!)にまで出場しました。
番組制作(ラジオ)部門にも毎年参加していましたが、そのころ岐阜県内の放送部としては私立の富田学園(富田高校および岐阜東高校の2校に分かれているが校舎は同じ)がものすごく熱心で、コンテストの会場校で入賞の常連校でした。そこの放送室を見せてもらいましたが、使っていた機材は放送局払い下げのプロ用(DENON製)で、これではとても太刀打ちできないと感じました。当時の顧問の先生がすごいマニアだったんでしょう。さすがにその機材はあれから30年以上たった今はもうないようです。
この学校がよほど羨ましかったのか、その後私は、放送は機材だけで決まると信じ、外見だけでもプロの真似をしたくて、コンソールタイプの2連オープンテレコ(中身はSONYの古い民生用真空管テレコを流用)を作ったりしました。
校内放送だけでは飽き足らなくて「家内放送」というのもやりました。まだ無線の技術は持ちあわせてなかったので有線でやることにし、家中にスピーカ配線を張り巡らし、廃業した工場からもらってきたレトロな木製ボックス入りのスピーカ(10kΩのハイインピーダンス型)を3台ほどぶら下げ、自分の部屋を放送室に見立てて段ボール箱でデスク型のアンプもどきを作り、いかにも放送していますという気分を出すためにVUメータをビシバシ振らせて、テープの音楽やラジオなどを家中に流しては喜んでいました。古いカーラジオを改造したアンプに廃棄テレビから取ったトランスを出力トランスに流用したものを用い、しょせんガラクタの寄せ集めで音質は決して良いものではなく、それよりも当時流行していた大型のラジカセで直接聴いたほうがよっぽどましでしたが、ことほどさように「放送ごっこ」にこだわっていたのでした。部屋の入り口には「放送室」の札とともに「放送中」のランプを点灯させ、部屋にはラジオスタジオを模して、テープレコーダ付属品の安っぽい箱型ダイナミックマイクで「吊りマイク」を作ってぶら下げていました。この習癖は今でも続いていて、アマチュア無線局のマイクにもアーム式の電気スタンドを改造した自作スタンドにSHUREの定番ボーカルマイク「SM-58」を吊り下げて使用しています。
(家内放送システムは、30数年後に「ケーブルラジオ」というかたちで復活します。)
放送部以外でも、演劇部で照明・音響の担当を買って出たり、地学部に気象観測機器の技術的なアドバイスをしたりと、普通高校ながらに電子技術が生かせた充実した3年間でした。工業高校の電気科や電子科に行った同級生に負けないようにと、通信教育でテレビの修理技術を独習し、進学先は工学部の電気通信関係と決めていました。
大学時代
第一志望の長岡技術科学大学に現役で合格することができましたが、工学系の大学は忙しいことで知られていて、1、2年はほとんどの科目が必修。中でも「工学基礎実験」(内容は物理と化学ですが)は実験結果について指導教官の試問があり、これが結構厳しくてなかなかOKをもらえず、何度も実験のやり直しをさせられ、終わったのが夜9時なんてのはざらでした。実験自体は好きなのでそれほど苦ではありませんでしたが、理系科目は得意だったはずが講義が思ったよりも難しくついていくのがやっとで、入学前に期待したような「学生生活をエンジョイする」ゆとりはなく、当然趣味を楽しむ余裕などはほとんどありませんでした。
入学してすぐ、大学というところは放送設備がない(必要性がない)ことを知り、もちろん放送部もありませんでした。
その代わり、帰省で鉄道を利用する機会が増え、
またその頃発刊された宮脇俊三の「時刻表2万キロ」という本に感動したことがきっかけとなって鉄道に乗ることに関心が高まりました。「鉄道研究会」に入り、メンバーのほとんどは写真撮影がメインでしたが、私は当時まだ少数派だった「乗り鉄」で、ついでに駅弁や切符の収集もやるようになりました。「鉄道ジャーナル」や「旅と鉄道」という雑誌があることを知り、読み始めたのもこの頃です。
