音楽雑記帳

音楽雑記帳

しとろんの音楽に対する考えを書き殴り


1.ギターをずっと弾いていて思うこと


長いこと楽器に関わってきているが、まだまだ「これだっ!」という達成感を味わうことができない
いや、一生かかってもそこにたどり着けるかどうかは実はわからないのだ
私の好きなピアニストでボレットという人がいたが、彼がメジャーデビューというか
世界的に評価されるようになったのは彼が60歳をとっくに過ぎて70歳前後からであった
また同じくピアニストのホロヴィッツは85歳で他界する5日前に最期の素晴らしい演奏を遺している
だから、年齢に関わりなく、いくら歳をとっても演奏活動そのものは可能なのだと思う
もちろん日頃の練習や、音楽に対する心構えというものはそれなりに必要だろうが
こちらがその気になる限り、死ぬ直前まで音楽と関わることは可能なのだと思う
私も遠い将来、できればギターを抱えたまま大往生したいものだと常々考えている

さて、ここで、私がギターを始めたときから使っている
溝淵浩五郎先生のギター教則本からいくつかの「心構え」を紹介したい
すこし引用が長くなるが、大変味わいのある言葉なので
この場を借りて皆さんに紹介したい、じっくり読んで呉れ賜へ


無器用でテクニックがないからといって心配しなくてもいい
テクニックはいくつになってからでも勉強方法でいくらでも伸びる
しかし五、六年以上ギターをやって、その上年齢が二十才を越えていながら表現が下手な人
いいかえれば芸術的気分の欠けている人、このような人はテクニックだけあっても
それは単なるギターの職人(ギターの労働者)で、一生たっても芸術家にはなれない
なんとなれば「気分」は半ば生まれつきで後天的にどうにもならないからである

いやあ、いきなり痛いとこ突いてきますねえ、私も40歳を過ぎていますし
芸術家への道はかなり険しくなってきました、というかもう閉ざされてますが
まあ、今頃から悩んでもはじまりませんけど・・・・

何事によらず上達に最も必要なのはその指導者すなわち「先生」である
万一指導者を誤った場合は上達はおろか邪道に引きずり込まれ、あたら一生を棒に振ってしまう
ゆえに研究生は真剣に良師を探し求めなければならない
「最初は下手な先生でも構わない」という者もいるが物事は最初が大事なのである
しかし、初めてギターを志す者はどこに立派な先生がいるか皆目わからない場合が多いだろうが
なるべく知人などにきいて良い先生を選んだ方がよい
最初のうちは別に有名な大家にならわなくてもよいが、少し上達したら大家を師とすべきであろう
しかし、その時に最初に教えを受けた先生をばかにしたり恩を忘れてしまうような人間に
なってしまってはいけない、大学を卒業して学位をとっても、又は大臣になっても小学校の先生の
恩を忘れないような人間が真の人間なのである
世に大家といわれている者の中には単なる指の職人のごとき技巧派と、技術並びに解釈力共に
すぐれた芸術家とがある、もちろん前者は世の無知なる者のかっさいを博しているだけで問題外の
存在である、戦後派のギタリストにはこのような種類に属する者が多い、最初のうちは技巧家に
師事することも悪くはないが、最後の仕上げは解釈の勝れた真の芸術家に師事しなければならない
ただし、この時も最初の師の恩を忘れてはならない

うーむ、深いですね、深すぎます、ただ私の場合、すでに人生棒に振ってしまったようです
でも、自分なりのギターの楽しみ方は、最近になって身についてきたような気もします

「弘法筆を選ばず」という諺もあるが、これはある特殊な場合のことで
弘法は筆を選ぶのが常である、剣道の達人は刀剣の鑑定力においてもすぐれ、書道の達人は
墨、硯、筆、紙の鑑識力においてもすぐれている、ギターにおいても上記のごとく上達するに従い
楽器に対する鑑定力が進んでくる、また、上達の条件として名器が必要なのである
悪いギターで練習していたのでは決して名手にはなれない、単なる指の技術だけの上達ならば望めるが
深味のある演奏とか気品ある演奏は名器の力を借りなくては到底望み得るものではない

