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プエルトリコ旅日記 by Jun Koyama (2003年 12月-2004年1月 )
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年末年始の結婚20周年記念を兼ねたプエルトリコ旅行から年明け3日に戻った。 快晴のサンファン空港で30度あった 気温がシカゴに着いたら曇り空の0度で、みぞれ模様。 翌4日は朝から雪になり、夜までに20センチも積もった。 底抜けに明るいカリブの太陽に甘やかされた2週間分の南国ボケが一気に雪掻きで吹き飛び、5日には雪掻きのせいであちこち痛む体に鞭打って出社。 溜まりに溜まったメールと書類の山を見て、これまた一気に現実に引き戻された感。 少しでも長くあのパラダイスの余韻を楽しもうと、 写真の整理と今回の旅で新たに気付いたり、感じた諸々の事を記憶が新鮮なうちにオムニバス式にまとめようと思い、これを書き始めた。
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到着時の拍手が巻き起こらないUA(ユナイテッド航空)便 |
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女房がプエルトリコ出身のため、彼の地へは結婚前から何度も行っているが、クリスマスと年末年始の繁忙期に行くのは久し振りである。 サンファンまでのフライトは、マイレッジ・クラブのメンバーになっているアメリカン航空(AA)を常に使っていた。 ところが、今回の旅行は、行くこと自体は一昨年から決めていたものの、具体的に航空券の手配などを始めたのは昨年の8月に入ってからである。 |
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ただ、それでは安い航空券を買うには遅すぎたようで、インターネットで調べてもAAだと 1000ドル以上もする上、週末便だとさらに高くなり、1200ドルもかかるのである。 家族4人で、チケット代だけで4800ドル。 日本への里帰り便より高いではないか!。 なぜ4時間ちょっとで行けるプエルトリコが13時間かかる日本より高いのか納得がいかないまま、 ある旅行会社に助けを求め、12月20日(土)発、帰りは1月3日(土)の日程で、少しでも安いのを探してもらうことにした。 しばらくすると連絡があり、ユナイテッド航空(UA)なら、帰りはフィラデルフィア経由になるが、800ドルであるというので、 初めてのUA便に決める。 |
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当日、プエルトリコ独特の現象と思われる、いつも楽しみにしている サンファン空港着陸の瞬間に巻き起こる拍手喝さいをビデオに収めようとカメラを回していたが、滑走路タッチダウンの瞬間に、何と、 拍手が起こらないのである。 長年プエルトリコには来ているが、この瞬間に拍手が起こらなかったことなど今までなかったので、 何か拍子抜けし、ガッカリしてしまう。 キャビン内を見渡してみると確かに、里帰りのプエルトリカンよりはアメリカ人の観光客が圧倒的に多く、 明らかにアメリカン航空とは客層が違うのである。 AA便よりは安かったUA便だったが、何か損をしたような気持ちになる。
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レンタカーは全て売り切れのクリスマス期間 プエルトリコへ行く度に、レンタカーを借りることにしているが、いつも予約などせず、 当日に電話し、地元ポンセのレンタカー会社から適当なのを借りている。 今回もそのつもりで、現地入りした翌々日に電話したが、全て売り切れとのこと。 まさかと思い、2件目、3件目、4件目と電話をするも、 すべて同じ答えが返ってくる。 隣町のフアナ・ディアスにも電話してみるが、ここでも同じことの繰り返し。 要は、この時期、多数の観光客や、 それにも増して全米に散らばっているおびただしい数のプエルトリカン達が里帰りし、車が無いと動きの取れない土地柄、前もって予約をして足の確保を しているかららしいのだ。 家族からはアレンジの悪さを咎められ、すっかり株を落としてしまう。12月に行かれる方は僕の二の舞を踏まないよう、 しっかりレンタカーの予約をしてから出掛けるとよいだろう。 |
プエルトリコの冬? 北国シカゴに住む我々にとって、特にこの時期、プエルトリコは常夏のパラダイスとして写る。 出かける前から ビーチの話しとともに、日焼け止めまで買って準備万端、うきうき気分で出掛けた。 ところが女房の両親や弟夫妻とその子供達も、冬なので泳ぎには 行かないという。 特に最近の雨で水は濁っているし、と付け加えるので、子供達は、それならプールへ行きたいと言い出したが、調べてみると、 公営のプールは全て、「冬季につき閉鎖」なのである。 |
