★書評☆
『社会科学』はブラックバス問題を解決できるか―青柳純著「ブラックバスがいじめられるホントの理由」をめぐって―
佐藤陽一(徳島県立博物館)
    (徳島県立博物館の佐藤陽一氏から生物多様性研究会のHPへの投稿)

 『社会科学』はブラックバス問題を解決できるか―青柳純著「ブラックバスがいじめられるホントの理由」をめぐって―

 佐藤陽一(徳島県立博物館)

【はじめに】
 今や生物多様性の保全や健全な生態系の持続は、国際的にも国内的にも、社会的な目標として認知されるに至っているといってよいだろう。それに伴い、各種の法律の整備をはじめ、具体的な施策が実行に移されるようになりつつあることはご存じの通りである。
 ところで、生物多様性や健全な生態系を損なう要因としては、大きく3つを挙げることができる。すなわち生息場所の破壊(およびこれに伴う生息地の分断・孤立化も含む)、乱獲、そして外来種の影響の3つである。
 これら3つの主要因のうち、生息場所の破壊や乱獲については、まがりなりにも種々の対策が試みられている。しかし、外来種に関しては生物多様性や生態系に対する主要な脅威の1つとして認識されてはいたものの、対策の困難さから具体的な対応策が取られるようになってきたのはごく最近のことであり、課題も多い。
 ここで取り上げ、批評を加えようとしている書「ブラックバスがいじめられるホントの理由」は、代表的な外来種であるブラックバスの問題を中心に据え、それを真正面から捉え、問題の解決に繋げようとの意図のもとに書かれたものである。その点においては、時宜を得ているし、評価できよう。しかも著者は、問題の解決には生物学的・生態学的観点だけでは不十分であるとし、社会学的視点をも積極的に取り入れ、様々な視点を取り入れて問題を総合的に把握する環境学の必要性を訴えている。評者自身は魚類研究者ではあるが、一般市民との関わりや行政関係のいくつかの委員を務めている経験上、自然科学的観点からだけでは環境問題の解決は難しいと実感していたこともあり、本書に対する期待は大きかった。
 ところが、結論から先にいえば、本書のタイトルにあるようなブラックバス問題の真の理由は明らかになっていない、というよりも、むしろ現実から目を背けるものであった。しかも、著者の標榜する社会学的視点というものは、単なるレトリック・ごまかしのたぐいに近いものであり、とても社会科学の名に値しないと思われた。そして肝心の著者がいうところの問題解決のための新提案は、とても新提案と呼べたものではなく,何ら問題解決に役立たないと考えられたのである。
 本書の内容の個々の問題点については以下に具体的に明らかにするとして、評者の考えをもう少し付け加えるならば、次のようになろうか。そもそも本書の著者にはブラックバス釣り擁護という大前提があり、その正当性を主張するために、社会科学的・環境科学的にいかにもきちんと検討したという体裁を取っているにすぎない、というのが本書の本質だということである。ところどころにちりばめられている反擁護論的記述は公平性を演出するための単なるスパイスにすぎないのは明らかだ。
【考 察】
 本書の構成は次の全7章からなっている。さらに「まえがき」と「あとがき」が付属している。
 第1章 混沌から抜け出す第1歩
 第2章 外来魚移入の経緯
 第3章 他の移入種事例
 第4章 現在取られている対策
 第5章 既存の外来魚論の整理
 第6章 何が本当に問題か・対立の構造
 第7章 生物多様性の価値評価と対策の検討

 以上の章の中で中心となるのが第6章と第7章である。第6章では著者の社会学的視点によりブラックバス問題の所在を明らかにすることに当てられている。本書タイトルにある「ブラックバスがいじめられるホントの理由」に相当する内容となっている。そして第7章では問題の解決策が提示される。こちらは本書サブタイトルにある「環境学的視点から外来魚問題解決の糸口を探る」に相当する内容となっている。
 さて、本書は個々の文やパラグラフを単位で見ると、一読した限りでは平易に書かれているように思え、論旨も明快に感じるかもしれない。しかしその実、様々なレトリックやごまかしを駆使して書かれているため、ちょっと注意して読み込むと、論旨に一貫性が無く、かなり難解であることがわかる。このことは、例えば、あとがきの冒頭で「本書では、『外来魚は有効利用すべきだ』とか『外来魚は完全駆除すべきだ』といったような、明確な結論を示すこと」はしなかったと述べることで公平・客観的姿勢を演出しているが、その一方で、「まえがき」と「あとがき」には著者の本音がストレートに出ていることにも表れている。いくつか引用してみよう。

