古代史 随想


2021.11.08
  先日、たまたまテレビで、「聖徳太子」のドラマをみた。10年前の再放送のようだつた。聖徳太子と同時代の推古天皇の16年(608)記事をテーマに「雑考ノート」を書いたばかりだったので、何かこの時代に引き寄せられたのかな、と思っていると、また昨日、聖徳太子をテーマにした番組を目にした。なぜ、こうも立て続けに聖徳太子なのか。でも、その番組でわかった。来年は聖徳太子没後1400年なのだ。聖徳太子は622年に49歳で亡くなっている。
  しかし、今日の話はそのことではなく、昨日の番組に出演していた某大学大学院の准教授の話の中に出てきた言葉についてである。彼女は、聖徳太子が隋に使者を送ったとしている。日本書紀にはそのことは書かれていないが、海外の情勢からそのように考えられるのだという。私は、この時代にやまとが単独で隋に使者を送ったということ自体疑問に思っているけれど(新唐書には、用明天皇のとき、初めて中国と通交した、とあるが、推古天皇時代には「隋」という国は登場しない)、話はこれまたこのことではなく、別のことにある。
 彼女は、「やまと(日本)」のことを「倭(わ)国」と何度も呼んでいた。問題はこの「倭国」を「わこく」と呼んでいたことである。「倭」を「わ」と読んでいながら、「倭(わ)」は「やまと(日本)」のことだという。日本書紀では「やまと」のことを「倭」と書いた時期はあったが、その発音は「やまと」であり、「わ」とは読まなかった。「倭」も「日本」も「やまと」と読んだのであり、呼び方が「わ」から「やまと」に替わったわけではない。旧唐書と新唐書には、国名が「倭国」から「日本国」に替わったと書かれているが、これは漢字表現上のことであり、また「やまと」側の言い分なのだから、読みは、どちらも「やまとのくに」とすべきなのである。中国史書が書き続けてきた「倭(わ)国」が「日本(やまと)国」になったわけではないことを理解しないと、歴史を読み間違えてしまう。
  「わ」と呼んだこともない「やまと」の国を、こういうときだけ、なぜ平然と「わ」とするのか、私には理解できない。前にも書いたことがあるが、「日本」のことを「昔の倭国」という人がいるが、日本列島の人類の歴史をみれば、それはあり得ないのであり、日本古代史では特に、「倭」と「日本」、「倭人」と「日本人」については、その時代時代で正しい言葉遣いをする必要がある。
  大学で研究し、学生に教える立場にいる人は、なおさらのことであり、研究者たるもの、肝に銘じてほしいものである。

2020.09.07
  2か月ほど前の読売新聞夕刊の「日本書紀を訪ねて」というコーナーで、天孫降臨のことが書かれていた。
  出雲の国譲りがあったのに、なぜ天孫は出雲ではなく「日向の襲の高千穂峰」に天下ったのか。このことは以前から不思議に思っていたけれど、故古田武彦さんは、「日向の襲の高千穂峰」を南九州ではなく、九州北部の「日向」とした。私もこの説に同感し、それ以上深く追求しなかった。今回、この記事をみて少し考えてみようと思った。
  記事では、ラサール学園教諭の永山修一さんの説が紹介されていた。日本書紀編纂の8世紀初頭の南九州情勢が投影されていて、隼人がヤマトに服属したいわれを神代に遡らせて支配の正当性を内外に示そうとした、という見方だ。この説は一理あるようなないような。

  天孫降臨の地が地理的に「日向の襲(大隅国)」だとすると、この辺りは、のちに景行天皇が征討することになる熊襲がいた地域にあたる。景行天皇は天皇家の祖先の地を討ったことになる。隼人も海幸彦を祖先としているから天孫一族である。隼人は天孫一族でありながら、8世紀初頭までヤマトに抵抗していたことになる。ヤマトにとっての抵抗勢力は熊襲・隼人であり、そこはなぜか天孫降臨のあったところなのだ。

  もやもやした気持ちの中、私は次のようなことを考えてみた。
①出雲の国譲りとは、大国主じつは饒速日(大国主、大物主のこととされていることが多い)が九州北部の奴国王族である磐余彦(のちの神武天皇)に山東(ヤマト)の主権を譲った事件のことである。日本書紀はこのことを隠すために「出雲の国譲り」として創作した。
②天孫降臨とは、九州北部の国(奴国)が九州南部の国々(熊襲、隼人)を征服した事件のことを指す(熊襲の中には邪馬臺国もあったと私は考えている)。
③天孫降臨の地が襲の国であり、隼人の祖先の話があるのは、天孫が熊襲や隼人を支配した事実、そしてその間で混血があったことを示している。

  饒速日は素戔嗚の子であり、博多湾周辺にあった奴国の王族の一人であり、3世紀の初め頃、河内に移りその後山東に移り(先代旧事本紀)、3世紀中頃、奴国王族の磐余彦を山東に呼んだ。通説では、これは神武天皇の東征と言われている。大物主は饒速日であり、三輪山に住む神である(日本書紀10の秘密)。崇神天皇の時にヤマトトトヒモモソヒメに憑依し、疫病などを鎮めた。神武天皇は大三輪の神の子・姫蹈鞴五十鈴姫を妻としている。大物主は大三輪の神であり饒速日であるから、饒速日は神武天皇の舅ということになる。神武東征と言われているものは、実は神武婿入りだったことになる。磐余彦が山東に入ったとき、饒速日はすでに亡くなっていたが、この事件はまさに「国譲り」である。ここでちょっと考えてみると、饒速日は素戔嗚の子であり、もともとは出雲の神である。饒速日が磐余彦に譲ったのが山東であっても、それは「出雲の神の国譲り」であり、それを「出雲の国譲り」だと言っても、一概に誤りだとは言えないかもしれない。大国主と大物主を意図的にすり替えたりしていることを考えると、大物主である饒速日が大国主だとされることもあったのではないか。また、九州時代の天孫が受けた国譲りの後のストーリーがあまりに不可思議であることも、この見方をあと押ししてくれるかもしれない。

  もやもやした中での私の思考は突拍子もないものなのか、あるいは卓見なのか。またもやもやしてくる。

2020.05.18
  昨日、BS-TBS番組の『諸説あり』で、「日本人 謎のルーツ」が再々放送されていた。過去2回とも観そこなっていたので、拙著『縄文から「やまと」へ』(2005.5発売 現在の改訂版電子書籍『倭と山東・倭・日本』)の第1章で「日本人の起源」を論じた私は、どういう内容なのか非常に興味があった。 番組では
①約2万年前、シベリアからマンモスを追って、陸続きだったサハリンを通り北海道にやって来た。
②約4万年前、スンダランド(インドネシアとフィリピンは地続きになっていた)から沖縄・九州へ渡来した。
③50万年前から、日本列島には人が住んでいた。
の三つの説を紹介した。
  ③は、ネアンデルタール人が持つ花粉症のDNAを日本人は51%持っていることから、ネアンデルタール人は絶滅したのではなく、ホモサピエンスと混血し生き残り、日本列島に渡ってきた、という説のようだ。このような説があることを、今回初めて知ったけれども、今後、より多くの科学的根拠が必要とされる説のように思えた。

  私は、前述した『縄文から「やまと」へ』で、バイカル湖畔にいた新モンゴロイド的特徴を持った古モンゴロイドが約1万4千年前に、細石刃を携え、サハリン経由で北海道に渡来した、ということを書いた。番組の①の説の「マンモスを追って」と「2万年前」を除けば、私の説とほぼ同じである。また、2万年前、スンダランドにいた旧石器時代人が北上し日本列島(北海道を除く)へ渡来した、ということも書いた。4万年前とすれば、番組の②の説と同じになる。
 番組では、日本人のルーツは①か②である、いう考え方のように私にはみえたが、私の見方は、初めに②が起こり、引き続き①が起こったとしている。拙著では、日本人の基礎はどのようにして形成されたのか、「私の考え」を8段階(9番目は日本語について)で説明しているが、縄文人は北方系なのか南方系なのか、という一律の見方はしていない。考古学、人類学、遺伝学などのデータは、日本人の複雑な成立過程を示している。私がこの原稿を書いたのは16年前であり、出版してから15年になる。今はもう『諸説あり』の時代ではないのではないか。番組を観て、そんなことを感じざるを得なかった。

  『縄文から「やまと」へ』の「日本人の起源」の研究による結論は、「現在の日本人は北東アジア系渡来人の流れを汲むものである」となった。それは、「倭人と日本人の関係は、南方系倭人の国・倭国と北東アジア系渡来人の国・日本(やまと)国の関係」となることを示していた。私は思いがけず、「日本人の起源」の研究から、『旧唐書』までの倭国と『旧唐書』に初めて現れる日本国は、人種的に別国であることを知ることになったのである。

