『飛行蜘蛛』 錦三郎:著 (笠間書院)

飛行蜘蛛

アラクノフォビア(蜘蛛恐怖症)という言葉がある。クモはなぜ嫌われるのだろう。八本脚の姿のせいか。尻から糸を出す奇抜さのせいか。獲物の捕り方に狡猾なイメージがあるからか。それらの特徴は、クモが独特の個性を持つことの証でもある。独特の個性は、ある種の人間には深い魅力となる。
『飛行蜘蛛』は、クモの科学的、また文学的な魅力について語った本だ。一九七二年、丸ノ内出版から刊行されたものの復刊である。著者の故郷、山形県では、かつてよく不思議な現象が観察されていた。快晴無風の青空に、白い細い糸が漂うように流れる。主に晩秋と早春に見られることから「雪迎え」「雪送り」と呼ばれた。昭和の始めにその正体がクモの糸だとわかったものの、どんな種類のクモによるのかは不明だった。著者はクモの飛行の様子を十三年にわたって観察。新種を含むそれらのクモの種類を明らかにし、彼らの空への旅立ちを情感こめて記録した。
飛ぼうという強い衝動に駆られたクモたちは草の上などに上り、出糸突起から糸を吹流す。糸が上昇気流に乗ると、それに引かれて空に舞いたつ。行き着く先は何処とも知れない、思い切った種族分散の手段だ。空中移動するクモは、幼生の時期だけ飛ぶものも、亜成体や成体になっても飛ぶものもいるという。クモが落ちた後の糸が絡まり合って漂う様は、世界各地で観察されている。中国の「遊糸」、英語圏の「gossamar」など。どの国でも「はかなさ」の象徴なのが、文献の引用や冒頭に掲げられた「雪迎え」の写真から納得できる。
神話や古典、現代文学に登場するクモの糸談義、クモ談義も充実している。能や歌舞伎の演目にある「土蜘蛛」は、年経た土蜘蛛の精が掌から千筋の糸を繰り出して戦う場面が見所。悪役のクモが、糸で見せ場を作る。同じ物語が画題の「源頼光土蜘蛛ヲ切ル図」(芳年)は、この本の表紙にぴったりだ。
近年、自然環境の変化で、数多のクモが織り成す「雪迎え」「雪送り」は幻の現象になったという。晩秋や早春の晴れた日、尻を高く掲げてじっとしているクモを見かけたら、静かに見守りたい。彼らの飛行の瞬間だけでも、見られるかもしれない。


(ウィークリー出版情報’05年10月3週号掲載)