 ・「密放流をする人たちとブラックバスを退治することで問題解決につながるのだという考えに基づいた認識があるようですが、実際にはそのような認識は不正確」
 ・ブラックバスやブルーギルの拡散は、「密放流」が原因のすべてではなく、「いつの間にか分布域を広げているというのが現実」
 ・「多くの人は、移入種であるブラックバスやブルーギルが、日本において何か特別な存在であるという前提で外来魚問題を捉えている」が、数ある移入種問題の1つに過ぎない
 ・「一旦拡散してしまったら簡単に駆除できないからこそ『問題』なのに、それを駆除しようという発想がどこかおかしい」
 ・「釣り人側の猛反発を生むことがわかっている方法[キャッチ・アンド・リリースの禁止]をわざわざ行おうとしている現状は、まさに『貴重な時間・労力・お金・資源を浪費する』状況に他ならず、問題解決どころか、不毛な騒動を膨らませるばかり」
 ・「ブラックバスとブルーギルばかりを槍玉に挙げ...気付いたときには在来魚はおろか、外来魚までいなくなるという事態になりかねない」

 以上の著者による主張からも容易に想像がつくように、ブラックバスに代表される外来魚問題の「泥沼化した現状を打破するため」の方策として鳴り物入りで提示されるのは、結局のところブラックバス釣り擁護派にとって都合のよい限定的駆除(在来魚保護域設定)策なのである。この結論が本書の最重要部分なので、一番はじめに考察することにし、他の個別問題はその後で考察することにしよう。

1.限定的駆除策の幻想
1.1.選択肢は並列か?  著者は外来魚対策の選択肢として、「完全駆除」、「棲み分け(ゾーニング)」、「限定的駆除(在来魚保護域設定)」および「何もしない」の4つを並列に挙げ、これらを実現可能性の面から検討した結果、限定的駆除が最善であるとしている。しかし、以上の選択肢はそもそも並列可能な内容なのだろうか、という疑問がまず生じる。
 なぜならば完全駆除策は、著者も認めているように、「長期的な選択肢」(p. 89)の1つであり、一種の理想目標・スローガンだからである。著者は「外来魚ゼロを目指す」という目標を掲げることに対し「実現性の極めて低い目標」であり、「費用対効果が相対的に低いやり方」(p. 90)であるとして批判しているが、これはまったく批判になっていない。なぜなのかを説明しよう。
 国や地方自治体、あるいは企業を含めどんな組織体でもよいが、ある施策を実施する場合、まず理想的目標・長期的目標・基本方針・大方針を定めるのが普通である。そしてこれを実現するための具体的な複数の目的を設定し、さらに個々の目的の下に行動計画が設定される。このような目標→目的→行動のブレークダウンはステップダウン式のアプローチと呼ばれており(田中, 1998)、全体がピラミッド型の階層構造となっている。階層は3段階とは限らず、さらに深くなることも珍しくない。上位の階層ほど理念的、下の階層ほどより具体的となる。
 例えば、全国に高速道路網を整備するという目標を掲げたとしよう。全国一斉に道路建設工事が始まるだろうか?例えば、文部科学省が大学教育改革という目標を掲げたとする。教員の評価制度の導入や入試改革を全国一律に同時に実行するだろうか?どちらも実現のための条件を勘案して、計画をブロック化し、実施のしやすさや重要度によって評価しつつ、優先順位を設けるであろう。ブラックバスやブルーギルを完全駆除するという目標を掲げたからといって、全国一斉にやるなどという仮定は、常識的に考えてまったくのナンセンスなのである。
 ステップダウン・アプローチに従って、著者の挙げた選択肢を参考に再配置すれば、例えば次のようになるだろう。

生物多様性の保全(大目標)
    外来魚対策(目標)
        ブラックバス対策(目的)
            完全駆除
                限定的駆除(手段)
                    ○○池における駆除(行動計画)
                    △△川における駆除(行動計画)
                規制の強化(手段)
                釣り人に対する教育・啓発(手段)
            棲み分け
            何もしない
               ※太字は著者が並列させた対策の選択肢

 以上からわかるように、本来並列になりえない選択肢を無理矢理並列させて、それらの中から選ぶというアプローチの仕方はそもそもナンセンスなのである。選択は同一階層にあり、かつ対立するものどうしの間でなされるべきである。ここで示した例でいえば、「完全駆除」と「棲み分け」と「何もしない」は同一階層でかつ対立する概念であると考えられるから、三者択一となる。一方、「完全駆除」の下位におかれた「限定的駆除」と「規制の強化」と「釣り人に対する教育・啓発」は同一階層内であるが、互いに対立しないので選択の必要はない(優先順位は必要になるかもしれない)。
 著者は選択肢ごとに費用対効果を論じているが、このような比較も本来、同一階層内における選択肢間ではじめて可能となるものである。階層の異なるものどうしを比較しても何の意味もない。
 もっとも、著者は人間中心主義の観点から「費用対効果論で検討する」(p. 84)と宣言しておきながら、後のページでは「不確実の要因がある」(p. 89)として費用対効果の比較に基づく対策の選択をあっさり諦めているので、結果として実害はなかったことになるかもしれない。でも、ここまでに割いてきたページはいったい何だったのか。論旨が一貫していない一例である。

