『火山の下』 マルカム・ラウリー:著 斎藤兆史:監修 渡辺暁/山崎暁子:訳(白水社)

火山の下 (EXLIBRIS CLASSICS) (エクス・リブリス・クラシックス)
火山の下 (EXLIBRIS CLASSICS) (エクス・リブリス・クラシックス)

二つの火山に臨むメキシコの町、クアウナワク。愛妻と離婚した元英国領事ジェフリー(小説中での呼び名は主に「領事」)は、この町で酒浸りの日々を送っている。一九三八年の「死者の日」に妻イヴォンヌが彼の元に戻ってくる。彼女を愛すると当時に憎んでもいる領事は、素直に和解できない。憎しみの理由のひとつには、少年時代からの友人であるフランス人・ラリュエルと妻がかつて関係したこともあるようだ。詩人肌の領事が酒に溺れるようになった背景には、現役領事時代にドイツ人将校焼殺に関わった過去もあるらしい。だがアルコール依存症による記憶障害や譫妄のせいで、彼を取り巻く人や事物の関係性は酩酊の霧に霞んで見えにくい。妻との絆が戻ったかに思えた矢先、闘牛見物に出かけた先で領事は突如姿をくらまし、自ら望む「地獄」の運命へと突き進む。
冒頭のラリュエルによる回想の章を除けば全ては一九三八年の「死者の日」の話。しかし領事、イヴォンヌ、領事の腹違いの弟ヒューの視点による追憶や独白が重なり合い、熱を帯びて凝縮された、各人の一生分とも言えるような一日だ。終盤、尻に数字の「七」の烙印を押された馬が幾度も現れる。七とはイヴォンヌが領事を捨てた回数でもあるが、ユダヤ教の密儀カバラにおいては「勝利」を意味する数字だ。この馬が領事とイヴォンヌの元に運んでくる運命は、果たして勝利と呼べるものか、どうか。領事がカバラに傾倒していることは物語の随所に読み取れる。登場人物たちの営みを俯瞰して聳える二つの火山は、二つの三角形を組み合わせて作る六芒星(ダビデの星)の象徴だろう。三角形の上向きの頂点はイヴォンヌの運命を、下向きの頂点は領事の運命を指し示す。相反する方向に引き裂かれたかに見える二人が実は一体であるという設定は、二人が抱く理想の「家」のビジョンが、互いにそうと知らぬまま一致している点にも見い出される。個々の人生としては破滅であり不幸に見えても、男女の有り様の原理には適った二人だったのだ。
自身もアルコール依存症だった作者の自伝的要素を含むというが、「もう十分も酒を飲んでいない」など、酒に限らず何かに依存する癖のある者には思わず苦笑いの洩れる描写も。人間の悲しみとおかしみがぐるぐる「回る」が、不思議と悪酔いはしない本である。


(ウィークリー出版情報2010年6月3週号掲載)