2019.11.03
  最近ネットで時々見かけるのが、「邪馬台国はなかったし、卑弥呼もいなかった」という少し気になる話。本そのものは読む気はしないので、他のサイトから得た知識で少しだけ私の見解を述べたいと思う。
  「邪馬台国はなかった」というのは、その国の本当の名は「邪馬壹」か「邪馬臺」あるいは「邪靡堆」なので、「邪馬台国」という国はなかったというのは正しい。卑弥呼はいなかったというのは、卑弥呼神社がないことがその理由のようであるが、その前の時代の倭国王帥升を祀った神社はあるのだろうか。現存する最古の『三国志』は紹興年間(12世紀中頃)の刻本であることから、『三国志』『魏志』倭人伝は、この頃、日本の史書・『古事記』を見て中国人が勝手につくったものだという。この見方だと、12世紀中頃まで『魏志』倭人伝は存在しなかったことになり、ヤマトの人たちもそれまで『魏志』倭人伝を知らなかったことになる。そんなことはあるのだろうか。
  鎌倉時代に書かれた『釈日本紀』(卜部兼方)には、「延喜(901~923年)公望私記(『日本紀私記』)曰・・・則魏志所謂邪馬臺者也・・・」とある。また、『古事記』成立より前の660年頃に張楚金が編纂した『翰苑』という史書があるが、そこには、倭國の項に「魏志曰、倭人在帶方東南・・・」、「槐(魏)志曰、景初三年(239)倭女王遣大夫難升未利等、獻男生口四人・女生(口)六人・王王(斑)布二疋二尺、詔以爲新(親)魏倭王、假金印紫綬、正始四年・・・」とあり、『魏志』はすでに存在していたこと、倭国女王が魏に遣使し「親魏倭王」の金印紫綬を与えられたことなどが書かれている。
  『魏志』倭人伝だけを読んで、卑弥呼の国に辿りつかないからといって、邪馬台国(本当は邪馬壹・邪馬臺・邪靡堆)や卑弥呼は存在しなかったというのは歴史の研究とは言い難い。その時代時代を記した個々の史書自身において、そしてまた時間の流れとして、それぞれの史書間において矛盾のない歴史を考えること、こういうことが歴史を科学することだと、私は思う。
  日本列島について記している中国史書全体を読まずして、中国史書の日本列島に関する記録を否定するのは、学問に対する怠慢としか言いようがない。

2019.05.11
  昨日夜、BS TBSの2時間番組「諸説あり」で、邪馬台国を取り上げていた。この種の番組はあまり中身がないものが多いので、どうかな?と思いながら見ていたが、やはり史料となる文献は『魏志』倭人伝のみだった。
  構成は、畿内説、九州説、中国人学者による説と、大きく3つに分かれていた。
  畿内説は当然のごとく、邪馬台国は纏向遺跡だとする。その根拠は1、卑弥呼の宮室と思われる柱跡が見つかったこと 2、全国の土器が出土していること 3、箸墓古墳の後円は150mで、『魏志』倭人伝にある卑弥呼の墓「径100余歩」に一致すること などが挙げられている。さらに、卑弥呼が魏に献上したとする水銀(丹)の採掘跡が見つかり、卑弥呼の時代ではほかの地域では発見されていない、ということが決定打になるという。
  2の「全国の土器が出土している」のは、確かにここがある地域の中心だったからだということはわかる。しかし、磐余彦(のちの神武天皇)も九州から来たのであり、邪馬台国が日本列島全体の中心でなければならないということではない、と私は思っている。中国が朝貢国として認めた国、それが邪馬壹(臺)国だったというに過ぎない。3の箸墓古墳については、卑弥呼の墓が円墳であることに合致しない。くびれ部の調査結果では円墳に方墳を足した形跡はないという。しかし番組では、このことには一切触れられていなかった。 「水銀(丹)」についても、今後、卑弥呼と同時代の他地域からの発見があれば、これも決定打にはならなくなる。
  九州説では吉野ケ里遺跡が紹介されていた。私は九州有明海北東部沿岸説をとっており、八女市辺りを邪馬臺国に想定している。ただ、最近は吉野ケ里もありうるかな?という気持ちも少しある。
  吉野ケ里遺跡には、『魏志』倭人伝に記載されている城柵があり、同じ時代の畿内にはそれはない。鉄製武器も多く発見されており、「倭国乱」があったことを伺わせる、という。そして最近新しい発見があった。「硯」である。これは文字があったことの証拠となる。
  高島忠平さんは、平原古墳が卑弥呼の墓だとする。墓の形からすれば、箸墓古墳よりましかな、というようには感じた。
  中国人学者説では3人の学者の説が紹介されたが、どれも九州説だった。『日本書紀』など日本側の事情に左右されない人はやはり「九州説」になるんだなあ、と、感慨深かった。
  中国人学者の見解で私は次の3点が気になった。
①『魏志』倭人伝には、漢・三国・晋の時代のことが混在している。わかっている情報を盛り込まざるを得なかったのではないか。
②『魏志』倭人伝に記載されている距離はあてにならない。方角に注目すべきである。この時代、会稽・東冶(長江)の東は九州だった。
③伊都国には王がいて、代々女王国に属し、そこには「一大率」が置かれていた。この繋がりから見て、邪馬台国は伊都国の近くにあったのではないか。
  3人の内、陳さんという方は最後に、安本美典氏同様、甘木・朝倉地域の地名が大和にもあることから、邪馬台国は九州から大和に遷ったとする「東遷説」を唱えた。

  中国人学者の見解を聞くというのは、なかなか面白かったが、結局は『魏志』倭人伝の記録がすべてであり、歴史という時間の流れを頭に入れていない解釈であり、この点では従来の番組とそんなに変わりはない、という印象だった。中国人学者もこれで終わってしまうのか、という残念な思いもした。
  東遷説は、東遷した時期を示さなければ何の意味もない。中国史書には、邪馬壹(臺)国が東遷したという記録はなく、日本の史書では、磐余彦の東征と神功皇后がヤマトへ帰還するとき仲哀天皇の息子たちと戦い、勝ってヤマトに入ったという、この2つの事件だけである。東遷したとすればこの二つの内のどちらかということになるが、磐余彦のヤマト侵攻は実年で3世紀中頃であり、神功皇后のヤマトとの戦いは4世紀後半である。問題は『隋書』の記録である。『隋書』は俀国(倭国)の地理・地形を記載しており(「東西五月行南北三月行」「有阿蘇山」)、俀国(倭国)は九州であることを明確に示している。これは600年前後のことであり、俀国の都は邪靡堆(『魏志』の邪馬臺)であり、この時代まで邪馬台国は東遷などせず、九州にあったことがわかるのである。
  もし、このようなところまで踏み込んで、というか、「歴史の流れ」という、本来あるべき歴史に対する考え方・見方を、学者諸氏が普段から念頭に置いていたのなら、もっと違った素晴らしい番組になったのだろうなー、と思わずにはいられなかった。

※卑弥呼の国は「邪馬壹」「邪馬臺」「邪靡堆」であり、「邪馬台」と書かれた史書は存在しない。したがって、私は私の意思では決して「邪馬台」とは書かないが、今回のように、他の人の引用、世間一般に使われているものを表現しなければならない場合には、「邪馬台」をそのまま使用することにしている。

2019.03.20
  最近、卑弥呼も邪馬台国も存在していなかったとか、九州北部で卑弥呼の墓が発見されたとか、話題を振りまいている人たちがいるようだ。確かに「邪馬台国」と「台」という字を書く「邪馬台国」は存在しなかった。その国の名は「邪馬壹」か「邪馬臺」「邪靡堆」だからだ。また、卑弥呼の墓は前方後円墳ではない、というのも基本的なことだ。
  自分に都合の良い解釈は禁物である。先日も、ネットで検索していたら、平然と「邪馬台」は「やまと」と読みます、と講義をしていた人がいて、少し驚いた。「臺」は「台」ではないことがまったく念頭にない。「臺」を「台」とイコールにしたのは橋本進吉氏であり、三世紀に「臺」が「台」とイコールであることはなかった。「邪馬臺」をヤマトにしたいという思いがありありと見えた。これでは日本古代史の未来はない。
  卑弥呼を祀った神社が存在しないから卑弥呼はいなかった、というのも、古代史料の存在を全否定することになり、これでは学問など存在しなくなる。過去の有名な歴史人物が神にならなければならない、ということもないはず。邪馬臺国がどこにあるかわからないからといって、こういった姿勢は古代史料からの逃避としか私にはみえない。
  『魏志』倭人伝だけが日本古代史の史料ではない、ということを忘れてはならない。複数の中国史書を通して、それに矛盾なく解釈していけば、一つの見方に到達できるのだから。