1.2.長期目標の不在
 前項における議論から、外来魚対策のような規模が大きく困難な施策を実施する場合、長期目標や基本方針を欠いたままの状態で、いきなり具体的な目的や手段を立案することなどほとんどあり得ないことがお解りいただけたかと思う。しかし著者は、「短期的にどうするかということをまず考えるべき」(P。89)であるとして、長期的にどうするかについては実現可能性に問題があるとして、あっさり切り捨てている。しかし、短期的な実現可能性のみを評価基準とすることは、外来魚対策のような生態系管理には適していないことは明らかである。なぜかを述べよう。
 まず、著者も適切に認識しているように、何らかの外来魚対策を実施した場合、「予想通りの結果になるのかという不確実性の要因」(p. 89)が存在する。生態系は複雑で、我々にとってわかっていない部分が多く、しかも状況は絶えず変化しているからである。ここに生態系管理の難しさがあり、目先の短期的目的だけに囚われていてはいけない理由がある。
 不確実性の高いシステムの管理の手法として順応的管理手法がある。これはフィードバック制御の一種で、実験的管理ともいわれる。計画は仮説、事業は実験と捉えられ、モニタリングの結果によって仮説の検証が試みられる。その検証結果に応じて、新たな計画=仮説を立て、よりよい働きかけを行うべく、事業の改善が目指されることになる(鷲谷, 2003)。
 以上の手法の考え方は、何も生態系管理に特有なものではない。例えば、品質マネジメントシステムであるISO9000シリーズなどでも中核的に用いられている一般的な手法であるといえる。ISO9000シリーズにおけるフィードバックの仕組みはPDCAサイクルと呼ばれており、計画(Plan)→実施(Do)→監視(Check)→処置(Act)→計画・・・のサイクルによって問題を改善していくためのフレームである(今野ほか, 2002)。
 そしてこの手法自体は、先のステップダウン・アプローチにおける様々な階層レベルで適用可能である。外来魚対策のような生態系管理にあたっては、ステップダウンの階層も深くなり、それに伴い目標・目的・行動計画も必然的に多角的であると共に、短期・中期・長期にわたり、さらに柔軟(順応的)なものとならざるをえない。著者がいうような単角的・短期的で、しかも固定的な対策を講じただけで済むことはあり得ないといえる。
 以上のステップダウン・アプローチやPDCAサイクルは、異なった名称で呼ばれていることはあるかもしれないが、考え方自体はどちらも政策担当者や企業の管理者にとっては常識である。かくいう評者も職場の研修で勉強させていただいたことがある。それにしてもこんなことは、むしろ社会科学の領分のはずなのだが...?

1.3.限定的駆除策が意味するもの
 著者の四者択一としての限定的駆除策の採用はそもそもナンセンスであることを述べた。ここでは仮に著者のアプローチの仕方が正しいものとした場合、限定的駆除策とは何を意味するのかについて考えてみよう。なぜなら、こうすることにより著者の真のねらいが明らかになると考えられるからである。
 著者のいうところの限定的駆除とは、「守る価値がより高いところを優先して対策を講じる」ことであり、「実現可能性が高く不確実性が低いところを優先して対策を講じる」ことであるという。これだけ聞けばいかにももっともらしく聞こえる。
 しかし、「限定的駆除(在来魚保護域設定)」と括弧書きでわざわざ付け加えているように、特別な在来魚保護域を設定し、ここだけで外来魚を駆除しようとするものである。これは裏を返せば、保護域以外ではブラックバスを公認することにつながることは誰にでも容易に想像できる。著者は、知ってか知らずか(当然後者だろうが)、このような可能性については一切触れていないばかりでなく、限定的駆除策に付随させるべき制約条件についても何も述べていないのである。何とも見え透いたレトリックではないか。
 生物多様性の保全はもはや国際的な課題である。日本も加盟している生物多様性条約には、「生態系、生息地若しくは種を脅かす外来種の導入を防止し又はそのような外来種を管理し若しくは撲滅すること」と明記されている。わが国においても閣議決定された新・生物多様性国家戦略において外来種(移入種)対策がうたわれている。国の中央環境審議会では外来種対策に関する中間報告をまとめた。これを受けて、2004年には外来種対策法案が国会に提出される予定となっている。
 べつに大上段に振りかぶるつもりはない。著者は自身の第3章において法的規制や外来魚政策などについてまとめているにもかかわらず、上記のような流れについて何ら言及していないので不思議に思い、念のため挙げておいただけのことである(中央環境審議会と外来種対策法案に関しては本書の出版後の動き)。これらを引くまでもなく、実現には数々のハードルがあることは認識しつつも、外来種対策は我々の総意となりつつあるのは間違いのない事実である。このような状況の下で、一部の人間にとって多少の利用価値があるからといってブラックバスを大幅に公認するような政策が採られることなどあり得るだろうか。著者のいうところの限定的駆除策は幻想・絵に描いた餅にすぎないだろう。
 なお、誤解のないように付け加えておくと、より具体性のある行動計画としての地域別・個別駆除(著者のいう限定的駆除に相当)自体を否定しているわけではない。すでにステップダウン・アプローチの例の中にも示したように、それは実現可能で有効な手段の1つである。著者は竹門ら(2000)による京都深泥池におけるブラックバスとブルーギルの駆除の試みの実効性を評価しているが、著者のような意図(ブラックバスの大幅な公認)では、評価される方はたまったものではないであろう。評者の住む徳島県でも2001年より田園環境検討委員会を設置して検討をしているが、今後は溜池の排水を伴う改修工事の折には外来魚を駆除し、併せて再放流を招かないように放流禁止の普及活動も行う計画である。各地で行われつつあるこのような努力を無に帰するようないい加減な評価とその利用は止めてもらいたいものである。

