『マグヌス』 シルヴィー・ジェルマン:著  辻由美:訳(みすず書房)

マグヌス

「子どもは五歳までにその一生涯に学ぶすべてを学び終えるものである」。ドイツの教育者・フレーベルの言葉だ。
『マグヌス』の主人公は五歳にして記憶喪失に陥り、その学んだすべてを失ってしまった。ナチス党員の夫婦に引き取られた彼は、 作り話の過去を吹き込まれて育つ。やがてドイツ帝国崩壊により一家は離散。自らの過去が偽りのものと知った主人公は、不確かなアイデンティティを抱えたまま長い旅に出る。マグヌスとは、彼が記憶を失う前から持っていたクマのぬいぐるみの名前。主人公とその真の過去との接点が、物言わぬぬいぐるみだけであることが切ない。
作中、主人公が夢中になる本に『ペドロ・パラモ』がある。メキシコの作家ルルフォが著した、実在する小説だ。名前しか知らない父、ペドロ・パラモを訪ねる「おれ」。行き着いた町に住んでいるのは死者ばかりで、あたかも生けるが如き彼らのささめきが、ペドロ・パラモの人物像とその土地の歴史を浮かび上がらせる。
時系列を重視せず、断片的な文章の積み重ねで物語を構築する点において、『マグヌス』は『ペドロ・パラモ』の小説技法を踏襲しているようだ。『マグヌス』では、通常の小説で「章」に当たる部分が、そのものずばりの「断片」と題される。各「断片」の合間には、作中に出てくる実在の都市や人物についての説明=「注記」、詩歌・本からの引用=「続唱」などが挿入され、架空の物語に現実的背景と文学的彩りを与える。また、冒頭の「序奏」では、自分自身が信じられない記憶喪失者の物語をどのように書けるか、そもそも「書く」ということは何か、著者自身が独白のように呟く。この醒めた視点と筆致のため、ストーリー性よりテキスト性が重視された作品という印象もある。
とはいえ各「断片」は波瀾に満ち、主人公が心通わす二人の女性との挿話や、思いがけない人物と邂逅する終盤の展開は非常にドラマチック。主人公は何かを得てはそれを失い、場から場へと彷徨う。幼少時の記憶喪失という体験は特異だが、その自分探しの旅路は普遍的で共感を呼ぶ。人が己を認識するために必要な「言葉」の重さ、そして頼りなさを考えさせられる話だ。
フランスの高校生が密度の高い議論を通して選ぶという「高校生ゴンクール賞」二〇〇五年の受賞作。


(ウィークリー出版情報’07年2月3週号掲載)