(無線・パケット通信)
  
パケット通信の設備の一部・無線機とTNC(TASCO製のTNC−20H)
このシステムは現在は全て手放してしまって残っていません。

パケット通信
昭和63年頃からパケット通信に興味を持ち、始めました。
元々、TNCはPK−80というのを弟が買って持っていたのですが使っておらず私が使い始めました。
しかし元が日本語対応でないためリセットすると文字化けして読めないという欠点が有りました。
パソコンもFM−7に232Cカードを入れて漢字の受信は可能になりましたが書くのは 大変で実用にはなりませんでした。
当時はNEI−TERM等というのが有りました。

その後、弟のPC−9801LV21というラップトップパソコンにCCT−98II(2)というパソコン通信用のソフトを入れてしばらくやりましたが、関係会社でパケット通信のPRを兼ねてパソコンを貸してくれるというので借りました。
この時に推奨の構成がAIWA(アイワ)のAPX−M25(当時の価格39,800円・APX−25との違いはミニBBSの機能が付いているのとメモリーが倍の32MB実装されていること)とヤエスのハンデイー機のFT−73だった。

APX−M25は改造してROMをTASCOのTNC−20の物と載せ替えたり、パケット仲間にG3RUH対応の改造をしてもらったりした が、会社の後輩がパケットをやりたいというので貸して、そのままになっている。電源はACとDCの2電源でスピーカー内臓のため受信音をモニターすること が出来て重宝したが、CPUが遅かった。

アイワのTNC APX−M25(ROMは1.1.3版、メモリーは32MBでメールBOX機能付き)

RBBSのソフトはパソコンを貸してくれた会社で作った物(自作)でしたが使いづらく、そのうち同じ会社で当時館林市に居たJH1UVJ局が改造し たものに入れ替えたりしました。その後FM−7用でJO1WMIという人が作ったソフト(FM−NETWORK)を移植して使いました。
これは単純にASCII SAVEしてファイル変換をすれば良かったものを、知らずにRS−232Cを使って転送し、文字間隔が詰めて有るのを修正したりと苦労して立ち上げました。

通信ソフトもDOSに添付のだと画面のスクロールが出来ず不便なので、パケット通信で紹介してもらってTTYE16というフリーソフトを入れました。
このソフトはなかなか良かったのですが行末で文字が溢れると文字化けを起こす のが不満でした。それからOASYS 30ADというノートワープロ(これは電池でも使えるようになっているため処理速度が遅いのと液晶にバックライトが付いていない等不満が有った)を買ってTNCもTASCOのTNC−μ21MK2 (価格29,800円)というタバコの箱大のをニッカド電池まで買って使った時期も有りましたが、動作が不安定でハングが多く使いづらいので譲ってしまいました。

FM−NETWORKの移植版を使っていたのですが、元がFM−7用のためファイル数の制限が有り不便に思っていた所を明石市のJR3BHW局が最初のソフトを改造したとのことで載せ替えました。
しかし不定期運用のスタンドアロンタイプのRBBSではアクセスする人もおらず、止めてしまいました。  

RLI/MBX
その後、パケット仲間がRLI等のソフトを使って転送を始めたのと、同じ会社の長野のメンバーが98で転送を始めたいと言い出したのでソフトだけ貰って送ったのですが、設定が判らないとか言い出し、仕方なく自分でも試す羽目になってしまいました。
RLIの設定が判ったもののFM系では動かないとボヤいていたところ、JR5IZI局だっ たと思いますがFMRでも動作するMBXというのが有ると教えてもらいソフトまで送ってもらいました。

そこで転送の勉強も兼ねて1年くらい運用しましたが転送が上手く行かず、ドライバーソフトの開発者であるJO1SPG局(SPG−NEWSの作者で有名だが当時はFM−7やTOWNSのパワーユーザーだった)に手直ししてもらったりとお世話になった。
しかしパソコンが悪いのかソフトのせいか、転送しに行く時にSIDというのを送らずダンマリになってしまうトラブルに悩まされ、弱っていました。

当時はG3RUHという9600BPSの高速パケットが流行りだしたことも有り、TASCOのTNC−23MK2(価格34,800円)という TNCも買ったが処理が遅くて手放した。このTNCはパケット以外にもCWの解読やRTTYの機能も付いている多機能タイプだった。
表示のLEDが全て赤のため電源とコネクトのLEDを別の色に取り替えたことも懐かしい。
他にはTNC−20H(価格34,800円でマイクが接続できた)も買ったが、処理がTNC−22より遅いのとマイクをTNC経由で接続すると回り込みが有ったりして結局、手放してしまった。  

DJL−BBS
そのうち7K1DJL局の開発したDJL−BBSというのが出てきて、FMRでも動きそうとのことでこれのテストも兼ねて乗りかえました。
しかしRS−232Cのドライバーが適当な物が無く、またしてもJO1SPG 木沢さんにドラ イバーを改良してもらい問題が無くなりました。DJLのバージョンアップは頻繁でした。TNCも当時のベストセラーのTNC−22(価格24,800円)に替え、これは最後まで使用していました。

夏休み等は毎日の様にバージョンアップの差分が送られてきたものです。
その後、DJL−BBSも開発者が変わり一時期DJLの最新版が出るにあたりFM系のテストを頼まれてやっていたことも有りましたが、開発グループと行き違いが有って手を引きました。
そのうち転送相手との回線状態が不安定だとか翌年から仕事の関係で山形に行くことになったため完全停止して足を洗い、現在に至っています。

山形から帰ってきてからは仕事が不規則になってしまったため、その後は完全なユーザーになってしまいました。
WTERMでパケットとパソコン通信(NIFTY)をやっていました。しかし99年3月頃、昔に比べてパケットも詰まらなくなってしまいました。
転送速度が遅く、情報が乏しいし、金銭上の利益が云々と制約が多いアマチュア無線の通信よりも自由に発言の出来るパソコン通信やインターネットに乗り換える人間が多くなった為と思われ、パケットの良い所は初期の設備投資と電気代以外に金の掛からないことくらいだろうか?
昔に比べ魅力が無くなりました。内容的にも役に立つ情報が少なくなって面白みが無くなってきたし..

そんな訳で平成12年の6月にTNC−22を富山の方に譲って引退しました。7月には免許も変更申請を出してパケットは正式に止めました。
約12年以上続けてきたパケット通信でしたが、インターネットの普及につれ個人的には制限が多くて魅力が少なくなっていたので潮時とは思っていましたが..   

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