自己犠牲について 1 「誰か、もしくは何かのために」

自己犠牲が脚光を浴びている。
我が身を捨てる行為がもてはやされる傾向は、映画「千と千尋の神隠し」や「ロード・オブ・ザ・リング」の国境を越えたヒットからもうかがえる。前者は日本のアニメ映画で、海外上映でも人気を博す。後者はハリウッド映画で、英国のファンタジーの古典『指輪物語』を原作にもつ。
両作品とも主人公は平凡な少女であり、若者だ。性質が素直な頑張りやである点も一致する。時に弱音を吐くが芯は強く、観る側が感情移入しやすい。かれらは家族や友人、仲間の身を思うがゆえに、無償の労働についたり、苦難の旅に出たりする。己が身の不利や危険を顧みず。己が身。
ここで少し冷静に、生物としての己、というものを考えてみたい。
多田富雄著『生命の意味論』(新潮社)は、免疫系的見地から「自己」を考証する。そこでは「自己」は存在ではなく行為であるという。ウィルスなど外部からの侵入者=「非自己」に対し、「自己」が行う行動様式の総体である、と。I am what I do. というわけだ。細胞は自己複製・組織化を行い、内部や外部から情報を取り入れて自己の体制を確立・運営する。(筆者はその営為を超システムと呼ぶ)。ここで言う自己は単に細胞を人格化したというだけでなく、自我意識をもった人間単体としての自己に通じるものがある。
文中にペストについて触れた部分がある。この伝染病の度重なる流行は、人間に近代的医療の発展、すなわち近代的行動様式=自己、の発展をもたらしたという。
フランスの文豪アルベール=カミュの代表作のひとつに『ペスト』(新潮社)がある。アルジェリアの町オランがペストの流行によって封鎖され、住民や、たまたま現地に滞在していた旅行者は、外部との接触を断たれてしまう。
物語は町の医師リウーの目と、その友タルーの手記を通して綴られる。印象的なのは新聞記者ランベールの変化だ。最初、旅行者である彼は、フランスの恋人の元へ帰るべく脱出策に奔走する。しかしリウーのペスト患者への献身的行動を目の当たりにし、行きずりとは言え関わってしまったこの災禍から逃げた所に、自分の幸福は有りえないと判断、脱出を中止し、志願の保険隊に入る。
タルーの存在も大きい。彼は若き日に、検事である父親が死刑判決を下す裁判を傍聴し、衝撃を受けた。人を死なせたり、人の死を正当化する一切のものと闘う覚悟のタルーは「明瞭に話し、明瞭に行動する」人物だ。「人は神によらずして聖者となりうるか」という真摯な命題を投げかけつつ、ペストとの闘いに散っていく。
かれらは利他的な行動に身を捧げながら、それが自分の心の満足のためだということを常に意識している。
世間に知られて久しいながら、読み返すたびに斬新な、リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店)を思い出す。この本は『生命の意味論』中でも紹介されている。傷を負ったふりをして逃げ、子を捕食者から遠ざける親鳥の「擬傷」や働きバチの巣への貢献は、利他的な行動と見られてきた。それが実は、「個」よりも「遺伝子」の存続を最重視する「利己的な遺伝子」の指令による行動なのだ、という説だ。生物の遺伝子は自らの子孫や所属集団を拡大された自我ととらえるので、自分以外のもののために命を捨てる行為は、利他的に見えても結局は利己的である、と。
物語に登場する人びとにも、あるいは同じことが言えるのかもしれない。しかし動機が利己的であるにせよ利他的であるにせよ、またそれを意識するにせよ、しないにせよ、個体としての自分を捨て去ることの難しさは、日常的な経験から想像がつく。
自分でない誰か、もしくは何かのために身を捨てるということが、人種や時代を問わず普遍的なテーマとなる由縁である。


(ウィークリー出版情報’03年4月3週号掲載)

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