確かに私も、レスポールとストラトキャスターの見分けはできますし、D45とJ45の区別も簡単にできます
また、JK-CHAKIもANTONIO-LOPEZも、私には勿体ないくらい良く鳴ってくれる名器だと思います
後は、真の芸術家目指して精進あるのみ、ということですね

私ごとき才能なき者がなんとか本邦においてギタリストの末席を汚していられるのは
エンリケ・ガルシアとアントン・シュタウファーを所持したお陰である
もちろん研究生諸子はこのようなギターは中々入手困難であろうが、幸にも私はこれ等のギターを
基準として、本邦製作家を指導することができたので、峯沢泰三、河野賢、野辺正二、三氏のギターは
世界の水準に達し得たのである

をいをい!あのマーティンカタログに載っている、シュタウファー所有の日本人ってあなただったのですか!
で、今は誰が持っているのですか?そのシュタウファー・・・

何事においても自信を失ったが最後成功は望めなくなってしまう
しかしうぬぼれ、すなわち慢心は芸を滅ぼす
自信とうぬぼれ、これは紙一重、その紙一重の差がわからぬものは大成できない

うわぁ、ご免なさい、まだまだ、わかりません

うまい演奏が必ずしもよい演奏とは言えない
イエペスやアニードの演奏はうまい演奏ではあるが良い演奏とは言えない
ハインツ・ビショップ教授の演奏やカールシャイトの演奏はうまくはないが良い演奏である
それは立派な教養と音楽の中に哲学も宗教も詩もあるからである
人物完成の努力こそ最も必要である、聴衆の教養が茶人の教養ぐらい高くなれば
いわゆる「うまい演奏」は嫌われてしまうだろう

おっしゃるとおり、あなたが嘆かれてからすでに50年近く経過していますが
未だに我々は教養も哲学も宗教もない商業音楽に振り回されています
私も人物完成どころか既に人格崩壊しております、激しく反省!


引用文献「カルカッシ・ギター教則本」
編著者 溝淵浩五郎 1956年
発行 全音楽譜出版社


2.良いギターとは?


皆さんも、楽器店はじめ、ネット上のさまざまなところで
「激鳴り!」「バカ鳴り!」「よく鳴ります!」などと目にすることがあると思う
また、「稀少材ハカランダ使用」とか「世界限定○○本」などの表現も
もう見飽きていることと思うが、いったい「鳴る」とはどういうことか
また稀少材を使えばそんなに音が違うのか小一時間問いつめてみたい

しかし、皆さんに小一時間テキストを読んでいただくのも気の毒なので
私なりの独断と偏見で、そのあたりを解決してみようと思う

「良い楽器」これは確かに存在する、音楽が自己表現の手段であり
ギターがその表現のための道具であると定義する限り、優れた道具は
自ずと見つかるであろう、しかしその使い勝手の良さや、音色、音量は
表現者であるプレイヤーの好みに左右されるのもこれまた事実であって
何が優れていて何が優れていない、というラインは相対的にも絶対的にも
存在し得ない、つまり「自分が良いと思った楽器」がすなわち「良い楽器」なのである

有名メーカーの数百万円もするギターでないと満足しない御仁もいれば
国産の2万円のギターが一番しっくりとくるプレーヤーもいるわけだが
その2万円のギターが「ダメなギター」である、などとは誰も断定できないのである

だから、ネット上で「そんな楽器はダメだ」とか「ハカランダはいい音がする」などと
いう風評は全く気にしなくてよい、ただし、そう言い切るためには、それなりに
自分の中に理想の音のイメージがあり、またある程度楽器の素性を理解できるくらいの
演奏能力が必要になってくると思うが、まあそんなものは練習さえすれば
それなりに身に付くので気にすることはない

楽器に限ったことではないが、肝心なことは、巷の情報に頼ることではなく
自分の耳や心や感性を大切にし、自分にぴったりと会うパートナーを
見つけることだと思うのだが、皆さんはどうだろう?