2.外来種の影響は等価か?
 著者は、まえがきや第1章、第6章、第7章、あとがきなどで、ブラックバスやブルーギルは、「数多くの移入種問題の1つに過ぎない」としつこいくらいに繰り返し強調している。最終章である第7章では、わざわざ積み木を重ねたような図まで披露してことさら強調しているほどである。もちろん積み木の大きさはすべて同一で、ブラックバスとブルーギルからなる「外来魚問題」は1つの積み木にすぎないように描かれている。著者の意図はあまりにも明白である。問題の矮小化・相対化にほかならない。その証拠に、外来種の違いによる影響力の差に関しては何ら触れられていない。これもあからさまなレトリックである(本人はあからさまだとは思っていない可能性もあるが)。
 著者は第1章において日本生態学会編(2002)による「外来種ハンドブック」を引用して用語の整理まで行っているのだが、生物多様性にとってとくに大きな脅威となる種を「侵略的外来種」と呼び、これにブラックバスとブルーギルが含まれることについては、不思議なことに気付かなかったらしい。また、本書が出版されるちょうど1年ほど前に出版された日本魚類学会自然保護委員会編(2002)による「川と湖沼の侵略者ブラックバス―その生物学と生態系への影響」もご存知なかったらしい。この本ではブラックバスについて、魚類学・生態学のみならず内水面漁業管理や行政対応のあり方など多角的に取り上げられており、ブラックバス問題に関わるうえで必読書であると思われる。著者ともあろうブラックバス問題の専門家が一度も引用していないとは、摩訶不思議なことではある。どうも著者は公平性を演出する一方で、自身の主張にとって都合の悪いことには触れたがらないという性癖があるようだ。
 さて、外来種の違いによる生態系・生物多様性への影響力の具体的な違いに関しては前掲書やその他の報文に譲るとして、ここで改めて確認しておきたいことがある。ブラックバスやブルーギルは侵略的外来種と呼ばれているように、数ある移入種の中でもとりわけ影響が大きいとされている。だからこれらについては特段の注目が集まり、対策の対象として上位にランクされるのは当然の帰結である。著者がいうところの、他にも移入種はたくさんいるのに不当に「ブラックバス[だけ]がいじめられる」かのようなニュアンスで捉えることは、まったく的を射ていないといえる。被害妄想も甚だしい。
 ちなみに念のためもう少し付け加えるなら、ブラックバス自体が悪いなどとは誰も言ってはいない。悪いのは、自分の愉しみや利益のためだけに密放流をする人間である。彼等はモラルや科学的知識が欠如しているうえに(屁理屈には人一倍長けている人もいるようだが)、ときには内水面漁業調整規則で禁止されているにも関わらず、それを平気で無視して放流するならず者である。しかも、事情をまだよく理解できない子供たちまで引きずり込む点において、ひじょうに悪質である。