2019.01.25
 『 「邪馬台国」はなかった』は、古田武彦さんが世に名を知られるようになった有名な著書である。史実として「邪馬台国」はなかったことが証明されたにもかかわらず、いまだ「邪馬台国」は健在である(古田さんの主張は「臺」ではなく「壹」だというものであり、「邪馬台」と書かれた史料はないので「邪馬台」と書くのは研究方法論上間違いだとする私の主張とは異なるが)。私にしてみれば、卑弥呼の国を「邪馬台国」と書くことは真摯に歴史を研究していないことを意味する。『魏志』では、卑弥呼の国は「邪馬壹」、『後漢書』では「邪馬臺」、『隋書』では「邪靡堆」「邪馬臺」と書かれており、「邪馬台」と書かれた中国史書は存在しない。
  安本美典氏は『「倭人語」の解読』の中で、「臺」と「台」とは別字であることは認めているが、〔「臺」と「台」とは本来別字であったが、早くから通用したようで・・・〕と言っている。しかし、原史料に「邪馬壹」「邪馬臺」が「邪馬台」と書かれている史料を私は見たことがない。「早くから通用したようで・・・」は「研究者は早くから通用させたようで・・・」が正しい言い方ではないか。
  これには国語学者・橋本進吉氏の『古代国語の音韻に就いて』に付録として載っている「万葉仮名類別表」が影響しているのではないかと私はみている。「万葉仮名類別表」には、「ト」の乙類にそれまではあった「台」がなくなり「臺」になっている。「臺」は「ト」とは読まないにもかかわらず「ト」と読む「台」から「臺」に替わり「臺=ト」になってしまっているのである。卑弥呼の国は「邪馬壹」ではなく「邪馬臺」だと考えている研究者は多く、橋本氏の「万葉仮名類別表」によって「邪馬臺=邪馬台」となるのは当然のことだった。「邪馬臺=邪馬台」となれば「邪馬臺=ヤマト」、「邪馬台国畿内説」あるいは「邪馬台国東遷説」となる。そして平然と、卑弥呼の国は「邪馬台」と書かれることになるのである。
  しかしこれは橋本進吉氏の「台→臺」の書き換えであり、なぜそのように書き換えたのかその理由はまったくわからない。同じ国語学者の有坂秀世氏の『上代音韻攷』では「ト」の乙類には「台」はあり「臺」はない。私も有坂氏同様『古事記』『日本書紀』『風土記』を全部調べたが、「臺」を「ト」と読む例は一切見つけられなかった。「臺≠台」「臺≠ト」は古代から存在する国語上のルールなのである。
  「邪馬臺=邪馬台=ヤマト」は成立しない。史料は勝手に書き換えてはならない。日本古代史研究において、何の断りもなしに「臺=台」とすることは、出発の時点で真摯な研究を放棄したに等しい、と私は思っている。

2018.12.19
  先日、ネット検索していたら、古田武彦さんが2015年10月14日、89歳で亡くなられたという記事を見つけた。古田さんもかなりのお歳だろうし、今どうしているのかなと気になっていたけれど、他界していたんですね。

 私は、古田説から始まって古田説批判をするに至り、今もその考え方に変わりはない。20年前に書いた私の最初の著書「『隋書』俀国伝の証明」-『魏志倭人伝』の時代は終わった-で、古田説批判をした。この本は古田さんにも送った。この批判に対する古田さんの反論を聞きたかったわけではないけれど、返事はなかった。
  日本古代史研究者は『魏志』倭人伝重視で、『隋書』俀国伝の行路はほとんどの人に無視されている。そんな中、古田さんは『古代は輝いていたⅢ』で『隋書』の行路についてほんの少しであるが触れていた。
  古田説は、邪馬壹国を博多湾周辺にしているため、竹斯国(博多湾周辺)から東(『魏志』の行路でいう「南」)、さらに十数ヶ国を通って海岸に着き、そこから少し行ったところが邪靡堆(『魏志』の邪馬臺)だとする『隋書』の見方とは大きく異なる。このことを古田さんはどのように解釈するのだろうか、と私は期待をもって読んだ。しかし、そこには大きな落胆が待っていた。古田さんは文形を持ちだしてきた。

  (『隋書』)自竹斯国以東、皆附庸於俀。
  (『魏志』)自女王国以北、特置一大率検察、諸国畏憚之。
「両伝の首都は一致する」というのが、前にのべた通り俀国伝冒頭の出発点をなす主張だった。この点「女王国」を筑紫、ことに筑前を中心に考えてきたわたしの立場にとって、まさにズバリの表現であった。

  このように古田さんは書き、文形のみを強調し、『隋書』の竹斯国からの行路を無視した。私は「『隋書』俀国伝の証明」の中で、この二つの文の構成は同じでも、構文(主語、動詞、目的語など)は異なるものであり、古田さんの論法はあたらないことを指摘した。しかし何よりも重要なのは、『隋書』の竹斯国からの行路を無視したことだった。古田さんもダメか・・・

  『隋書』の行路から、理論的に邪馬臺・卑弥呼の国を探しだそうとたのは私が最初であり、今もこの方法をとろうとする人はほとんどいない。そして今なお『隋書』のこの記録が無視され続けていることが、私にはどうにも不思議でならない。自説に凝り固まってしまい曲げようがないのかもしれないが、こういったあたりに日本古代史の闇があるように思えて仕方ない。「『隋書』俀国伝の証明」から20年、今も何も変わらないこの状況に一抹の寂しさ、むなしさを感じる。

  古田さんが亡くなられ、日本古代史研究の一時代が終わった感がするが、「日本古代史の研究姿勢は科学的・理論的でなければならない」ということが、今一番問われているのかもしれない。
  私が若い頃に日本古代史に興味を持ったきっかけは、古田さんの日本古代史に対する姿勢に新しい風を感じたからだった。今は「反古田説」であるが、「青は藍より出でて藍より青し」である。古田さんのご冥福をお祈りいたします。 

2018.12.02
  11月27日の読売新聞夕刊「史書を訪ねて」で、今回は『宋書』倭国伝をテーマにした記事が掲載されていた。相変わらず、倭の五王「讃、珍、済、興、武」は「仁徳、反正、允恭、安康、雄略」だとされている。
  『宋書』本紀・東夷伝倭国、『梁書』本紀の五王の事績からみると、「讃」は421年と425年、「珍」は438年、「済」は443年と451年、「興」は462年、「武」は478年と502年に存在していたことがわかる。一方、紀年と実年が一致するようになるのは安康天皇の454年以降だと言われており、雄略天皇の在位は457年~479年である。「武は雄略天皇で間違いない」という先生方をよく見かけるが、462年は「興」の時代であり、502年には武はまだ存在しており、雄略天皇の在位と合わない。「武は雄略天皇で間違いない」という説は、中国史書を無視した説であることを忘れてはならない。歴史が学問であるならば、これらの人たちの、この部分について誰もが納得する説明は必要不可欠である。
  京都橘大学教授・一瀬和夫氏は「・・・日本書紀には、倭の五王をはじめ中国・南朝との通交記録がなく、書紀の編纂者は、知らなかったのか、意識的だったのか、「宋書倭国伝」を全く無視しています。この史書に従えば、天皇の系譜が途絶え、万世一系が揺るぐと解釈する説もあるので、古代の編纂者もそのために無視したのかもしれません。・・・」と言っている。
  こういった説に史料根拠は全くなく、今の時代に歴史を研究している学者の意見だとは私にはとうてい思えない。日本古代史界が世界で恥をかかないよう、もう少し理論のしっかりし古代史を考えていってもらいたいものだと思う。 

2018.10.31
  私の「中国史書からみた日本古代史」は、拙著『縄文から「やまと」へ』(現『倭と山東・倭・日本』)により完了していたが、ここに書いたことを基本にすると、『日本書紀』の記述と中国史料・朝鮮史料の記述との矛盾はどのように解釈したらよいのか、ということが次の最大のテーマだった。数年前から取り組んでいたこのテーマも、先日原稿を書き終え、出版社との契約も済んだ。3、4か月後には出版される。
  ところで、この随想も書き始めてもう11年になる。読み返してみると、当時の私の思いが伝わってくるが、その思いは今も変わっていない。私は、日本古代史を自分で考えるようになってから、次の三つのことを常に意識するようにしている。

1 卑弥呼の国は「邪馬台」ではない。「邪馬台」という国は史料には存在しない。史料は正確に表現しなければならない。
2 『魏志』倭人伝からは卑弥呼の国に辿りつくことはできない。歴史は時間の流れであり、複数の史料による整合性がなければならない。
3 史料は訳文ではなく、原文のあるものは原文を読むようにする。