3.伝記世界の作曲家 偕成社


市立図書館にて夏休みの課題図書を子ども達と物色していたときのことである
偉人伝のコーナーで「伝記 世界の作曲家」というのを見つけた
歴代の大作曲家15人を取り上げたシリーズ物なのだが、その、人選がすごいのだ
さて、前半はビバルディ、バッハ、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト
ショパン、チャイコフスキー、ドビュッシー、ドボルザーク、グリーグ・・と
確かに、ハイドンやシューベルトやバルトークが抜けているのが気にかかるが
それを言い出すとメンデルスゾーンもブラームスも抜けているのであまり追及せず
まあ一応ここまでは、クラシックのお約束とも言えるのだが、その次に
突然何の前触れもなくバーンスタイン、ジョンレノン、ボブ・マーリーが登場し
さらに驚いたことにその後には、なんとエルトン・ジョン、スティング
とわけの分からぬ名が続くのである・・・・・・・・・・・

いったい誰がどのような編集方針でもって取り上げたのか、私のような
ど素人音楽研究家には理解不能である、ただ、素人考えでも、ツェッペリンや
ストーンズの方がポップス・ロック史上重要じゃないのかなと思うんだけどな
それにしても、そもそもエルトン・ジョンって歴史に残る作曲家かいな?
第一、エルトンで歴史に残るくらいなら、ビージーズ(ビジー・フォーとは非なる)
やアバなんかは絶対外せないし、ビリー・ジョエルも抜けないだろう

それに、ポピュラーミュージックで言えば、スティービー・ワンダーは20世紀の
アーティストとしては、ビートルズ以上に重要だろうし、近代・現代音楽では
プロコフィエフとかシェーンベルクなど先に偉人伝化すべき作曲家はゴロゴロ
いるはずなのだが、それがいきなり、スティングとは・・・・うーむ、わからん
もっともっと取り上げなきゃならない先人がいっぱいいるだろうに・・・・
そもそもブルースの神様エリック・クラプトンやその出発点であるロバート・ジョンソン
ジャズ界ではデューク・エリントンやジョン・コルトレーンすら忘れ去られているのだ
どこでどう端折ったのかわからない人選だ、どう考えてもおかしい、しかも
子どもの音楽教育上も大変よくない、今度出版社に抗議にいかなければ

4.河合その子

河合その子のことを書く、知らない方は読まなくてもいいですよ

「夢の花束」の最終コーラスで "♪♪新しい夢を探して、長い旅に出る〜♪♪" と
新田恵利ちゃんとデュエットしているところを聴くと、今でも胸がキュンと締めつけられる
その子ワールドとでも言おうか、独特の多彩な声色の持ち主は、アイドル物をいろいろと聴いている
私でも他には見あたらない、本物のシンガー、アーティストと言えるうちの1人だと思う
私のベストオブその子、は「Colors」に収録されている「想い出のオムニバス」という
青春時代をふり返る切ない詩に、幅広い音域を使った甘美なメロディーを持ったバラードである
もちろん、彼女のアルバムそれぞれに「千の声を持つ女」の魅力がいっぱいで順位をつけても意味は
ないのだが、今、オトナの聴く音楽としてはやはり後期の作品群のほうが完成度は高いと思う
だって40のオジサンが「恋のカレッジリング〜♪♪」では、やはり気味悪いでしょう?
今もクルマに乗ればスピーカーから流れてくるのはその子の曲ばかりである、家族はとうに諦めている
小学校に通う息子などは「さよなら夏のリセ〜♪」と歌まで覚えてしまっているのだ
事実上引退して10年以上経っているのだが、曲が新鮮で、作り込みが深く飽きないのだ、文句あるかっ?

最近の流行りの曲も聴かないわけではないが、宇多田ヒカルでは落ち着いて聴けない
ヒッキーファンの皆さんには申し訳ないが、単に好みの問題だからどうしようもない
また昨今のJ-POPと呼ばれる、打ち込み中心の薄っぺらいどれもこれも似たような構成の音楽は
一度聴くと飽きちゃうのも事実、かつてのポップス歌謡を懐かしく思うのは私だけではあるまい
しいて言えば、小柳ユキがもっとヴォイストレーニングを積んで、音域を広くし
マイク乗りのいい声質になれば、将来性はあるのかなあと思うくらいである
宇多田は声は良いけどいかんせん音痴だし、倉木はそのコピーだし
もっとまともなシンガーの出現を望んでいるのだが、一般聴衆の教養が茶人並みに
高まらない限りは今後も無理なんでしょうね(第一章「ギターをずっと弾いていて思うこと」参照)

