『黒衣の修道僧』 チェーホフ:著 中村喜和:訳(未知谷)

黒衣の修道僧 (チェーホフ・コレクション)
黒衣の修道僧 (チェーホフ・コレクション)

学修士コヴリンは、育ての親である園芸家・ペソーツキーの屋敷に身を寄せている。勉強のしすぎで神経をいためてしまい、転地療養をしているのだ。旧知の土地でコヴリンは快適に過ごし、ペソーツキーの娘ターニャとロマンスを育むほどになる。だが生命と色彩溢れるその場所に、突如異質なものが紛れ込む。一陣の強風と共に現れた、黒衣の修道僧だ。僧は自らを幻影と認めつつ、幻影もまた自然の一部だと言う。彼におまえは天才だと持ち上げられ気を良くしたコヴリンは、その後も度々訪れてくる僧と楽しく会話する。その様子は周囲には狂気としか映らない。修道僧はコヴリンの目にしか見えない存在なのだ。治療を受け、修道僧を見なくなったコヴリン。しかし彼はかつて感じた心の幸せを失い、人間的な魅力もなくしていた……。
物語の最初から神経をいためており、幻覚らしきものの出現にも動揺しないコヴリンは、いわば「信頼できない語り手」だ。彼が最期を迎えるとき、読み手は彼にとって黒衣の修道僧は結局何だったのだろう、と考えこまされる。心に潜む自己肯定欲が人格化したものだったのか。もしかしたら真実天才であった彼に、天啓を与える神秘的存在だったのか。物語がもうひとつあぶり出すテーマは、「ぼくは幻覚を見た。でもそれが誰かに迷惑だったのかい?」というコヴリンの嘆きにある。親切心や探究心で人間の精神を「治療」しようとする身内や医者への非難は、単に元狂人の愚痴としてだけでは片付けられない切実さをもって響く。
中島敦の『山月記』では、自分の詩の才能を信じてはいるが不安をも抱いており、そのために激しい自己撞着を抱えた男が、虎へと変化してしまう。
自意識過剰の度が過ぎれば、いつか心身共に人間の器を保てなくなる、ということなのだろうが、コヴリンの場合はそれが自分の外部、修道僧の姿に投影されたのかもしれない。修道僧を、つまり自分の天才たるを信じ続ければ、コヴリンに別の道は拓けたのだろうか。
「自分を信じる」。「才能を信じる」。これらは世間に氾濫するポジティヴな言葉だ。だが本書はそれらの言葉の蔭に広がる深淵を、静かな優しい身振りで指し示す。その身振りに背中がすうっと寒くなるうちは、まだまだ幸福な凡人なのかもしれない。


(ウィークリー出版情報2010年4月3週号掲載)