  卑弥呼の国については、私も「邪馬台」と書くときがあるが、それはその人の引用あるいは通説で使われているものなどに限られている。一般受けするために「邪馬台」を使っているのか、それとも本当にそれでいいと思って使っているのかわからないが、これは古代史を混乱させる一つの要因にもなっている。日本古代史は史料を正確に表現することから始めてほしいものだ。
  『魏志』倭人伝は何度読んでも、卑弥呼の国には辿りつけない。研究者はこのことにもう気がつかなければならない。一連の中国史書を読めばこのことがわかるはずだ。日本古代史が混乱している原因のほとんどはここにある。研究する仲間として、早くこのことに気がついてほしいと願っている。

2018.09.15
  4か月以上前になるが、5月1日の読売新聞夕刊の「史書を訪ねて」というコーナーで『隋書』が取り上げられていた。
  600年に俀(倭)王が隋の文帝に使者を送っているが、日本側の記録にはないことについて、明日香村教育委員会文化財課長は「隋と自分の国との違いに、大きな衝撃を受けたからでは」と話している。しかしこれは単なる言い訳の推論にすぎない。根本的な問題についての検討は一切されていない。
  607年、俀(倭)国王は隋に使者を遣り朝貢し、翌年、隋は俀国に裴清を使者として送り、裴清は俀国王に会った。『隋書』は「其王與清相見大悦曰」と書く。使者裴清は間違いなく俀国王阿毎多利思北孤と会っている。多利思北孤には妻がいるので男王である。しかしこのときのヤマトの天皇は女帝の推古天皇だった。このことについては、女性は隋に侮られるおそれがあるので男王の名を伝えたのだという。ヤマトは結託して偽物の男王をつくり裴清に会わせたことになる。この言い訳は随分昔から言われているが、学問をする者が本当にこういうことだったと考えているのだとしたら悲しくなってしまう。
  俀国は「東西五月行南北三月行各至於海」「有阿蘇山」という地理・地形の国であり、対馬から壱岐への行路で、『隋書』の「東」は『魏志』の「南」であることがわかるから、この地理・地形に該当するのは九州島以外にはないということになる。『旧唐書』もこれを引き継いでいる。中国史書を自分の都合のよいように解釈するのではなく、中国史書全体を通して矛盾のない解釈をしていれば、中国史書が書く邪馬臺(邪馬壹、邪靡堆)を奈良の大和だとは決して言えないはずである。
  一部の史料だけの解釈や都合のよい解釈は学問ではないし、ましてや科学とは呼べない。、少なくとも私は、日本古代史研究は学問であり、科学であると思っている。

2018.08.16
  『倭と山東・倭・日本』-倭人と北東アジア系渡来人の歴史-は、打ち合わせた日よりも、どういうわけか大分早く出版されていて、出版日を知ったのは、ある広告会社からの電話だった。広告はお断りしたけれど、出版日は何とも不思議で。
  とはいうものの、『縄文から「やまと」へ』は、当時出版前の校正時に、担当者との打ち合わせの中で題名を変更してしまったことを少し後悔していたので、今回、原稿執筆時の思いが込められている 『倭と山東・倭・日本』-倭人と北東アジア系渡来人の歴史-という題名で、再び世に出すことができたことをうれしく思っている。
  今回、電子書籍として出版するにあたり、この本を何度か読み返したが、13年経った今も色あせることなく新鮮に読めることに、私の執ってきた方法の正しさを再確認するとともに、日本古代史界が今まだ旧態然としていることを改めて感じ驚いている。

2018.08.11
  電子書籍の出版作業が長引いていたが、ようやく数日のうちに出版されることになった。契約切れとなった拙著が、もう一度陽の目を見ることができることに感謝するとともに、13年経った今も、その内容はまだ新鮮であると自負している。
  二度の講演も無事終わり、来年度も予定が入っている。次は『日本書紀』の九州、任那におけるヤマトの歴史の謎解きの本の出版を予定している。

2018.04.24
  先月の初め、突然ある出版社から電話。拙著『縄文から「やまと」へ』を国会図書館で読み、是非多くの人に読んでもらいたいという思いから、出版の依頼をしたく電話をした、というのだ。
  この出版社は電子図書専門の出版社だけれど、拙著はすべて契約切れとなっているので、それもいいかな、ということでお願いすることにした。初版本には誤字や修正したい箇所があったので、その訂正をし、出版時に題名を変更してしまったことを後悔していたので、当初の原稿時の題名に近い題名にすることにした。
  来月中には出版できるのではないかと思う。
  また、来月半ばには次の講演会が待っている。今度は受講者が多くプロジェクターを使うため、講演内容をパワーポイントに書き込み、現在はその見直しなどを行っている。
  話はまったく変わって、おとといの日曜日、高校の同級生で東大名誉教授のM君の招待で、ダービールームで競馬観戦。いやー、いい経験をしました。半分以上のレースもとれ、二度とない日を満喫。競馬の歴史も書いたりで、何につけても、今はとてもかなわない東大名誉教授。ただ、ビギナーズラックで、この日だけは東大名誉教授に勝てたかな。

2017.11.11
  論考を書くということはともかく、やはり日本古代史は続けていかなければ、ということで、気持ちを奮い立たせ、ある機関にお願いしたところ、講師として講演させていただくことになった。
  その日も10日後に迫り、今講演内容のチェックの最中。今月はほかのこともいつになく忙しく、逆に充実した毎日を過ごせている。ストレスがあるとすれば、なかなか写真を撮りに出かけられないこと、そしてまだ、最後の畑の草刈が残っていること、かな?
  でも今は何といっても、2時間の講演を成功させることが第一。自分自身に期待したい。

2017.04.23
  いろいろな事情で、紙ペースでの出版は止め、このホームページとは別に新しい独立したホームページに単独で掲載することにした。その方が多分、より多くの人の目に触れてもらえるのではないかという思いもある。
  題名は「日本古代史のターニングポイント」。これが恐らく私の最後の論考になるのではないかと思う。表1は、古代日本列島の歴史を総括したものであり、この史料による歴史をどう捉えるか、その結果は個人の力量にかかっている。とにかく、この史料の中身を個人の先入観で曲げて解釈してもらいたくない、というのが私の心からの願いである。
 「日本古代史のターニングポイント」は、内容をもう一度見直し、別の題名で、2019年2月に電子図書として出版される予定。2019.01.25

2017.03.30
  次回作、となれるかどうかわからないが、原稿を書き終えることはできた。あとは出版してくれるところがあるかどうか。とにかくこれで最後。第2作以後、このホームページで書いてきたことの集大成なので、改めて一からスタートするものはそれほどなかったということもあり、また今回は骨格はすでにできていた史料比較表から見えてくるものが中心のテーマであったため、短期間で書き上げることができた。
  出版がかなわなかったらこのホームページで、ということもあるかもしれないけれど、それはその時考えるということで。とりあえず、これにて私の日本古代史は完結。
  残りの人生は、ウィンドシンセサイザー(EWI)の演奏と好きな写真を撮りながら、そしてそれほど好きでもないのにやらざるを得ない農業(野菜作り)をしながら、ゆったりと生(行)きたいと思う。

2016.11.02
  ほぼ予定通り、「白村江までの倭・日本・朝鮮諸国」と「白村江後の日本・新羅」のチェックが終了。あとは、古代日本の大きな歴史の流れのターニングポイントについて、私の考えをまとめるだけとなった。これについては、ホームページのところどころで、多少のことは書いているが、一番重要なところなので、しっかりとまとめたいと思っている。6ヶ月くらいでできるかどうか。
  私の日本古代史研究も終わりに近づいてきた。私が日本古代史について書くようになったのは、それまでに接した著作物があまりにも独善的で、非科学的だったからである。私は、説を述べるときは、常に、それが複数の史料に合致し、歴史の流れに矛盾が生じないこと、を念頭に置いていた。それでも自分の思いに走りかねないときもあった。日本古代史とは、そういう不思議な、魔物のような存在であった。
  私は難しいことは書けないが、いままでに接した一連の資料が私をここまで導いてくれた。『隋書』はそのスタートの資料として、大きな価値ある存在となった。専門家の中には、私のこういった見方に好意的な人はほとんどいないが、資料に嘘をつかない見方をすると、こうならざるを得ない。私は、この状況を歯がゆく思ってはいるが、でも、もういいかな、という思いもある。
  三冊目が成就した後は、二度と日本古代史に戻ってくることはないだろうけれど、この間、思いがけない分野の勉強ができたり、同じような研究をしている人からメールをもらったり、人が人を批判するときのルールがまったくできていな人もいることを知ったり、数多くの経験ができたことを深く感謝している。