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そんなバカな! サンファンで日中の最高気温が30度、夜は15度前後まで冷え込むことがあるが、 女房出身のポンセは南のカリブ海側ということもあり、最高気温は33度前後、クリスマス・イブには38度まで上がり、夜でも20度は下らない、 北国から来た我々にとってはまさに「真夏」なのだ。 ホワイト・クリスマスの予報が出ていたシカゴの友人・同僚たちには嫌味半分に、 「僕らもプエルトリコでホワイト・クリスマスを楽しんでくるから。 でもあの冷たいのじゃなくて、白砂のビーチという意味!」なんて言い残して来た手前、 どうしてもクリスマスの日にビーチへ行く必要があったので、女房の両親から車を借り、ポンセに程近いグアニカ市にある、その名もサンタ・ビーチ(Playa Santa)へ行く。 |
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しかし、曇り空ながら気温は30度以上あるのに、泳いでいるのは我々家族以外には観光客風の3組ほどだけなのである。 女房も彼女の両親も、クリスマス・イブに38度(華氏102度)まで上がった気温を見て、昔は12月にそこまで気温が上がったことなどないと言う。 せいぜい25度前後だったので、確かに泳ぐには寒すぎたとのこと。 皆、その過去の経験と記憶から、12月のプエルトリコは「冬」という 固定観念が出来上がってしまっているらしいのだが、ここ数年は昔に比べ、確かに気温は高すぎるという。 やはり地球の温暖化現象が、 ここプエルトリコでも確実に進んでいるのだろうか。 | ||
大胆な画像が売り物のニュース報道 滞在中に、プエルトリコ出身の元大リーガー(シアトル、シカゴ、ボストンなどで活躍し、93年に 引退した外野手)イヴァン カルデロンさん(42)が、ル・キージョ海岸沿いに軒を連ねるキオスコと呼ばれる売店兼食堂で食事中に背後から 拳銃で撃たれ死亡するという痛ましい事件が起きた。 それを報道するテレビのニュースでは、その仰向けで横たわる遺体の顔の部分をズームアップ した映像が映し出され、驚いてしまう。 その他にも、交通事故の現場で、運転席で死亡しているドライバーや、車から放り出され路上で死亡して いるそのままの姿を映し出すのである。 アメリカ本土や日本では絶対にカットされてしまうグラフィックな画像が、子供も見ているであろう時間帯に 平気で報道されるプエルトリコ式のマスコミに疑問を抱いた。 |
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モフォンゴやトストーネスに付ける新ソース、マヨケチャップ モフォンゴとトストーネスは、青バナナ(プラタノス)を材料に使った僕の プエルトリコ料理の中の好物で、今まで何度も食べてきたが、今回初めてマヨネーズとケチャップを混ぜた、「マヨケチャップ」というものが一緒に 付いてきたので、それに付けて食べてみた。 最初は珍しさもあって美味いと思ったが、途中からはさすがに少しくどくなって来たので、もともと 僕の好きな食べ方だった、モフォンゴの場合のブロスに浸す方法と、トストーネスの場合の塩かアドボ(塩にニンニク粉を混ぜたもの)をかけるやり方に戻った。 でもアメリカでは見かけないし、日本でも多分無いであろうマヨケチャップは珍しいと思うので、ここで紹介しておこう。 |
![]() モフォンゴと豚肉。小さなカップに 入っているのが、マヨケチャップ |
![]() トストーネスとステーキ。 これにもマヨケチャップが付く |
![]() ス―パー、Puebloで売っている マヨケチャップ。1つ、2.49ドル |
廃れつつある「パランダ」 クリスマスの時期に欠かせない行事の一つに「パランダ」というのがある。 最近はあまり見かけなくなったが、 20年前のポンセではこの時期、いたるところでこれを見かけ、自分もよく参加したものである。 夜中に友人、恋人、同僚や上司宅を、数人の 即席楽団が夜襲をかけるのだ。 門前で大音響の演奏と歌を始め、眠っている住人をたたき起こし、突然の訪問を受けたその家の住人は目をこすり ながらでも門を開け、楽団を家の中へ招き入れ、つまみと酒(ラム酒やコキートなどの甘い酒が主)でもてなすのがしきたりである。 これを今回一度だけ、女房の両親や弟夫婦達としたのである。
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標的になったのは道ひとつ隔てた両親の友人宅。 丑三つ時に、 我々10人がそれぞれ楽器を持ち、足音も立てずにその家の門前に集まり、合図とともにパランダ伝統の曲、「ラ・トゥルージャ」を奏でる。 ニ分と経たないうちにその家の長女が出て来て門を開け、我々を中に招き入れてくれる。 続々と他の住人達も起きて来て、彼らも一緒に歌い、 コキートが振舞われる。 廃れつつある昔ながらのプエルトリコの伝統・文化の側面に、もう一度触れることの出来た貴重な一時だった。
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座ると女が若返るという伝説の岩を探しに、ラレスへ |