3.密放流が拡散の主たる原因ではない?
 著者によれば「仮に無秩序放流が大規模かつ恒常的に行われていたのであれば、具体的な証言があってもよさそうなものである(p. 21)」とのことである。しかし、当然のことながら、泥棒に「あなたは泥棒ですか?」と聞いて、「はい、私は泥棒です」と答える泥棒がいるとは思えないだろう。ところが著者は、自身の仮定を真であると勝手に決め込んで、「無秩序放流がそれほど大規模ではなかったとするならば、その程度で全国的なオオクチバスの拡散にどの程度寄与するのかという疑問がわいてくる(p. 21)」と論理を飛躍させる。
 漁協も無く、琵琶湖産アユの放流が行われていない河川や池・湖などの閉鎖水域でさえもオオクチバスが広く生息している事実を、著者はいったいどのように考えているのだろうか?この点に関して何も説明がないのでわからないが、普通こうした状況を目の当たりにすれば、大規模かつ恒常的な密放流がなされていることは、常識的に考えれば確実だとみるのが順当だろう。
 ちなみに、どうしても密放流が憶測に過ぎないというのであれば、私の住んでいる徳島県のあちらこちらで実例をご覧いただいてもよい。別に徳島県でなくても、著者の地元でも適当な研究者や行政担当者などに案内を請えば、いやというほど実例を見せてくれるだろう。それにしても、著者はことほどさように現状認識に疎いのだろうか?評者にはとてもそうは思えない。これも都合の悪いことには目をつぶるという著者の性癖の表れだろう。しかし、このような性癖は社会科学を標榜する研究者としては致命的ではあるまいか。
 好意的に解釈すれば、著者は「第2章外来魚移入の経緯」で述べているように、琵琶湖産アユやゲンゴロウブナなどの種苗放流に混入しての2次的・3次的な拡散の影響が大きいのではないか考えているのかもしれない。確かにそのようなケースの可能性を否定するつもりはない。しかし、多くの閉鎖水域にブラックバスだけが入っており、ブルーギルが入っているとは限らないという実態を考えれば、ブラックバスの選択的な導入(密放流)が図られたと見る方が自然であろう。混入拡散の影響がそれほど大きいのであれば、ブラックバスもブルーギルも同程度の比率で分布しているはずだからである。
 なお、徳島県における傾向をみると、面白いことに、道路から見えるアクセスの容易な溜池にはブラックバスが入っていることが多いのに対し、道路から見えないアクセスのよくない溜池では未だに入っていないことがある。そして後者の場合、コイとギンブナ(ゲンゴロウブナは少ない)がいることは珍しくないのである。このこともブラックバスが選択的に闇放流されていることの傍証になるだろう。
 もう一つありふれた例を挙げよう。徳島県南部の漁協が存在しないある川で、治水ダムが建設された。建設地は川の上流で、建設前に魚類相調査を行ったところ、ブラックバスは生息していなかった。ところがダムが完成し、湛水するとすかさず放流されてしまった。まもなくよい釣り場として賑わったのはいうまでもない。ただ、このダムのバックウォーターには貴重種オヤニラミが生息しており、そこでもブラックバスが確認されたために、ダム建設を担当した事務所では駆除に頭を痛めることになったのである。この対策に、当然のことながら税金の投入を余儀なくされた。著者はこのような行為を「貴重な時間・労力・お金・資源」の浪費であると批判するが、まず誰がその浪費の原因を作ったのかを考えるべきだろう。
 以上の「ブラックバスの拡散が混入によるものである」とする著者に対する反論は、溜池についての統計データが現時点で根拠として存在するわけではないし、ダム湖への放流についても、ダム建設前に本当にブラックバスの1つがいもいなかったかどうかの立証はできない。その点、著者のような思考方法を取る人間にとっては絶好の突っ込みどころとなる余地がある。しかし、密放流による拡散は、評者のように現場で経験を積んできた人間が等しく有する実感であり(魚類学者に限らない)、その蓋然性に関する推察なのである。単なる机上の思考実験に終始する人間の考えたこととくらべて、一般にどちらの信頼性が高いかは一度考えてみた方がよいだろう。それに心配しなくても、溜池などの閉鎖水系における調査が、最近になってようやく活発化してきたところである。今後、徐々に実態が明らかにされていくことは間違いない。
 そんなことよりも、社会科学者であるなら、人脈を生かして匿名を条件に密放流に関するアンケート調査でもやってはいかがだろう。魚類学者は魚類学者の仕事をやる。机上の空論を振り回さず、著者は著者の本分においてきちんと仕事をするのが先決ではないだろうか。
 なお、「第4章 現在取られている対策」におてい、移殖禁止規定の効果については不明であると説明している部分がある。その原因として「釣り目的の意図的な放流がまだある」と対比させる形で「釣り目的の放流が行われていると思わせるための“仕込み”放流が行われている(生息調査などに合わせて事前に誰かが放流している)」という驚くべき憶測を紹介している。まったく根拠が無いことは著者も認めているところだが、それにしても、そのようなことをさりげなく逆情報として入れ込むところなど、まるでえせジャーナリズムの常套手段を彷彿とさせる。密放流の存在については、数々の状況証拠があるので、憶測とはいえない。しかし、仕込み放流なるものは完全に憶測である。これらを同列に扱い、自分の主張を補強することなど、社会科学にあってはならないものだろう。