2016.10.02
  今、私のホームページに掲載中の資料「白村江までの倭・日本・朝鮮諸国」「白村江後の日本・新羅」を総チェックをして、任那や新羅に対する考え方を整理しながら、コメントももう一度見直ししたりしている。あと1月位で、その作業も終わりそうだ。これは三冊目の著書の資料というか、メインというか、のためである。
 いずれこの比較表は削除する予定でいるが、 当時、この作成は一気に行ったので、今回の見直しで、要約内容に少し間違いが見つかったりした。ただ、大勢に影響はないと思われたので、削除する日まで、このままにしておくことにした。
  これは、”私の日本古代史”の集大成だと思っているので、この原稿が書き終わって、目処がついたら、日本古代史とも、さよならをすることになるのかな、と思っている。
  あとは、写真を撮ったり、楽器を演奏したり、野菜をつくったりしながら、余生を送ることになるのかな。

2016.06.17
  ここのところ、自説の復習のため、これまで書いた雑考ノートを読み返しているのだが、「任那は対馬である」という考えは自分の中では比較的最近のものだと思っていたら、随分前からのものであることを知り、愕然としてしまった。資料に対する姿勢が甘かったと反省している。
  「任那は対馬ではない」と思い至ってから2年近く経つが、「任那再考」でこのことについて書いたので、以前の論考は敢えて修正しなかったのだが、以前の論考しか読まなかった人には誤解されかねない、という思いが強くなり、最近、関連部分の訂正・修正等を行っている。
  保留中(休止中)の論考も今年中には何とかして、来年から『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』の日本・百済・新羅・高麗(高句麗)記事から、倭と日本そして三国・三韓との関係を具体的に探る作業をしたい、と思っている。実は、この作業はすでに進んでいて、最終段階は近い。しかしそれが大事業なので、いつまでかかるか。最後の私のロマン。

2016.05.15
  前回書いたことに関連し、雑考ノート23「白村江前後の日本」の中で、訂正しなければならないものがいくつか見つかった。
  一つは、斉明天皇と皇太子(のちの天智天皇)は九州に行かなかったのではないか、という部分である。『続日本紀』元明天皇の和銅2年(709)に、筑紫観世音寺は後岡本宮(斉明天皇)のために誓願して基を置いたところ、だとある。これによれば、斉明天皇と皇太子は筑紫に行かなかったと主張することは史料に反することになる。斉明天皇と皇太子は九州に行ったとするのが史料上正しい見方ということになる。
  また一つは、難波と九州娜の津の間を行くのにかかる日数の違いである。往きは1月6日難波を発ち、娜の津に着いたのは3月25日であり、斉明天皇が亡くなられ飛鳥に帰るときは、10月7日に発ち23日には難波に着いている。往きと帰りでは、それにかかった日数に大きな違いがあることがわかる。斉明天皇と皇太子を乗せた船が娜の津に着くとき、「御船は還って・・・」とある。「還」について、私は、御船というのは、そもそも百済の使者と九州倭の使者を乗せた九州倭からヤマトへの使いの船で、難波から斉明天皇、皇太子、百済王となる豊璋を乗せ一度娜の津に着いた後、豊璋を百済に送り届け還ってきた、という意味なのではないかと思っている。そうすれば、『三国史記』百済本紀や『旧唐書』百済伝の「時龍朔元年三月也」にも矛盾せず(3月には豊璋は百済にいた)、往きと帰りの日数にも大きな矛盾はなくなる。複数ある豊璋の「発遣の時」はいつが正しいかは、このことから考える必要があるだろう。
  「白村江前後の日本」については、以上のことを踏まえ、関連部分を含め、いずれ書き直すつもりでいるが、その時期についていつとは言えないので、とりあえず私の現在の考えをここに書いておくことにした。

2016.01.29
  ここ数年、いろいろとやらなければならないことがあって、古代史になかなかのめり込めない中、引き続き「白村江までの倭・日本・朝鮮諸国」「白村江後の日本・新羅」をくり返し読んでいるのであるが、ここ数日の調査で、前回の随想でたてた仮説の一部について、もう一度見直す必要があるのではないか、と思うようになった。
  それは⑦の「統一新羅後も、803年までの新羅は任那加羅の新羅だった」である。この部分は非常に重要で、より慎重に述べなければならないが、白村江敗戦後の唐との交渉、その後ヤマトが新羅を受け入れるようになったときの態度・状況、そして高麗の遣使と新羅の送使の関係、新羅王の名など、これらを素直に捉えると、白村江敗戦から673年までの間に、新羅はすでに本国新羅になっていたのではないか、とみることもできると思うようになったのである。
  しかし今は、このようにみることもできる、ということで、確定するつもりはない。今後、前後の繋がり、『三国史記』の日本と新羅の記事なども合わせ、より細密に調査をし、矛盾のない理論を組み立てることができたら、別に発表したいと考えている。
  このことに関するこれまでの論考については、訂正・修正は加えないが、この随想での見方が、現時点における私の最新の見方であり、803年を否定したのではなく、673年も含めてもう一度見直す必要を感じている、ということである。

2015.08.18
  私の日本古代史研究方法は、拙著「『隋書俀国伝』の証明」で示したように、複数の中国史書の倭や日本に対する記録の整合性を通して、そこから導かれた歴史を第一とし、『日本書紀』などの日本の史料は、このことを念頭に置いて、日本史料を盲信することなく科学的に解釈すべきである、という考え方に基づいている。
  私の今の課題は、『日本書紀』の記述と中国史書から得られた歴史との矛盾をどう理解したらよいのか、ということである。ここ数カ月、私は自分で作成した表史料「白村江までの倭・日本・朝鮮諸国」「白村江後の日本・新羅」を何度も読み返していたが、ある仮説を取り入れない限り、『日本書紀』をはじめとする日本史料自身が矛盾することなく存在することはできない、と思うようになった。
  そこで私は、これまで拙著やこのホームページで述べてきたことも含み、『日本書紀』以後の日本史料を解釈するために、つぎのような仮説をたてた(これまでに述べたものもある)。

①饒速日尊は奴国王の血を引くもので、倭国乱後河内に新天地を求め、さらにその東の地に行き国をつくった(山東・ヤマト)。
②景行天皇、仲哀天皇、神功皇后はニギハヤヒ以後の奴国の王統である。
③『日本書紀』がいう百済・新羅・高麗(三韓)は任那加羅の加羅のことであり、本国の百済・新羅・高句麗とは別の存在である。
④日本(倭)府は倭国の代表である邪馬臺国が任那に設置した機関で、新羅寄りの政策をとっていた。倭国No2の奴国は邪馬臺国に対抗し百済寄りの政策をとっていた。磐井の乱は奴国と邪馬臺国の倭国の覇権をめぐっての戦いだった。
⑤『日本書紀』がいう日本は、任那官家滅亡(任那は官家ではなくなり、新羅傘下のフリーになる。)の562年までは奴国の行動である場合が多く(ところどころ邪馬臺国のものもある)、562年以後はヤマトのこととなる(この事件を機に奴国の力が弱まり、三韓は奴国から奴国と深い関係にあったヤマトに接近する)。
⑥663年、白村江で大敗を喫したのは邪馬臺倭国であり、この敗戦を機に倭国の代表はヤマトに移り、その後ヤマト(山東・倭)は国名を日本とした。
⑦統一新羅後も、803年までの新羅は任那加羅の新羅だった。

  このような仮説をもとに改めて日本史料読んでみると、かなりの部分で納得がいくようになる。だからこの仮説がすべて正しい、とまでは言わないが、『日本書紀』を鵜呑みにし複数の中国史書に整合する歴史に矛盾する歴史を構築し何も疑わない人たちよりも、こちらのほうが限りなくいいのかな、と思ったりする。
  このことはさらに精査し、その成果をいつの日か世に出せる日が来ることを、自身期待している。

2015.02.15
  以前このコーナーで、「任那は対馬にあった」とする見方は間違っているのではないかと思うようになった、というようなことを書いたことがある。このことについてはなるべく早くきちんとしておかなければいけないと思っていたのであるが、今日「雑考ノート」に私の見方を掲載することができた。
  これに伴い、ホームページの表紙も一部改変した。任那の位置については、自分のこれまでの見方を少し変えることになったが、これは正しい歴史を見つけるための通過点なのだと思う。
  これからさらに混迷の世界へ飛び込むことになるかもしれないが、それは楽しさの一つでもあるので、敢えて飛び込んでみようと思っている。

