自己犠牲について 2 「利他的”利己的遺伝子”に寄り添う」

自己犠牲の”犠牲”という語は本来神への供物を指す。人間が供物にされた時代もあったが、徐々に獣で代用したり、形代を作ってその役に充てるようになった。
光と闇の根元的な対立を綴ったスーザン・クーパーの『闇の戦い』シリーズ第2巻『みどりの妖婆』(評論社)には、ユニークな形代が登場する。
舞台は英国、コーンウォールのトリウィシック村。ここでは毎年、海の女神に捧げる形代として、木の枠組に枝葉を差し込んだ”みどりの妖婆”の像が作られる。妖婆は人間達に様々な願い事を託された後、断崖から海に突き落とされる。皆が自分の願い事だけをする中、少女ジェーンは妖婆自身の幸せを願った。海で生命を得た妖婆は少女の願いの優しさを思い出し、物語を動かす重要な行為をする。
形代は人の形をとるものが多い。変化して愛玩用となったのが人形だ。
ルーマー・ゴッデン著『人形の家』(岩波書店)は、小さな木の人形トチーとその家族の物語。それぞれ材質も性格も違う一家は、人形の家で仲良く暮らしている。
ある日、高価で高慢な人形マーチペーンがやってくる。彼女は一家を台所に押しやり、一家のお母さんであることりさんをいじめる。セルロイド製のことりさんは、いつも頭の中にからころと鳴るものがあり、ものがはっきり考えられない。マーチペーンは一家の末っ子りんごちゃんをロウソクの炎で燃やそうとする。ことりさんは身を投げ出してりんごちゃんを救い、自分は燃えつきる。
インドのジャータカ神話には、飢えた旅人に食べ物を与えるため我が身を火に投じる兎の話がある。実は帝釈天の化身だった旅人は、兎の心に感じ入り、黒焦げの亡骸を月の面に永遠に留めてやる。月と兎の説話の由来である。同じ話は日本では『今昔物語』天竺の部に伝えられている。兎を釈迦の前世の姿のひとつとする、仏教説話色の濃い伝承もある。
無力なものが人のために我が身そのものを呈する。その設定は感動的であると同時に危うい。取柄のない存在が人の役に立つためには、命を丸ごと犠牲にしなくてはならない、というふうにも受け止められる。
他のために犠牲となったものは、尊い存在として特別視される。しかし犠牲になる前は、一段低く見られることもあったはずだ。『人形の家』のことりさんにしても、物忘れが激しく、場にそぐわないことを言うので、彼女の夫の人形はときどき我慢がならなくなる。
世界を破滅に導く力を持つ指輪をめぐる物語、映画化でさらに有名になったトールキンの『指輪物語』(評論社)でも、主人公フロドは小さなホビット族、平和を愛する純朴な民の一人に過ぎない。そんな彼が『旅の仲間(下)』の巻で指輪を滅ぼす使命を負う。引き受けた後は戸惑いながらも果敢に旅を続けるが、重大すぎる使命に傷ついてばかりだ。
私たちはか弱く純朴な存在を愛しやすく、その愛情と平行するように、彼らを犠牲者として気の毒がる視線も併せ持ってしまう。、また、このような物語を読んで得る感動は、身近なもののために犠牲になることを潔しとする精神構造をつくることにつながりはしないだろうか。前回この欄で触れた”利己的な遺伝子”は、それも良しとしてはいたが。
物語の作者たちは、ことりさんには彼女を思い続ける家族を、フロドには彼のために苦労を惜しまない旅の仲間を用意している。記憶に残され、寄り添われることによって、犠牲者たちは絶対的な孤独をまぬがれる。絶大な魔力ゆえの孤独を秘めた無気味な形代の妖婆にさえ、ジェーンがいる。
妖婆、ことりさん、そして、魔法使いガンダルフから「かれは見える目をもつ者には、澄んだ光をたたえた杯とも見えるようなものになるかもしれぬ」と言われるフロド。かれらの物語は本の中では終わったが、現代の社会で再生され、繰り返されているように思う。


(ウィークリー出版情報’03年5月3週号掲載)

闇の戦い〈2〉みどりの妖婆 (fantasy classics―闇の戦い)

人形の家 (岩波少年文庫)

文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)