3年のときひとつの転機が訪れます。1、2年のときは学生寮にいましたが、寮は2年間しか入れないためそれを過ぎると民間の下宿屋に移ります。たまには広い風呂に入りたくなって久しぶりに寮へ行ってみたら、M君という学生が「寮内放送」をやっているという張り紙を見つけたのです。その方法がユニークで、いっとき流行した「ミニFM局」なのですが、鉄筋コンクリートの寮では微弱電波は各部屋の中までは届きません。そこで寮の屋上に設置されていたテレビ共聴アンテナ(寮の各部屋にはテレビのアンテナ端子がついていた。貧乏学生を困らせたのはNHKが突如訪問してきて、テレビが見つかるとしっかり受信料を徴収されていた)の近くまで、M君の部屋から同軸ケーブルを引っ張り、共聴アンテナから至近距離でミニFMの微弱電波を出せば、おのずと各部屋のアンテナ端子に流れるから、そこにラジカセやチューナをつないでおけば「放送」が聞こえるというしくみです。このころの新潟県はFMラジオがNHK−FMしかなく、民放テレビも長い間2局(BSNとNST)しかなかったのがようやく3局目(TeNY)が開局したところで、学生たちはいつも情報に飢えていました。もちろん携帯電話やインターネットはまだない時代です。
厳密なことを言えば、学生寮といえども国の資産ですから、学生がかような工作物を無断で設置することはよろしくないわけで、大学当局には見つからなかったのか、黙認していたのか今となってはわかりませんが、おおらかな時代ではありました。
私はすでに寮を出ており、この「寮内放送」は聴いたことはありませんが、まだ寮にいた同期生(長岡技大は高専からの編入がほとんどで私のように高校から入ってくるのは少数派というちょっと変わった大学。高専から編入すると3、4年で寮に入ることになる)に尋ねたところ「結構面白い番組をやってるよ」ということで、それなら寮の中だけではもったいない、技大祭(学園祭)でミニFMをやらないかという話に発展しました。M君にも声をかけさらに有志を募り、半年の準備期間を経て4年のときの技大祭で実現します。
こうして記念すべき、「技大祭ミニFM放送、第1弾」が電気棟2階の講義室を会場に公開放送で行われました。ミクサーと微弱FM送信機はM君の自作品、マイクとデッキは私のもの、その他機材はメンバーが出し合い、アンテナは私が自作するなどして極力出費を抑えました。いちばん苦労したのは
音楽ソースで、学生にとって「レコード盤」は高価なためほとんど集まらず、CDはまだ普及していない。メンバー手持ちのカセットテープ(当時はラジカセでFM放送からカセットに録音するのが安く音楽を手に入れる手段だった)をかき集め、手書き原稿(ワープロはまだなかった)をコピーした曲名リストを作って製本し、それを当日会場に来たお客さんに見せてリクエストを募るという形で番組を作りました。カセットテープは曲の頭出しにとても時間がかかるためリクエストを受けてもすぐには流せません。音楽ソースの絶対量も少ないため曲の間はとにかくおしゃべりでつながなければなりません。大学の広大な敷地に微弱FM電波を飛ばしても受信してもらえる可能性はゼロに等しく、だいいちラジオを持ち歩いている人なんていないだろう。よって「リスナー」は当日会場にお越しくださるお客さんが全てだから、この人たちを飽きさせないような番組にしなければなりません。お客さんは常時入れ替わるので、同じ曲を何度もリクエストされましたがこれは我慢して何度でも流すしかないと割り切りました。こうした苦労したことが番組制作の面白さを理解することにつながり、イベント終了後には誰からともなく、「放送研究会」を立ち上げようという話に発展します。
私と一緒ににこの企画にたずさわったT君を中心に「長岡技術科学大学放送研究会」は昭和59年、大学の正式クラブとして発足します。