2015.01.25
  最近少し気になることがあった。それは「云」と「曰」の違いについてだ。そこで漢和辞典で調べてみると、ほとんどの辞典で、音は別でもその意味は同じだとある。
  ところが、ネットで関連するものを検索していたら、『「又云」「又曰」攷-室町時代古辞書『下学集』を中心に-』(萩原義雄、2000)(PDF)という論文を見つけた人がいて、曾孫引きになるけれども、としてその内容を掲載しているサイトがあった。
  そこには次のようにあった。

  「云」
   其の言へる所の此の如きを挙げ磐す(示す?)--そういってゐる(ある)
   状態的、既定的(過去ではない)
   「嘗有発是言、而其言存於此」(嘗て是の言を発すること有り、而して其の言此に存す)を言う

  「曰」
   単に其の言ふを挙げ示す--さういふ
   作用的、超時的(時に関しない)
   「今発其言(今は歴史的現在)」(今其の言を発す)を言う

  そしてこのサイトの人のものとして、
    さて、『太平広記』巻279の第1話「蕭吉」は次の様な文章である。

大業中。有人嘗夢鳳鳥集手上。深以爲善徵。往詣蕭吉占之。吉曰。此極不祥之夢。夢者恨之。而以爲妄想言。後十餘日。夢者母死。遣所親往問吉所以。吉云。鳳鳥非梧桐不棲。非竹實不食。所以止君手上者。手中有桐竹之象。禮云。苴杖竹也。削杖桐也。是以知必有重憂耳。
都合の良い事にここには「吉曰」と「吉云」の両方が出てくる。これを上述の違いに基づいて訳し分けてみると、
「吉曰」:蕭吉は「~~」と言った。(夢を見た人が直接聞いている)
「吉云」:蕭吉によると~~ということ(だそう)だ。(直接聞いたのは夢を見た人の遣いの人)
とでもすると良いだろう。

とあった。

  簡単に言うと、「云」は間接的表現で、小説などにある「」がつかないもの、「曰」は直接的表現で「」がつくもの、ということができる。「」内は言った人の言葉そのものが入る。例えば、[彼は彼女が好きだと言った。]は「云」、[彼は「僕は彼女が好きだ」と言った。]は「曰」を使うということになる。
  これは、かなり言い得たものではないか、と納得したのであるが、実は話はそう簡単ではなかった。
  『翰苑』に次のような記事がある。

魏志曰。倭人在帶方東南。炙問倭地、絶在海中洲島之山、或絶或連、周旋可五千餘里。四面倶[扌弖]海。自營州東南、經新羅、至其國也。

槐志曰。景初三年、倭女王遣大夫難升未利等、獻男生口四人、女生六人、斑布二疋二尺。詔以爲新魏倭王、假金印紫綬。正始四年、倭王復遣大夫伊聲耆掖邪拘等八人、上獻生口也。

  『翰苑』は「『魏志曰』としておきながら、『魏志』の記事そのものではなく、『隋書』の内容であったり、途中を大幅に省略したり、字の間違いなどがかなりある。『後漢書曰』においても同じ状況がみられる。しかし、書かれている部分そのものの内容については間違っているとは言えないものとなっている。
  なぜ私がこのことを気にするのかというと、この『翰苑』に引用されている『魏略』の「魏略云」と「魏略曰」に大きな問題が潜んでいるからである。

魏畧云。倭在帶方東南大海中、依山島爲國。度海千里復有國、皆倭種。

魏略曰。従帶方至倭、循海岸水行、暦韓國、到拘耶韓国七十餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴、無良田、南北布糴。南度海至一支國、置官至對同、地方三百里。又度海千餘里、至末盧國、人善捕魚、能浮没水取之。東南五東里、到伊都國、戸万餘。置、曰爾支、副曰洩溪觚柄渠觚、其國王皆屬王女也。

魏略曰。女王之南、又有狗奴國、女男子爲王。其官曰拘右智卑狗、不屬女王也。自帶方至女國万二千餘里。其俗男子皆點而文聞其舊語、自謂太伯之後。昔夏后少康之子封於會稽、断髪文身、以避蛟龍之吾。今倭人亦文身、以厭水害也。

  『魏略』は『翰苑』などに引用されている逸文しか存在していないので、この文の内容が正しいかどうかはわからない。ただ「魏略曰」の一つ目の記事は、『魏志』とほとんど同じである。しかし、それは伊都国で終わっている(大和岩雄氏はこれを問題視している)。二つ目の記事は、『魏志』では狗奴国は奴国の南と解されるが、ここでは女王国の南となっており、また「自謂太伯之後」は『魏志』にはないが、『晉書』『北史』『通典』にあるものである(『晉書』は648年、『北史』は659年、『通典』は801年(北宋版は『新唐書』以後と思われる)に編纂されたとされている)。
  『魏略』については、拙著『縄文から「やまと」へ』でその危うさを詳述しているのでそちらを参照していただければと思うが、そこでの私の見方は、『魏略』は『魏書』の節略されたもの、である。
  さて、「魏畧云」以下の記事であるが、それは倭人条の書き出しの部分と、地理・風俗・体制などの最後の部分をつなげた内容になっている。これを『魏略』のオリジナル記事としてみられるのかということになると、『魏志』が『魏書』をもとに書かれているのは疑いのないことであり、どうみても『魏略』は『魏書』を簡略化したものとしかみえない。また、これがたとえ『魏略』のオリジナル記事だとしても、「云」の使い方からして、参照した史料には「倭在帶方東南大海中、依山島爲國」と「度海千里復有國、皆倭種」の間に『魏志』の行程記事と同じものが入っていた可能性は十分ある。
  「云」「曰」は本来、先に挙げた使い方をしたのではないかと思うが、時代とともに厳密な使われ方はしなくなり、省略形であっても、「曰」は使われるようになったのではないだろうか。『翰苑』の「曰」はそのことを示しており、『翰苑』においては、 「云」も「曰」も省略した内容に書き換えての引用であることに注意しなければならない。

  大和岩雄氏のように『魏略』に活路を見出そうとするのはかまわないが、『翰苑』そのものが「○○曰」と書きながら、内容が省略されていたり、別の史書の内容が混じっていたりしており、『魏略』においてもこの疑いは消えない。この点を考えても、古代史は目新しい一つの史料に頼るのではなく、常に複数史書を通して整合する歴史を念頭に置かなければならないと、私は強く思う。
  今回、拙著『縄文から「やまと」へ』ですでに述べたことに加え、「云」と「曰」の使い方から、再度『魏略』の危うさを考えてみた。

2014.12.17
  今日の読売新聞朝刊の「回顧2014文化財」というコーナーに、沖縄のサキタリ洞遺跡、富山市の小竹貝塚、奈良の都塚古墳が採り上げられていた。
  富山市の小竹貝塚は、人骨のDNAから、現代の沖縄住民に多い「南方系」タイプとロシア沿海州の先住住民に多い「北方系」タイプが混在していたと判明した、とある。
  私が10年前に『縄文から「やまと」へ』を書いた時(原稿を書いた時点)、北方系の旧石器人は、バイカル湖→沿海州→北海道→東北・北陸へ、北方系の縄文人は、バイカル湖→満州・朝鮮半島→日本海側東北方面へ、南方系の旧石器人は、インドネシア→台湾・沖縄→太平洋側・東北方面へ、南方系の縄文人は、中国江南→九州北部→近畿方面、また中国江南→台湾・沖縄→南九州へと移動したという図を載せた。
  旧石器時代から、人は北からも南からも日本列島に来たわけであり、朝鮮半島経由の人たちには北方系も南方系もいた。私の図では北方系の縄文人は沿海州を通ったようにはなっていないし、南方系の縄文人は日本側に届いていないようになっているが、これは最大公約数のような概念図であり、先住の旧石器人との関係も考えれば、この遺跡のような状況があっても不思議ではない。
  ただこの記事からは、10年前の私の見方はそれほど間違ってはいなかった、という思いがしている。これから発見される人骨のDNAに期待がかかる。

  話は変わるが、『日本書紀』の三韓問題について、『日本書紀』が欽明紀頃まで言っている「三韓」は『三国史記』でいう新羅・高句麗・百済(以下「三国」)とは別の存在だったのではないか、というのが『日本書紀』を何度も読み返して得た、現在の私の結論である。要するに、任那に関係した三韓は三国ではないということになる。しかしそれらはまったく別の存在というのではなく、任那での活動を任されたそれぞれの下部機関だったのではないか。任那日本府も倭国のそれと似たような存在だったのではないか。
  三韓はいつのまにか三国へと切り替わる。倭(わ)もいつのまにかヤマトへと切り替わっている。とにかく『日本書紀』の巧妙さには脱帽である。しかし、日本列島を代表する国は7世紀中頃までは九州の倭国だったという海外史料の示すところにしたがえば、すべてが三国であり、すべてがヤマトの事件であるとみることは決してできないのである。
  今はまだ、三韓が三国に替る時期、倭がヤマトに替る時期については調査段階ではあるが、先は少し明るくなってきた。任那については前回書いたように、対馬とみるのは厳しいのではないかと、今は思っている。ただし、任那を金官加耶とか高霊加耶(加羅)とみることは、これも史料を見る限り不可能である。
  任那はどこにあったのか。この問題はまた一からのスタートになった。