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2003年の12月で、我々夫婦が結婚20周年、女房の両親が45周年を迎えた。 義理の父親が、結婚してそれだけの年月が経つと、女どもは老けるので、パランダの曲に出てくる、老女でも座ると少女に変身するという岩をラレスへ 行って見付け、彼女達を座らせよう、という話になった。 ラレス(Lares)は、あの盲目の歌手、ホセ フェリシアーノ出身の町であり、 昔からプエルトリコ独立運動を推し進めてきた活動家が多数出た町としても知られ、町の中央広場には、いわゆる「愛国党」の党旗を象った銅像などがある。 | ||
一方、目的の岩は見付からず、女達は古女房のまま、若返ることなくポンセに戻るが、後になって父親が、あの伝説の岩はラレスではなく、 シアレス(Ciales)の勘違いであったことに気付いたという。 まぁ、若返れば若返ったで、今度は我々亭主が相手にされなくなる可能性もあるので、 古女房のままでよかったのだ、ということで一応お互い納得。 | |||
いい加減な道路標識 プエルトリコでは、スピード制限の表示が「マイル」なのに、目的地までの距離の表示は「キロ」である。 そもそもマイル表示とキロ表示が混在していること自体、不自然なのだが、世界中でメートル法を導入していないのはアメリカだけなので、 アメリカ政府が試験的に、ここプエルトリコで距離表示だけをキロにして、不具合がないかどうかを観察している、という話を聞いたことがあるが、 真偽の程は定かではない。 いずれにせよ、「マイル」も「キロ」も、その両方の感覚が備わっている僕のようなアメリカ在住の日本人にとっては、 距離のキロ表示は米本土のマイル表示に比べ、特に高速道路を走っている場合など、数字の減り方が早いので、どんどん目的地へ近づいているような 錯覚を覚えさせる。 ただ、カリブ海沿いを東西に走る2号線のジャオコ(Yauco)付近をポンセに向かって走っていると気付くのだが、 「ポンセまで21キロ」という表示を見た後に、今度は「ポンセまで23キロ」という表示が出てビックリする箇所がある。 近づいているの だから数字は減らなければならないのに逆に増えるこの不思議。 さらに驚くのは、この間違えに最初に気付いたのが13年も前なのに、 それが未だ訂正されることなくそのままであることだが、「そんな小さな事にこだわらないのが我々プエルトリカンなんだ」、とあたかも言って いるようにも取れて、なぜか微笑んでしまうのだ。
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カジェイの「おっぱい山」 | ||
サンファンとポンセを結ぶ52号線のほぼ中間地点の町、カジェイ(Cayey)の近くに、地元の人達が 「おっぱい山」(Cerro las tetas de Cayey)と呼ぶ双子山がある。 言い伝えでは、そこに祀られた先住民族の女性の胸部が盛り上り山になったという。 その「おっぱい山」が良く見える場所にハイウェイの休憩所があるので、そこに車を止め、記念撮影でもされてはどうだろうか。 |
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宇宙人とチュパカブラの熱帯雨林、エル・ユンケ 椰子並木の美しいルキージョ(Luquillo)海岸から、191号線を上って行くと景色は一変し、 そこは国立公園に指定されている熱帯雨林のエル・ユンケ(El Yunque)となる。 |
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ここは、山あり、渓谷あり、滝あり、ジャングルありの大自然が楽しめ、1000メートル級のエル・ユンケ山の頂上 にも登れるようになっているが、地形が複雑なため、ハイキング客がよく迷子になる。 そしてそのうちの何人かは永久に戻らないという。 それはエル・ユンケの山中には宇宙人がいて、宇宙の彼方へUFOに乗って連れ去られたからだとか、チュパカブラという吸血怪獣に襲われたから だとか、色々説があるようだが、その鬱蒼と生い茂る熱帯雨林の中に居ると、それら諸説が現実味を帯びてくるような感覚に陥るから不思議だ。 |
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大好評だった天ぷら |
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プエルトリコへ行く度に、日本食をせがまれるので、そのつど何かを作ることにしているが、今回は天ぷらと 決めていたので、出発前にシカゴで天ぷら粉と天つゆを買い揃え、持って行った。 その他の材料は現地調達で、えび(冷凍)、サツマイモに 似たユカ芋、カボチャ、玉ねぎ、ニンジン、ピーマン、ブロッコリー、そして青バナナ(プラタノス)も試しにと思い、加えてみた。 作り始めてビックリするが、口に合うらしく、さらには人数も増えたので、作っても作っても追い付かない程のペースでどんどん無くなっていくため、 調理前の、天ぷら作りに意気込みを見せる家族の写真しかなく、揚げたての天ぷらの写真は撮る暇も無かったほどである。 |
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えびがやはり 一番人気だったが、青バナナも好評で、3本だけでは足りなかったほどだ。 考えてみれば、もともと天ぷらは数百年前の日本へキリスト教の 伝道のためにやって来たスペイン人が、「Temporas」という宗教的な理由で肉を食べられない時期に、野菜や魚類を油で揚げ調理したのが始まりと いう説もあるので、それが正しければ、その血を引くプエルトリコの人達に受けるのは当然のことなのかも知れない。 |
