哲人宰相 湛然居士


                                      平成15年10月
                                    伊藤 征一

安岡正篤氏の「東洋思想と人物」という書物に「哲人宰相湛然居子」という一文があり、「湛然居子集」という書物に出会ったときのことが懐かしく回想されている。それは、氏が一高の旧寮にいたころのことであった。ある秋の夜、ドイツ語の勉強にもあきて、何か古書でもあさってみようと図書館に入り、何気なく漢籍のカードを繰ると、真先に「湛然居子集」というのが出てきた。

湛然居子(耶律楚材)とは、『あの蒙古のテムジン、支那史上にも稀有な大英雄チンギス(太祖)カーンがすっかりその人物に傾倒して、子のオゴタイ(太宗)に、「楚材は天から、我家に賜った宝である。以後軍国のことは万事楚材に委しておけばよい」とまでいったのでみても、またあの鉄蹄の下に欧亜の大陸を蹂躙した獰猛果敢な蒙古の驍将連を駕御して、三十年間政権を握ってゐたことによっても、決して並や大抵の人物ではなかったに相違ない。しかし一体その人格や性情はどんなであったらうか』などと考えながら最初の巻を一寸開いてみたところ、「蒲華城にて万松老人を夢む」という詩題が眼に映った。その詩題の後に「蒲華城にて万松老人を夢む。法語諄諄、さめてなほその髣髴を見る。詩を作ってもって寄す」という短い序と七律一篇とがあったが、その詩を読んだ刹那、氏は意外な感動を覚えたという。

『実は私は内心ひそかにきっと彼は理知氷のごとく、意思鉄のごとく、いわゆる胆に毛も生えたような俊傑の士、東洋一流のどこか粗大な英雄と思っていた。しかるにこれでみると、案に相違して、何だか敬虔な求道者のようである。万松老人とはその敬慕する法の師に相違ない。私は直に年表を取り出して、幸巳の年を調べてみた。すると幸巳は丁度西暦千二百二十一年、彼がチンギスカーンに侍して西域を征伐中である。本来ならば、凄惨な破壊、殺戮、闘争の間にあって、人間の温かい情緒などは酷たらしく蹂躙せられるところに、なほ征夢の枕に故国の老師を偲び、夢中に法語を聴くなどは、よほど熱烈な求道心ある者でなければ経験のできないことである』と感嘆して、この最初の奇遇から、氏は湛然居子耶律楚材に傾倒したということである。

むごたらしい戦場にあってもまた征夢の枕に故国の老師を偲び、夢中に法語を聴いて、その思いを詩文にしたためる、まさに、風流の極致である。風流とは、弛緩し精神とは対極の境地であり、困難に立ち向かっているものが、心の安らぎをもとめてやむにやまれず行う、必然性を持った精神活動なのである。

これは、前文「風流への道」で引用した風流に庭に愛育した、二本の牡丹がようやく大きくなり、蕾みかかっ ている。若干の躊躇も今日まではあったが、いよいよ出陣の今日、何時何処で生 命を落とすかもはかり難い。すっぱり切りはらって、思い残すところなく門立とうと解釈する。その同じ人が、戦場では、敵陣で拾った歌書を読みふける一面を 持つ、やはり風流人なのであるという文章にも通ずるものがある。

「本来ならば、凄惨な破壊、殺戮、闘争の間にあって、人間の温かい情緒などは酷たらしく蹂躙せられる」ような場にあって、征夢の枕に故国の老師を偲んでその思いを詩文にしたためたり、あるいは、「いよいよ出陣の今日、何時何処で生命を落とすかもはかり難い。すっぱり切りはらって、思い残すところなく門立とうと決心して戦場に臨んだ」者が、敵陣で拾った歌書を読みふけるなど、大事に臨んだ緊張感の大きさに比例して、風流の境地も大きくなる。現実の荒波の中で強い緊張感を強いられる者ほど、虚の世界で風流心を深めることができるのである


(引用文献:赤字部分) 安岡正篤東洋思想と人物」(明徳出版社)

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