2014.08.03
  ここ数カ月、日本史料における百済・新羅・高麗が朝鮮半島の三国としての百済・新羅・高麗なのか、それとも任那にのみ関係した百済・新羅・高麗なのかを仕分けするために、再度、『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』の見直しをしていた。
  ここでようやく見直しが終わり、訂正したばかりではあるが、ホームページ資料の「白村江までの倭・日本・朝鮮諸国」と「白村江後の日本・新羅」の、一部訂正・修正を行った。大きく変わったところはないが、長い文章を要約する際に少し意味が異なっていたものや言葉足らずのものなどがその対象になっている。
  今後は、この資料をもとに、百済・新羅・高麗を「朝鮮半島の三国」「任那の三韓」あるいはそのほかにも考えられるものに仕分けする作業に入りたいと思っている。

  ここで少し任那についてお話すると、「任那は対馬にあった」とする思いがあったが、『翰苑』によれば、任那は7世紀中頃には新羅領になっており、『日本書紀』にもそれを裏付けるような記録もあり、その後日本が任那をとり返したという記録はないので、任那を対馬だとすると、対馬が日本の領土であったことに矛盾してしまう(今までこのことに関しておろそかになっていたことを反省している。ただ、この新羅がどの新羅かが問題ではあるが)。一方、「任那は対馬にあった」と思わせる記録もあり、なぜそのような記録ができたのかも含めて考える必要がある。いずれにしても、そう簡単に割り切れる問題ではないようだ。仕分け作業の結果と合わせて考えていく必要があるように思う。

 仕分け作業の結果は果たしてどうなるか。何か出てくるのか、やっぱりわからず仕舞いなのか。そのよい方の結果を、いつか何かの形で発表できる日が来ることを、私自身期待している。

2013.11.17
  昨日、実に1年と8カ月ぶりに「雑考ノート」を更新することができた。ずっと『日本書紀』の任那の三韓や百済三書については考えていたのだけれど、すっきりする部分と、どのように考えてもどこかに矛盾が生じてしまうものがあり、判断できずにいる日々が続いた。
  まだ決めかねている部分、解らない部分は多々あるけれど、朝鮮史料、中国史書、日本史料を総合的に判断すると、『日本書紀』がいう三韓(百済、新羅、高麗)は朝鮮半島の三国(百済、新羅、高句麗)ではなく、朝鮮史料、中国史書がいう「任那加羅」の「加羅」のことだ、ということに今確信を持つに至った。以前からこのことについては書いてきたので、私にとっては目新しいことではないのだけれど、ここを確定し通過しない限り、任那問題は先に進まないという思いがあった。これでようやく、任那問題の核心に入っていくことができる。
  任那においては
①日本とはヤマトのことなのか「倭(わ)」のことなのか 
②倭からヤマトに切り替わっているのか、切り替わったとしたらそれはいつなのか 
③『日本書紀』の三韓は朝鮮半島の三国ではないが、三韓の百済、新羅、高麗はいつ朝鮮半島の百済、新羅、高句麗に替わったのか
が最大のテーマであり、これがわかれば日本古代史の霧は晴れる。当然これは簡単に解ける話ではないけれど、今、いよいよ上の3つの問題に取り組む素地はできた、という清々しい気持にはなっている。

2013.03.08
 
昨年12月から今年の1月にかけて約3週間、自分の書いた「雑考ノート」を読み返してみて、「なるほどな」と思ったり、「ちょっと行きすぎかな」と思うところがいくつかあったが、総じて自分自身納得がいくものだった。 保留とした2つの論考は、結論を言えるまでにはやはりまだ時間がかかりそうだ。
  その後しばらく時間が過ぎて、そのことも含めて、『日本書紀』を中心とした記述に対し、朝鮮・中国史料にはどのように書かれているかを、もう一度見直してみる必要があるのではないかと思い、作業を進めてきた。そして今日、資料の「『日本書紀』と朝鮮・中国史料」を改訂した「日・朝・中史料に見る 白村江までの倭・日本・朝鮮諸国」を更新した。
  この作業後も、これまでの私の見方はほとんど変わらないが、『日本書紀』とはまことに不可解な読み物だという思いがますます大きくなっている。また引き続き、資料の「新羅と倭・日本」を改訂し、「白村江後の日本と新羅」とする作業を進めている。
  日本の古代の歴史を解く鍵は、やはり日本、朝鮮、中国の歴史資料の記録の食い違いの中に潜んでいるように思えてならない。従来行われてきたような、食い違いをなくすための矛盾した論理を展開するのではなく、食い違いがなぜ起こったのか、その原因を探るのが正しい歴史捜査の方法ではないかと思う。
  そうは思っても、『日本書紀』を読みながら、得体の知れぬ不安に襲われたりする。きっと、自分でつくった歴史の枠だけではなく、まだいくつもの考えられる歴史があることを、誰かが教えようとしているのかもしれない。自らを戒めよ、ということなのだろう。

  いつの日か、誰もが『日本書紀』を晴れ晴れと読める日が来ることを願って止まない。

2012.12.22
  前の職場に3年間復帰し、役目を終え、以前の生活に戻ってから1年。あっという間の出来事だった。
  4年前は久しぶりの建築設計・現場監理に、当初は昔を思い出したり、新しいことを覚えるのに少し手間取ったが、なんとかそれなりに私の役目は果たせたように思う。
  私がこのホームページを開設してから半年後に「雑考ノート」を書き始めたが、これまでの47の論考のうち、職場に復帰した年を含む3年間で40の論考を書いたものの、その後の3年間では7つしか書いていない。これは、仕事優先ということで当然の結果ではあるが、ある程度のことは書いた、ということもある。また、昔趣味にしていた写真とカメラに少々深入りし、1年前にブログを始めたことも一因にある。
  人間は不思議、というか私だけかもしれないが、そのブログへの思いが、どういうわけか、数日前から一気に潮が引いて、ようやく古代史に目が向くようになってきた。ただ、古代史はそう簡単ではない。たとえ自分が書いたものでも、忘れてしまったり、勘違いしていることもある。ということで、今は、自分が書いた「雑考ノート」を読みなおすことから始めている。
  そろそろ具体的に日本古代史の核心に触れなければならない時期に来ていると思っているので、その資料調査や分析を進めていって、その結果をいつの日か、ホームページではなく、自身3冊目の本として完成できればと思っている。
  写真・カメラは好きなので、人生のお伴として今後も続けていくつもりだし、ブログも続けられれば続けていくつもりではいるが、やはり日本古代史の研究をしていくのが私の務めなのかな、と、少し自分を持ち上げて考えてみたりしている・・・。

2012.08.23
  「のめりこむ」という言葉は、自分で自分のことに使うときはまだいいとして、他人に名指しで使われるときは、だいたい「専門家でもないものが、よせばいいのに」という意味が含まれている場合が多いようだ。
  私もどうもその一人らしい。ただ、のめりこんだ、馬鹿な野郎がいるから、その世界が一気に花開くこともあり、古代史もその一つだと思う。「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平さんや古田武彦さんなどがそうだ。この二人の説には賛成しかねるが、彼らは、日本古代史が専門家だけのものではなく、一般の人たちの身近に存在するものであることを示して見せたのである。

  私は建築を専門としているが(もう現場を離れているので、そう言えるかどうかわからないが)、建築と古代史の関係は以外と深い。石上神宮の七支刀の銘文解読を試みた福山敏男氏は建築史家だったし、古代遺跡の建物復元には建築家の協力がなくてはできないし、建築史家の若林弘子氏は鳥越憲三郎氏とともに中国江南などで倭族の住居の実地調査をしている。
  建築家は日本古代史において、すでに専門外ではなく専門家の一員になっていると言ってよい。これらの人たちも含めて、専門外がのめりこんでいると言えるのだろうか。

  日本古代史に少しでも興味を持っているのならば、建築に限らず、分野の枠を超えて、有名、無名もなく、島国の特殊な意識を捨て、まず自らがすべてに公平にまじめに接することが必要なのではないか。私は、日本古代史に少しでも興味を持っているすべての人たちが、こういう気持ちになってくれることを切に願っている。