カリブの中のスペイン、オールド・サンファン 結婚式出席のため、日本からやって来た両親を初めてオールド・サンファンへ連れて行った時、スペイン好きの母が、「これはまさにカリブの スペインだわ」と言ったことがあった。 それから20年経った今でもその街並みはほとんど変わることなく、周りがどんどん近代化されて いくためか、かえってその魅力は深まったといえる。 今回はクルーズ船の波止場からコロン広場 を横切り、サンクリストバル砦とエルモロ要塞を見学し、パセオ・デ・ラ・プリンセサを通って波止場まで戻ってくるルートを歩いた。 | ||
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波止場に戻ってからは、現地人が発音するとなぜか「京子」に聞こえるキオスコで、バカライート(タラの魚肉片の入った揚げせんべいみたいなもの) などを買い、腹ごしらえをして、ちょうどその頃到着し、吐き出されるように下船して来たクルーズ客に交じって夜のオールド・サンファンへ繰出した。 | ||
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しばらくして、アメリカ東部に住んでいるという若い日本人のカップルに出会い立ち話をするが、旅情報はモフォンゴさんのサイトから得たとのこと。 僕が一昨年の夏に書いて投稿した旅行記の話をしたら、「それも読みました!」とのことで嬉しくなる。 | ||
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その波止場から、クリスマス・ ライトのイルミネーションが綺麗なコロン広場へ向かう道沿いに、新しく出来た、スターバックス・コーヒーの店があったので眠気覚ましの コーヒーを飲むが、エルモロ要塞のあちこちにある見張り台(Garita)をデザインし、「Puerto Rico」と入ったコーヒーカップを見付け、 買うことにした。 ちょっとかさばり重いが、いい土産になるだろう。 ひとつ9.95ドル也。
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すぐに終わらないクリスマス カトリック教徒が9割以上を占めるプエルトリコでは、クリスマスのお祝いは、飾付けをすぐに片付けてしまうアメリカ本土や日本とは違い、 キリストがエルサレムで誕生したという知らせを受けた三賢者が星を指標に、12日目にしてやっとエルサレムに到着したという1月6日まで続く。 |
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![]() フアナ・ディアス市の三賢者像 |
もちろん1月6日は「三賢者の日」になっているわけだが、あの有名なクリスマス・ソング、「12 days of Christmas」がそのまま実行されているようで、 子供達はこの間、クリスマスと三賢者の日はもちろんのこと、プレゼントをもらい続けるので、12月初めから三賢者の日までの間、どこの ショッピング・センターも大変込み合い、駐車場探しに苦労するほどである。 |
プエルトリコの高知、ポンセ プエルトリコ第二の都市であるポンセは、カリブ海に面した太陽がいっぱいの町だ。 位置的には、サンファンが四国の高松だとしたら、 ポンセはちょうど、高知にあたる。 |
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昔、坂本竜馬を偲んで、女房と高知へ旅したことがあるが、高知の高台から太平洋方面を眺めた風景が ちょうど故郷のポンセの高台からカリブ海の方を見た時の風景にそっくりだと言っていたが、今回の旅でそれを実感した。 街並み はスペイン式の白壁が目立つが、オールド・サンファンのそれがコロニアル風なのに対し、ポンセのそれは、カリブ文化の影響を受けた独自の趣きと美しさがある。 |
![]() 沖合いに棺桶島が見えるポンセ市を遠望 |
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![]() ポンセ市の中央広場 |
![]() 中央広場横にあるポンセのシンボル Parque de Bombas(消防署) |
![]() ポンセ市内の街並み |
ヒルベルト・サンタロサに出会う |
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楽しい思い出がいっぱい詰まった旅となった2週間が終わり、憂鬱な面持ちでサンファン空港へ向かった1月3日、もうひとつの楽しい サプライズが待ち構えていた。 搭乗手続きを終え、見送りの5人に別れを告げようとしていたところに、サルサ界の大御所、Gilberto Santa Rosaが現れ、ちょっとした立ち話とともに写真撮影まで承諾してくれたのだ。 ファンを大切にするプロ魂に感謝するとともに、 一層のサンタロサ・ファンになったことは言うまでもない。Gracias! |
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