伊藤
征一
中村幸彦氏の『此ほとり一夜四歌仙評釈』から、さらに引用を続ける。
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けふや切るべき牡丹ふたもと
与謝野蕪村
この係助詞の「や」は、今の文法で云えば、下の「べし」の連体形に応じ
て、反語になっている。切ろうか切るまいか、やはり切るべきである。一句
の意は、未練や、とまどいか、があった末で、ここに二本の牡丹があるが、
今日もう切ってしまおう、となる。もっと強く、「今日切るべし」と決断した句
である。 (引用終り)
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三浦樗良や与謝野蕪村の句を読んでも、中村氏のような専門家の解説
がなければ、素人にはその面白さは解らない。しかし、全くの素人には解
説すらわからないだろう。上記の句でも、古文の素養が全く無い場合には、
「未練や、とまどいか、があった末で、・・・、今日もう切ってしまおうと決
断した」というような、迷いから決断にいたる微妙な気持ちの動きはわから
ないだろう。解説を理解するためにも、「連体形に応じた反語」と言われて
なるほどと思うくらいの素養は必要である。
私も学生時代に古文を勉強していなければ、ここまで解説されても十分
に理解できなかっただろう。不承不承ではあったが、古文を勉強しておいて
よかったと思う。この歳になってこのような風流な気分を味わえるのも、若
いときに丸暗記した古文の知識があればこそだと思う。
そんなことを考えているうちに、高校時代の古文の参考書に書かれてい
た小西甚一氏の言葉を思い出した。正確な記憶ではないが、主旨は以下
のようなものだった。
『 君たち高校生に古典の本当の意味など解るはずがない。解るなどと
言う高校生がいたら、気持ちが悪い。しかし、君たちが四十歳くらいにな
れば、古典の意味が解るようになるはずだ。また、古典を読みたくなるは
ずだ。そのときのために、だまされたと思って古文の基礎知識を習得して
おきなさい。 』
このような認識で、小西氏は高校生向きの参考書を書かれたのであろ
う。入学試験という強制的な制度が、普通ではやる気になれない暗記物
の知識を、若い柔軟な頭に叩き込んでくれるのである。その教え通り、こ
の歳になって、中村氏の解説の真意が解るようになり、風流について考
えることができるようになった。ありがたいことである。
風流の道に入るためには、風流とは対極にある暗記物の訓練によって
基礎的な素養を身に付けることが必要である。最近の教育は、暗記物を
軽視しているように見受けられるが、古文だけでなく、英単語の丸暗記な
ども若いうちに有無を言わせずやらせる必要がある。若いうちにそのよう
な訓練を受けた者だけが、風流を解することができるようになるのである。
風流の道を究めるためには、元手がかかるのである。
しかし、後天的に勉強した知識だけでは本当の風流は解らない。風流を
解する「感性」が備わっていなければ、いくら知識を詰め込んでも、方向違
いの理解しか得られないだろう。前述の中村幸彦氏と暉峻康隆氏の解釈
の差は、感性の差によるものではないだろうか。基礎的素養と感性の両者
があいまって初めて、風流の道に入ることができるのである。風流とは、そ
のような感性を有する選ばれたものだけが、厳しい修練の末に到達するこ
とができる境地なのである。風流への道は厳しい。
(引用文献)中村幸彦「此ほとり一夜四歌仙評釈」角川書店(昭和55年)
(参考文献)小西甚一 「古文研究法」 洛陽社(昭和39年)
(参考文献)小西甚一 「古文の読解」 旺文社(昭和37年)
(参考文献)小西甚一 「国文法ちかみち」 洛陽社(昭和34年)
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(注1) 上記の古文参考書とは、「古文の読解」(旺文社、昭和37年)
のことである。実は、何年か前にこの本を書店で再発見して購入し
てあったのを思い出し、該当する記述を捜してみたところ、その記
述があったので、以下に引用しておく。
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兼好という法師は、どうも考えが消極的で、ピンと来ない――と、
諸君はお感じにならないだろうか。もしそう感じないなら、その人は
どうかしている。若い元気な人が『徒然草』にはすっかり共鳴しまし
た――などと言うようであったら、まったく心配である。だが・・・であ
る、諸君が四十歳ぐらいになってから、『徒然草』をじっくり読みかえ
してたら、「何事も古き世のみぞ慕わしき。今やうはむげにいやしく
こそなりゆくめれ。」(第22段)といったような文章に対しても、それ
ほど抵抗を感じないのではなかろうか。 (引用終り)
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私が購入した「古文の読解」(旺文社、昭和37年)は昭和61年に
発行された改定重版である。 現在は絶版になっており、ネットの
古本サイトでも見つからない。
(注2) 小西先生の参考書は、「古文の読解」以外に下記のものがある。
「古文研究法」(洛陽社、昭和30年)
こちらの方が有名で、昭和40年に改訂版が出ており、平成7年に
は改定90版が出ている。その後どうなったか気になって、時々近
所の本屋をのぞいてみるのだが、なかなか見つからない。続版が
出ていることを強く願っている。
⇒ 平成16年3月25日付けで、改定100版が出たことを確認した。
このうえは、改定200版を目指してほしい。
(注3) なお、 菊地孝仁氏のサイト「小西甚一先生の家」に、小西先生の
「古文研究法」の中のはしがきなどが、以下の紹介文を付して掲載
されている。
『私自身は小西先生から直接指導されたわけではありません、
唯、この先生の本の御陰で「古典文學」の世界を知る事が出
來たと思つてをります。以下、最初に讀んだ「古文研究法」(洛
陽社刊)の中から先生の、お言葉を「頂戴」して皆さんにも紹介
したいと思ひます。』
⇒ 残念ながら上記サイトは現在閉鎖されてしまったが、菊池氏の
小西先生に対する尊敬の念だけでも上記の文章からくみ取っ
てほしい。
(注4) この文を読んでくれた経済企画庁の後輩(といっても、もう停年にな
ろうという年齢であるが)から、年賀状で以下のようなコメントをいた
だいた。
『伊藤さんのホームページを見せていただいて、私も少し古文を改め
て勉強したく思い、小西甚一先生の「国文法ちかみち」(洛陽社)とい
う本を買いました。文法事項を単に順番に説明してあるだけでなく、
所々に小西先生の個性的な考え方が書かれていることがわかりま
した』
(注5)上記(注3)で 紹介した菊地孝仁氏も私(伊藤)も、共に理工系である。
また、上記(注4)の後輩は経済の専門家である。いずれも古典文学
とは無縁の仕事についているが、高校時代に出会った古文の参考書
が、半世紀近く経た現在もこのようなかたちで、影響を与え続けてい
る。この一事からも、世界的な大学者である小西甚一先生が、同時
にすばらしい教育者であることがわかる。