さて、もう数年前になるが、「河合その子ファンのオフラインミーティング(オフ会)」が開催され
全国各地から、その子マニアが大阪へ大集結するということがあった
もちろん私も参加したわけだが、自分と同じような人種があまりにたくさんいることに驚き
さらに驚いたことに、昭和62年当時はまだ小学生であったはずの若い女性の参加もあり
なんだかんだと驚いている内にオフ会は終了してしまった

インターネットにより知り合った者どうしが実際に会って交流を深めるオフラインミーティングは
何も珍しいことではないが、実際にメディアから姿を消して久しいアイドルのオフ会の開催
あるいは参加というのは自分自身も含めてすごく不思議なオフであったし、参加者一同おなじような
感覚を味わったことだろう。う〜ん、次回のオフが待ち遠しい・・・

5.音楽的観点からの「君が代」


君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて、 苔のむすまで

ご覧の通り、歌詞は五七調であり、特に妙なリズムを持っているわけではない
また歌詞の用語が難解だという向きも散見されるが、校歌や社歌などにおいても
文語体の歌詞を用いることは、それほど珍しくなく、その意味が
即座に理解しにくいというほど難解な言い回しがあるわけではない
(もっとも、四節目を、岩音鳴りて、と本当に思っている人がいるそうだが)

にもかかわらず、君が代が、これほどまでに若者に不評で、また国歌として
定着しにくいのかを考えたとき、それは決して「侵略戦争の象徴だ」などという
情緒的な理由によるものではないことに気付く
そもそも、メロディー(リズム)が全然歌詞に合ってないのである
メロディーは、歌詞をより聞きやすく際だたせる役目があるにもかかわらず
君が代の場合は、全く逆に作用しているとしか思えない稚拙な節回しだ
冒頭部の「きぃーみぃーがぁーあぁーよぉーおぉーわぁー」ですでにブチ壊しである
普通の言語感覚を持った日本人が聞いても、「紀伊身が用は?」くらいにしか聞こえない

二節目以降も、ずるずると歌詞を引きずった、だらしない譜割りが最後まで続く
これが、多くの国民が親しみを持てない(であろう)理由の大きなものである

次に、現代の歌謡曲などと比較して、非常に調性感に乏しい音使いも、リズム感のない
節回しと相まって、どうしようもなく歌いにくいメロディーにしてしまっている
この曲はハ長調(Cdur)なのだが、出だしも終わりも、フレーズの節目にまで
トニックとして、D(レ)が使われているのが特徴である(太字部分)

みがよ ちよにちよに さざれ いわおとなり こけ むす ま

我々は、小さい頃から西洋音楽に慣れており、ハ長調の場合は、トニック(基音)が
ド(C)で、その伴奏はドミソであるときに、強い安定感を感ずるようになっている
ところが、君が代では、トニックがレ(D)に置換され、伴奏がシレファに
されてしまっているので、我々の頭の中では、それはトニックではなく
ドミナント(五度)の響きを感じてしまい、そのため不安感が強く
なんとなく「終わってない」感覚がずっと続くのである
(しかもファが入っているので厳密には属七だから余計に解決感を望む)

臨時記号が付いていないところから考えると、これは教会旋法と(Ddorian)
考えることもできるが、そうすると、パワーコード中心の伴奏とは全然合わないし
ジャズ理論に即した高次和音(テンションコード)を配置したところで
解決感の無さは依然として治癒されない
4小節目からはドッペルドミナント的に流れているが、なんせトニックがDなので
進行感に乏しく、もともとドミナントな雰囲気を垂れ流している中にドミナントで
進行してしまうと、いよいよ「どれが基音かわからない」状態に陥ってしまい
収拾がつかない、しかも終わりは強制的ユニゾンなので、一層終始感を得にくくなっている

つまり、普通のハ長調の中で、T→Y7→U7→X7→Tという進行を用いると
臨時転調を感じつつ、進行感にあふれ、予感通り解決させることができるのに
Tの和音に、属七を用いてしまっているので、結局のところ
X7→T→W→Um→X7のような感覚に陥ってしまい、曲が終わらないのである

1880年当時の日本では、もしかしたらとてもモダンな曲だったのかも知れないが
120年を経た現在、国歌に相応しい音楽性を具備しているかと訊かれたら
僕は、無い、ありえない、絶対無理、と思ってしまう


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