『影を踏まれた女』 岡本綺堂:著 (光文社)

影を踏まれた女 新装版 怪談コレクション (光文社文庫)

大正時代に編まれた岡本綺堂の『青蛙堂鬼談』から十二篇、同じく『近代異妖編』から三篇を収録した短編集の新装版文庫。岡本綺堂は、捕物帖の嚆矢と言われる『半七捕物帖』で知られる。定評ある時代考証と読み手に優しい筆致で古き日本、特に江戸情緒を描き出す点は、捕物帖も怪談物にも共通する。
『青蛙堂鬼談』では、雪のちらつく春の一日に、好事家の紳士が自宅で急な会合を催す。好奇心で集まった人々を待ち受けていたのは、家の主人と三本足の竹細工の蝦蟇だ。「青蛙」と呼ばれるいわくありげなこの蝦蟇の前で、客たちは手持ちの怪談をするよう乞われる。百物語に倣ったオーソドックスな手法だ。身の毛がよだつ、といった内容のものはなく、読後に不思議な余韻を残す話が多い。
青蛙にまつわる伝説『青蛙神』。『利根の渡』は、渡し場で毎日一人の男を捜し続ける座頭の執念が怖い。部屋に掛けた猿の仮面の目が夜ごと光り、悲劇を招く『猿の眼』。『清水の井』『蟹』『一本足の女』『龍馬の池』などは、あやかしに犠牲者として選ばれた者の不運が極まる、一種の不条理譚だ。
続く『近代異妖編』も、ある語り手が語った怪異という形式を取る。『寺町の竹藪』では、女の子のたったひとつの台詞で全体が怪談となる。表題作『影を踏まれた女』は、影踏み遊びの子供達に影を踏まれて以来、明るい場所に出るのが怖くなった娘、おせきの話。
彼女は「影を踏まれると悪いことが起こる」と頑なに信じる。怪談そのものというよりは、おせきの強迫神経症的な脅えを怪談という角度から描き出した秀作だ。
全編、人間心理の描写が生き生きしているため、短い話であっても薄くはない。『利根の渡』で座頭の面倒を見てやる老人の気の良さ。『蛇精』におけるうわばみ退治の名人とその妻の睦まじさ。『影を踏まれた女』では、おせきの許婚が彼女を守ろうとする意気込みが健気。しかし彼らの人情にほだされていると、話は不条理の内に終わったり、酷い結末を迎えるので油断ならない。
怪異それ自体を動かない縦糸とし、怪異に翻弄される登場人物の右往左往を横糸にして綴られる短編の数々。きっと読み手の心の襞に忍び込む影となるだろう。


(ウィークリー出版情報’06年6月3週号掲載)