4.人間中心主義が優越したのか?
 著者は第7章において価値評価の基準を設定するにあたり、まず自然中心主義と人間中心主義という対立軸を想定し検討した上で、後者の人間中心主義を採用するとした。そこでは実例が検討され、自然中心主義者は少数意見にすぎないので、人間中心主義を取るという論法を使っている。
 著者が検討し、主要な論拠として用いられた実例とは、評者の住む徳島県で全国的にも有名になった吉野川の第十堰問題である。評者にとっては何か因縁を感じることもあり、改めてこの第十堰に関わる記述を検討してみた。
 その前にまず、第十堰問題を簡単に要約しておく。第十堰とは江戸時代から存続する潮止め・潅漑などの用水確保のための固定堰である。堰が老朽化しているため、破損して機能しなくなるおそれがあるとして、旧建設省が長良川河口堰のような大規模可動堰化を押し進めようとしていた。吉野川は徳島県にとってシンボル的存在であったことから、この計画に疑問を持った市民グループが独自に調査したところ、可動堰化の根拠がひじょうに曖昧であることが次から次へと発覚した。そのため可動堰化反対運動の大きなうねりが生じ、ついには流域の徳島市で賛否問う住民投票が実施された。その結果は可動堰計画に反対91.6%、賛成8.4%という圧倒的な大差となり、計画の白紙化を余儀なくされたのである。
 著者はこの住民投票における反対派住民の投票動機に着目した。著者が引用したのは安井至氏による分析結果である(安井,2000b)。それによれば、動機別の投票人数割合は次のとおりである。

純粋環境派=自然保護派の反対 5%
反建設省・反公共工事・地方負担反対 80%
水道水の水質悪化といった直接健康に関係する環境要因による反対 10%
徳島市議会に対する反発 5%

 この結果に基づけば、著者がいうところの自然中心主義者=「純粋環境派=自然保護派の反対」はわずか5%にすぎない。これが自然中心主義を無視し、人間中心主義を採用する論拠として使われているわけである。
 さて、評者は以上の安井氏による分析結果に対して、まず各動機カテゴリにおける割合合計が100%であることに違和感を覚えた。なぜかというと、ふつう、動機など心理的要因を明らかにするためのアンケート調査では、単一回答形式ではなく、複数回答形式が採用されることが多いからである。その場合、当然のこととして各項目を単純に集計すると100%を超えることになる。ところがそうはなっていない。いったいどんな調査方法を取ったのだろうかと興味をもったわけである。データ処理の仕方によっては、最終的に上のように要約することも可能なので、解析方法も知りたかった。
 調べてみて驚いた。さいわい出典が明示されていたので、簡単に原典を辿ることができた。原典は「吉野川第十堰改修反対票の理由。市民のための環境学ガイド書庫」という安井氏によるHPである。調査方法はHP上におけるアンケートであり、調査対象者は徳島市民に限定されていない。そこでは「徳島市の住民の多くが反対票を投じた理由は何だと思いますか?」という質問がなされており、10個の選択肢から選ぶようになっている(安井,2000a)。ただし、これらの選択肢は先の4項目とは異なっており、単一解答か複数解答かという指定はなされていない。そして何より重要なことは、この調査の生の集計結果はおろかサンプル数やデータ解析の方法などはまったく示されていないことである。記述から判断して、おそらく安井氏が、得られた解答や意見に基づき、独断と偏見をもって自身の考えを述べたものと思われる。
 評者はこのような憶測に近いようなジャンク情報をHPに掲載すること自体を否定するつもりはない。安井氏は自分の考えや感想を、HPを通して表明しているだけであり、初めから社会科学的検証に耐えるきちんとした調査報告ではないとわかるような書き方をされているので実害はないからだ。むしろ思いもよらぬ引用のされ方をした被害者といえるだろう。
 ちなみに、安井氏は投票率が55.0%であったことから、無投票者の意思をも考慮して、
「仮に21万人の人口のうち、
 9万人が賛成 → 投票しない
 9万人が反対 → 反対票
 3万人が中立・無関心 → うち2万人が、賛成/反対半々ずつ投票
その結果、
 投票総数:11万票= 賛成:1万票 + 反対:10万票」
となったのではないかと想像した。その後で「反対票は恐らく10万+a程度、すなわち、全有権者の50%ぐらい」ではないかと述べている。
 ところが、毎日新聞社による投票前電話調査(「反対が61%で賛成を大きく上回る毎日新聞電話調査」2000. 1. 19)では、反対61%、賛成25%であった。仮にこの比率が正しいとすると、有権者数を21万人として、反対12.8万人、賛成5.3万人、その他2.9万人となり、安井氏が想定した反対10万人、賛成10万人、その他1万人とは大きくかけ離れることになる。このことからも、動機に関する安井氏の分析の信頼性は推して知るべしである。
 問題は、仮にも社会科学を標榜する著者が、いかにもまっとうなデータによる裏付けがあるかのように装って、自身の論拠としていることにある。著者のこのような態度は研究者としては最低、かつ完全な反則である。そこには研究者としての謙虚さは微塵も感じられない。著者はそのような自らの姿勢を恥じるということがないのだろうか?
 そもそも自然中心主義か人間中心主義かという二律背反の対立論形式自体に無理がある。例えば、評者自身を振り返ってみると、評者は魚類研究者であるから、ふつう一般の人よりも自然環境を大切にしたいとの思いはいくぶん強いかも知れない。しかし、だからといって治水や利水を顧みなくてかまわないとはまったく思わない。どちらも大切なのである。先の第十堰の可動堰化に対し賛成した人、反対した人の多くも評者と同様であろう。自然か人間かなどという選択は、まるでクマタカかダムか?、自然保護か治水か?というような10年以上前のマスコミ的論調を彷佛とさせる。議論としては単純で分かりやすいが、最近ではこのような二律背反で問題解決をはかろうということは流行らなくなりつつあるし、そんなやり方では解決は不可能であることが認識されている。そんなことよりも一見相反する選択肢があった場合、問題を掘り下げることにより、妥協点を模索したり、その過程で第3の選択肢・解決策を探したり(創発と呼ばれる)ということを積極的にやるようになりつつあるのが現状なのである。
 本来であれば、こんな時にこそ社会科学者の出番のはずなのだが、どうも著者はそうではないらしい。最近の社会科学の分野では動機(例えば、投票行動や商品選択)といった多元的で曖昧な心理的な事柄でさえ様々な解析手法を駆使して明らかにする研究が盛んに行われている。どうも著者のいう社会科学とは自分にとって都合のよい時にだけ持ち出す便利な道具にすぎないらしい。自然か人間かを持ち出し、自然中心主義とやらが無視できるほど少数派であるというのであれば、そのことをお得意の社会科学できちんと裏付けるべきだろう。

