『ハルムスの世界』 ダニエル・ハルムス:著 増本浩子/ヴァレリー・グレチュコ:訳(ヴィレッジブックス)

ハルムスの世界
ハルムスの世界

ロシア文学と聞いて咄嗟に思い浮かぶ作品は何だろう。ドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』……当時の社会や歴史を背景に、人間とは何かを問いかけながら展開する、重厚な物語群ではないだろうか。本書はそんな一般概念を覆す、シュールで切れ味鋭い短篇集だ。中には数行で終わってしまう超短篇もある。いずれの作品にも共通するのは、描かれているのが何も信じられない、信じない世界ということだ。ヒューマニズムは皆無、ハッピーエンドとは無縁。登場するものたちは他愛なく死に、無造作に殺し合う。だが突然始まり突然終わるこれらの短篇を読んでいくうち、これが人生の縮図のように感じられてくるから不思議。甘い感傷や慰めはないが、各所に散りばめられているユーモアのセンスは抜群だ。訳出の妙も手伝って、思わず噴き出してしまう。プーシキンとゴーゴリが変わりばんこに互いの体につまずいてはぶつくさ言う戯曲調の『プーシキンとゴーゴリ』、殺人の凶器がなんとも間抜けな『最近、店で売られているもの』などは、お笑いの舞台でも観ているようなお茶目さで、作品の中では珍しく明るい調子だ。
作品の幾つかは奇想天外なラストにも関わらず「それだけのことだ」とクールに締め括られる。世界はいつ何が起きるかわからない、突拍子もなく残酷な場所。大自然に生きる虫や動物にとっては当たり前のことが、人間社会に生きる我々にとっても言える。そう嘯く著者の声が聞こえてきそうだ。
著者ハルムスはロシアのアヴァンギャルドを代表する作家の一人で、不条理文学の先駆者だった。スターリンによる恐怖政治時代に生きた彼は、知識人弾圧の対象となる。幾度か投獄され、最期は刑務所内の病院で死亡する。
ハルムス作品はいつ破綻するか知れない現実をシュールの鏡に投影して描いた似姿であり、彼はそうすることで人間の孤独を達観し、自らが一日一日を生きるよすがにしたのだろう。しかし心底「それだけのこと」と割り切れないからこそ、手を変え品を変え数多の作品を遺したのだとも思える。透徹した残虐性、言葉への偏執や揚げ足取りは幼児の性質にも通ずる。児童文学者として子供に人気のある作品を書いた、ということも頷ける。
本書と重複する作品もあるが、未知谷刊の『ズディグル アプルル ハルムス100話』も併読したい一冊だ。


(ウィークリー出版情報2010年8月3週号掲載)