「技大祭ミニFM放送、第2弾」は放送研究会の出し物として、会場を図書館棟1階の部屋を貸し切って行いました。ここは私が以前から目を付けていた場所で、周囲がガラス張りでサテライトスタジオ風になっており、なおかつ外部から直接出入りできるドアが付いていて内側から施錠も可能という公開スタジオには願ってもない物件だったからです。中央に高い本棚があり、暗幕を掛ければ「オープンスタジオ」と、「調整室」の間仕切りも即出来上がりというおまけ付きです。(音は漏れ放題ですが)。さいわいここを使いたいという団体は他になく、無事に場所を確保できました。
この年は、機材もグレードアップしました。M君は結局メンバーに入らなかったのでミキサーをどう調達するかが鍵でした。4年のときインターンシップで業務用音響機器メーカーに行っていたのでその会社の新潟営業所に電話すると、「うちは機材のレンタルはやっていないが、知っているPA業者があるから」と新潟市内のK社を紹介されました。さっそく電話するとそこは個人経営の電気店で、PA機器の設置・運営も兼業している新潟県では数少ない業者でした。ミキサーを貸してほしいと頼むと、「大事な商売道具なんだけど、学生さんだから」と、YAMAHAのミキサーにSHUREのマイクやケーブルなども付けてなんと「無料」で借りることができました。ほんとは大型スピーカも借りたかったのですがワゴン車などの運搬手段がなく断念。結局、スピーカは長岡市内の電気店から小型の中古品を借りることになりました。ミキサーの運搬はT君のクルマで前日新潟まで取りに行くことになりました。(何もかも無料では申し訳ないので、返却に行くときにはささやかな手土産を持っていったように記憶しています。)
残りの演奏機材はメンバーの持ちよりで確保し、要のFM送信機は秋月電子に昔からある「FMトランスミッタキット」を、「ステレオ信号発生部」と「FM発振部」に基板を分けて製作。その間を研究室にあった長い同軸ケーブルに電源も重畳させて伝送するよう回路を工夫して接続し、FM発振部はプラケースに入れアルミホイルでくるんでホイップアンテナと一体化して図書館棟の屋上に設置し安定度の向上と到達距離を伸ばすことを目論見ました。PLLを使わないLC発振のため周波数安定度に難がありましたが心配したほど周波数ドリフトはありませんでした。

当日これらの番組を、電波で受信して聴いていたリスナーがどのくらいいたかは定かではありません。技大祭パンフレットには周波数を明記しておいたので、ひょっとすると周辺でカーラジオ受信した一般の方がいたかもしれません。あとから聴いた話では、技大祭当日も研究に忙しかったという大学院2年の方が、ずっと研究室のラジオで聞いていたとのことで、たったひとりでも聴いていただけたのは嬉しいことだと思いました。
このときの写真が1枚でもあれば紹介したいのですが、あまりの忙しさに写真を撮ることすら忘れていたのでした
これを機に放送関係の技術にいっそう関心が高まり、「放送技術」という雑誌を購読するようになり、「テレビジョン学会」(現、映像情報メディア学会)という学会に入ったりしました。(現在は退会)
翌年は私が最終学年になり、研究も忙しくなって「第3弾」にかかわることはほとんどできませんでしたが、仲間と一緒に何かを創り上げる喜びを体験した貴重な学生生活でした。
ちなみにこの「長岡技術科学大学放送研究会」は、私の卒業後数年を経ずして消滅したようですが、つい最近(平成23年度?)「長岡放送研究会」という名称で再結成され、ビデオやインターネットによる情報発信を行い、大学の広報活動の一役を担っているとの知らせが届きました。今後の活動を暖かく見守っていきたいと思います。

ほんとうは放送業界に就職したかったのですが、誰かに聞いた「あそこはコネがないとムリ」という無責任な一言であっさりとあきらめ、故郷に帰らなければならないという家庭の事情もあって、教員の道を選びました。
まだまだ話は続きますが、とりあえずここまで。続きをお楽しみに