5.ブラックバス問題の所在は明らかにされたか?
 本書のタイトルおよびまえがきなどからすると、本書の主要な目的の一つとして、ブラックバス問題がまさに問題化する(一般には知られていない)真の理由を明らかにすることがあるはずである。これに当てられているのが主として第6章「何が本当に問題か・対立の構造」である。
 著者は国内のいくつかの湖沼における利害対立構造を「釣り」「漁業」「生物多様性」の3要素間の関係として分析した結果、外来魚問題が社会問題として深刻化しているのは、実は問題の本質をなす一方の要素である「生物多様性」はあまり関係がなく、実際には「釣り」「漁業」の利害対立にすぎないという「仮説」を提示している。本書の中で正に社会科学者としての著者の本領がもっとも発揮されているのが本章である。
 しかし正直な感想をいうと、肩透かしもよいところであった。実例に即して分析していること自体は評価したい。科学的研究の多くは、以前からある程度予想はついていたけれども、確証に乏しかったので、それをデータに基づいて改めて裏付けたという形式のものであるからだ。これはこれで非常に大切なことである。しかしどうしても新機性には欠ける。「ホントの理由」を明らかにするというからには新発見があるべきだろう。それがなければ誇大広告であったといわれても仕方がない。
 なぜ肩すかしかというと、「漁業」が状況に応じて対立の鉾先を変えるのは、むしろ常識だと認識されているからである。子供の頃から都市にすんでいて地方の状況を何も知らない人ならともかく、地方にいれば、公共事業などに係る行政や自然保護派の人たちはもとより、直接かかわりのない普通の人でも知っていることだからである。実は(というほどのものでもないが)それは「農業」についてもあてはまることなのだが、この点についてはここでは述べない。ここでは「漁業」に関わるよくあるパターンを想定しよう。
 例えば火力発電所の建設がある地域に計画されたとしよう。建設用地として海面の埋め立てが必要だし、出来上がってからは温排水が排出され、漁業に影響を与えることが予想される。当然、地元漁協はまず反対する。この場合は「釣り」に替わって火力発電所を建設する「企業」、というより計画をどうしても押し進めたい国や県などの「行政」と「漁業」との対立となる。「漁業」を営む権利は法的に明確であるため、この対立が問題の主要部分となる。当然、自然保護派・環境派(先の例でいえば「生物多様性」に相当)の人たちも反対するのだが、いかんせんこちらは法的な裏づけに乏しい。しかし「漁業」が頑張っているうちは当面の利害が一致する「生物多様性」と共闘することもある。そうこうするうちに「漁業」の側は結局は補償金で折れることになる。そうすると「生物多様性」にとって味方であった「漁業」は敵となって、「生物多様性」の側はただただ失望感を味わうことになるのである。
 以上の例は全国的にあまりにもありふれたパターンであるし、火力発電所建設に限らず類似の例は枚挙に暇がないので、著者の提示した「釣り」「漁業」「生物多様性」の3すくみ構造こそがブラックバス問題の真の理由だったのか、と感動する気にはとてもなれそうもないのは、評者だけではあるまい。
 さらに興味深いのは著者がブラックバスをめぐる3すくみ構造仮説を明らかにした後の議論の進め方である。著者はもし仮説が正しいとすると、河口湖や野尻湖で行われているように、「釣り」と「漁業」との間の利害対立を調整する仕組みを構築しさえすれば、とりあえずの外来魚問題は収まってしまうはずだとした。しかしさすがにそのような解決はあくまでも表面的にすぎず、問題の本質はやはり生態系の撹乱と生物多様性の喪失にあると認めている。そして、そのためには生態系撹乱・生物多様性喪失をどのように評価すべきかの検討が必要であるとして、すでに上で評価した最終第7章へとつないでいる。これは一見もっともらしい議論の進め方だが、問題の所在を明らかにして、それをもって問題の解決につなげるという当初の構想を自ら放棄しているのである。いったい第6章は何のための章だったのかと、またしても肩透かしをくうことになるわけだ。極言すれば、本書には第7章だけあればよく、残りの章はなくても特に困らない付け合わせのようなものである。しかし、第7章はといえば、初めに考察したように何ら問題の解決に役立つものではない、ジャンクだったけれども。

