自己犠牲について 3 

本を読み終わって、ある場面や台詞が忘れられないことがある。著者の考え方やテーマが心に深くきざまれるときもある。共感し、刺激を受けた本の中の言葉を、どのようにして自分の中に取り込むか。濾過して日常に落とし込んでゆくか。それを模索するのも読書のひとつの醍醐味だ。
今回、自己犠牲について、という主題に沿って本を紹介してきた。誰か、もしくは何かのために死ねるかという問題は、そのために生きられるかという問題と表裏一体だ。相手への関わり方のネガとポジといえるかもしれない。現実の生活では、大切な人のために死ぬよりも、生きなければならない場合の方が遙かに多い。
インドにクリシュナムーティという人物がいた(1976年没)。神智協会という宗教団体で指導者として育成されたが、真理は組織的な営為を通じて得られるものではない、と考えるようになり、宗教を離れて一人で活動するようになる。彼にとっての真理とは「あるがままのもの」への理解と受け止められる。「あるがままのもの」とは何だろうか。
著書『自我の終焉』(篠崎書林)から引くと、「現実に、一瞬一瞬、行為し、考え、感じていること」。「あるがままのもの」を本当に理解したいと思うときには「自己と対象を重ね合わせて同一化することもなく、非難もしない精神状態」が必要だという。
クリシュナムーティの考え方に共鳴しつつ考えてみると、自己犠牲も「誰かや何かのために〜〜べきだ」という理想=観念に基づいて行為する限りは、観念への自己同一化を図っているに過ぎない。対象である誰かや何かへの愛、共感が本当にあるならば、べき論の入り込む余地はなく、行為のみがある。
受容の哲学は、ビジネスの現場にも応用できる。他人の発言の邪魔や批判をしないというルールのもとに各自アイデアを出し合う、ブレーンストーミングというやり方がある。「対象を非難しない」場であるから、誰もが安心して、自由で多彩な発想を出せる。
越川禮子著『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』(講談社)によれば、江戸の寺子屋や”講”(町人の間に組織された一種の相互扶助会)では既にブレーンストーミングが行われていた。江戸しぐさとは、江戸商人が身につけたマナーだが、広く万民に役立つ共生術でもある。狭い道ですれ違うときに相手に胸を向けて肩を引き、半身になって通り過ぎる”肩引き”も江戸しぐさ。自らが一歩譲って他者への寛容を示す。手の平サイズの自己犠牲と言える。
相手尊重の心情の背景には、江戸の町の人々が目の前の人を仏の化身と思っていたことがあるという。現代に生きる仏教徒ではない人間が江戸しぐさに学ぼうとするなら、目の前の人を自分の好きな相手に置き換えてみるのも一案だ。絵や彫刻に表される仏の姿は柔和で美しく誰の目にも受け入れられ易い。同じように自分の好きな人間は、容貌の美醜とは関係なく無条件に受け入れたくなる美しい存在である。
橋本治著『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(筑摩書房)では、美しい、と感じる感情が、そこにあるものを「ある」と認識させる、と説明する。「ある」ということに意味を見出したときに人間関係が芽生える。
美しいと感じることは、憧れを抱くことでもあるという。憧れは「自分にはその要素がない」という、自己の欠落をあぶり出すものでもあるため、敗北感をも呼び起こす。その敗北感を素直に受け入れられる人、または最初から、美しいもののあるがままの姿を見ることの出来る人が、純朴な人間というものだろう。
無駄な気負いを持たず、自らの目と感受性を常に愛するものの上に注ぎ、行為するときには理由づけなど必要としない純朴な存在。そのような存在は自分の行為の果てに待つのが死であっても、それを犠牲とは思わず、ただ、ひとつの終わりとして見るだろう。絶対的な無にはなりようのない終わりとして。


(ウィークリー出版情報’03年6月3週号掲載)

自我の終焉―絶対自由への道

商人道「江戸しぐさ」の知恵袋 (講談社+α新書)

人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)