 【おわりに】
 本稿を終えるにあたり、環境社会学者である飯島伸子氏の3つの言葉を著者に贈りたい(飯島,2001)。

 「環境社会学は、研究対象を丁寧に実証的に検討することによって、そこで発生している社会的現実を的確に把握することを重視する」

 「環境社会学は研究対象である自然的環境と人間的社会の相互作用が生み出す諸相が、書斎における思索による把握を超えることを経験的に感得している」

 「社会科学的発見は、事柄が発生している現場に密着することによってはじめて理解できる」
 評者としては、著者がえせジャーナリズムに身をやつすのではなく、謙虚に社会科学の精神に立ち返ることにより、自身と社会の双方に益たらんとすることをひたすら願うのみである。

 【引用文献】
青柳 純.2003.ブラックバスがいじめられるホントの理由:環境学的視点から外来魚問題解決の糸口を探る.釣り人社.
飯島伸子.2001.環境社会学の成立と発展.飯島伸子・鳥越皓之・長谷川公一・舩橋晴俊編,環境社会学の視点[講座 環境社会学 第1巻].有斐閣
今野 勤・畠中伸敏・久保田健二.2002.ISO9000顧客満足システムの構築.日科技連出版社.
毎日新聞社編.2000.吉野川可動堰住民投票:反対が61%で賛成を大きく上回る 毎日新聞電話調査.http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/yoshino/200001/19-1.html 日本魚類学会自然保護委員会編.2002.川と湖沼の侵略者ブラックバス-その生物学と生態系への影響.恒星社厚生閣.
日本生態学会編.2002.外来種ハンドブック.地人書館.
竹門康弘・細谷和海・村上興正.2002.深泥池〜外来魚の捕獲調査と駆除事業.日本生態学会編,外来種ハンドブック.地人書館.
田中 章.1998.生態系評価システムとしてのHEP.「環境アセスメントここが変わる」編集委員会編,環境アセスメントここが変わる.環境技術研究協会.
鷲谷いづみ.2003.生態系修復.巌佐 庸・松本忠夫・菊沢喜八郎・日本生態学会編,生態学事典.共立出版.
安井 至a.2000.吉野川第十堰の住民投票.http://www.ne.jp/asahi/ecodb/yasui/YoshinoRiver.htm
安井 至b.2000.吉野川第十堰改修反対票の理由.http://www.ne.jp/asahi/ecodb/yasui/Yoshino2nd.htm

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【評者あとがき】
 評者がこの本の書評を書く気になったのは、知人から最近こんな本が出版されているけれども、読んで感想を聞かせてくれないかと言われたためである。評者自身は、ブラックバスなどの外来魚問題に対しては間接的に関わることはあったけれども、特に中心に据えて取り組んだこともなく、自分が適任とは思えなかったため、いったんはお断りした。しかし、仕事で川魚と物理環境との関係について河川工学の人たちと共同研究を行うようになって初めて知ったのだが、環境工学の分野には、合意形成システムの研究をやっている方、人は川のどのような要素に惹かれるのかといった、ほとんど心理学といってもよいような問題に取り組んでいる方などがいたりして、この分野の奥の深さに驚かされたものだ。また、川魚と河川環境との関係を研究していると、どうしても土木・農業・環境分野などの行政担当者とのつきあいも多くなる。それに評者の勤務場所は博物館なので、一般の方や子供たちとも接する機会が多い。そんなことから、最近、環境社会科学的視点ということに関してはちょっと気にはなっていたのである。そんなこともあり、何となく本書のサブタイトルにある「環境学的視点」という言葉に惹かれて読んでみる気になった次第である。残念なことに内容は、まったくの期待はずれではあったけれども。
 なお、執筆するにあたっては、ジャンク情報に煩わされるのがいやなのと、先入観を排す目的で、本書やブラックバス問題に関わる一切のHP閲覧を控えさせてもらった(吉野川第十堰改築問題に関するHPを除く)。だから著者の主催する「ゼゼラノート」なるHPを含めて,本書をめぐる議論が他のHPやメーリングリスト等でたとえなされていたとしても、評者はこの原稿を書き上げた時点でまったく知らないし、そこでの議論の流れは前提としていないことをお断りしておきたい。もしかすると、他の方がすでに指摘した内容と重複していて、無くてもよいゴミがもう一つ増えただけかもしれない。その節はご容赦願いたい。