2012.08.17
  私の見方が間違っていたのだろうか。
  大塚初重氏は『邪馬台国をとらえなおす』の46ページに、『魏志』倭人伝の「・・・次に奴国あり。これ女王の境界の尽きる所なり。其の南に狗奴国あり・・・」の部分について、「これまでの文献学者の多くは、女王は邪馬台国だけを統属していたのではなく、奴国の南に位置する狗奴国以外、壱岐、対馬から始まる国はすべて女王・卑弥呼の邪馬台国が統属する倭国であると指摘している」と書く。
  私がそう思ったのは、この文全体の意味する内容についてではなく、「其の南」を「奴国の南」としている点である。というのも、私は以前から「其の南」の「其の」は奴国を指すと言ってきているのであるが、私がこれまでみてきたほとんどの人が、「其の南」は「女王の南」だと言っていたように思っていたからである。大塚氏がこう書くのだから、文献学者のほとんどが、「其の南」は「奴国の南」であると理解していると解釈してよいことになるが、その点において私の見方とズレを感じたのである。
  まあ、そうであればまったく問題はないのだけれど・・・。ただ狗奴国を熊本のあたりとする人は多いし、和歌山あたりとしたりする人たちも多い。この場合、「其の南」の「其の」はまちがいなく女王のことを指している。しかし、 そうではないと大塚氏は言うのであるから、それはそれで非常に心強い。

  ところで、この「其の」が、直前にある女王ではなく奴国を指すというのは、「女王」は奴国の位置を説明するために挿入された挿入句だからである。実はこれと似た、しかも非常に重要な文が『日本書紀』にある。 以前掲載した、崇神天皇65年秋7月条の「任那者去筑紫國二千餘里北阻海以在鷄林之西南」である。
  『日本書紀』の解釈は、「北阻海」の「北」は筑紫国の北とする。しかし、この筑紫国は前述した『魏志』倭人伝の女王を含む文と同じで、その前に出てきている国を、よりわかりやすく説明するために挿入したものであり、場合によったらなくてもよいものであり、つまり「北阻海」も筑紫国についてではなく、任那の説明だということである。文型から見ても筑紫国が「北阻海」の主語にはなりえない。この文の主語が任那であることは明白である。

  (『魏志』倭人伝) 次有奴國  此女王境界所盡  其南有狗奴國
  (『日本書紀』)  任那者 去筑紫國二千餘里 阻海 以在鷄林之西南

  『魏志』倭人伝で、「其」は「女王」を指すという人は、『日本書紀』の「北阻海」の「北」は「筑紫国の北」だと言うのだろうな、と想像するが、このあたりは自分の思いではなく、日本語と学問としての歴史をきちんと科学していかないといけないのではないかと思う。

2012.08.14
  最近、私のこのホームページの目次の一つにある題と同じ題名の本が出版されている。中田力氏の『日本古代史を科学する』である。たまたま題名が同じになったのであるが、時間的には私の方が早い。
  今ここでお話しするのは、どちらが先にその題名を使用したかではなく、「科学する」の意味である。正直、私はこの本を読んでいない。読んでいないのにコメントをするのはよいことではないが、ネットで検索すると、中田氏のこの著書に関して、感想を述べているブログに行きあたったりするので、そこから多少の知識は得ている。ただ多少の知識で云々する気はない。 中田氏は、『魏志』倭人伝を科学する対象として選んだことになるが、私とはそこのところが違うので、その点についてお話をししたいのだ。批判ではなく、私自身の「科学する」の意味についてである。

  以前、古田武彦氏は『倭人伝を徹底して読む』という本を出したが、私にはそこからはそれ以上のものは出てこないのではないか、という疑問を感じていた。中田氏も『魏志』倭人伝のみを対象としており、それが全部、科学的に正しい試料なのか、試料はこれだけでよいのか、という疑問が私の脳裏をかすめた。
  私の「科学する」は、一冊の史書だけではなく、複数の史書、つまり、『漢書』地理志から『新唐書』までの倭国・日本国の記録に、各史書においても、また各史書間においても矛盾することなく歴史を構築できる、その方法・過程を指すのであり、一冊の史書に限定されている時点で、私にとってはすでに科学ではなくなってしまっているのである(個々の科学が全体の科学と整合することが必要だということ。個々の科学を否定するものではない)。『魏志』倭人伝のみによる解釈は、すでに過去の研究史がその試料不足を証明している。

  科学実験には、より多くの試料があれば、それに越したことはない。歴史も同じである。というより、歴史は過去と現在までつながりがあり、それを無視しては歴史ではないのであり、「日本古代史を科学する」ためには、つながりのあるそれぞれに試料は必要なのだから、科学実験以上に試料は必要になってくるのである。

  歴史は一連の流れであり、一つの時代で終わってしまうものではない。このことを忘れてしまうと本当の歴史を見失ってしまうことになる。『魏志』倭人伝だけが日本古代史を解く資料ではない。そのことをもっとみんなにわかってもらいたい、私がこれまでみてきた日本古代史への一つの思いである。

2010.01.08
 今日の読売新聞朝刊に、桜井茶臼山古墳から大量の銅鏡が出土したと、橿原考古学研究所の発表記事が掲載された。例によって「邪馬台国への手がかり」と「邪馬台国」の字を入れた見出しもある。内行花文鏡が19面、三角縁神獣鏡が26面など、計81面以上が確認されたという。その中に「正始元年」銘の三角縁神獣鏡があり、福永伸哉氏(大阪大教授)の「卑弥呼が賜った銅鏡の一枚と考えていい。大和王権と邪馬台国が結びつく可能性がさらに高まった」というコメントもある。この期に及んでまだ「卑弥呼の鏡」だという。
 また白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)のコメントには「鏡は100面以上あったと推測でき、倭国王にふさわしい突出した権力を示している」とあり、岸本直文氏(大阪市立大准教授)は「王権が支配を広げるには権力を示す大量の鏡が必要で、国内で製造して求心力を得ようとしたことがわかる」といっている。
 三人とも「大和王権」「倭国王」「王権」という言葉を使用し、ヤマト、倭国の支配者・倭国王の墓であることを強調している。しかし、私にはわからないことが一つある。それは桜井茶臼山古墳は陵墓ではなく、宮内庁管理でもないにもかかわらず、なぜ「大和王権」であったり「倭国王にふさわしい」のか、ということである。同時代か少し前の墓に箸墓古墳があり、こちらは陵墓である。しかも王ではなく、ヤマトトトヒモモソヒメの墓とされている。桜井茶臼山古墳が倭国王の墓であるなら、当然陵墓に指定されているはずである。
 椿井大塚山古墳のときも、黒塚古墳のときも、被葬者はヤマトの大王ではなく、大量の鏡は配布用だとされてきた。今回は、大王自身も大量の鏡を所持していた可能性が高まったという。どうも支離滅裂である。
 桜井茶臼山古墳はヤマトの大王の墓なのか、私はそれを否定したりはしないが、陵墓ではないことをどう考えるのか。箸墓古墳卑弥呼の墓説も当然ながら、矛盾のない考え方を示すことが学者の務めではないか、私にはそう思えて仕方ない。

2009.08.31
 異常気象の夏、そして8月が終わる。未だ、体の調子はよくない。新型インフルエンザも不気味だ。この気候は私にかなりのストレスを与えたようだ。
 そんな中での昨日の衆議院選挙。私はこの選挙の結果をみて、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を読んだときのことを思い出した。日本古代史に光がさしたように見え、「学問とはこういうふうに考えていくものなのだ」という感激を覚えた。古田氏はその後も精力的にそれまでの説とは異なる新しい考え方を世に出していった。実に新鮮で古代史が身近に感じられた。古代史界に新しい風が吹いたのである。
 私は政治とか経済は大の苦手で、そのしくみなどはよくわからないが、新しい風が吹いたように感じたのである。次の時代を早く見たくなった。当り前のような見方・考え方、理論、資料解釈はどの分野でも意外と少なくて、当たり前のことを言うと、それが実に新鮮に感じられたりする。古田氏の『「邪馬台国」はなかった』も、資料を当り前に解釈した(当時はそう思っていた)だけだといえる。どの世界でも、ものの見方・考え方は単純明快なものなのだ。
 しかし、新鮮だった古田説もすでに新鮮ではなくなり、かつての権威ある人たちの説もまだ生き続けている。古代史研究は再び権威の時代になってしまうのだろうか。せっかくここまできた古代史研究を後退させてはいけない。そのためには古代史ファンや報道関係者も、先入観、権威の説、興味本位だけでみるのではなく、資料による正しい知識と理解に基づく見方をする必要がある。
 政治に対して日本国民は当り前な見方・考え方で自らの将来を選択した。古代史界においても、権威や在野に関係なく、資料に基づく当り前な見方・考え方を持った、科学としての古代史が構築される、そんな日が来るのも夢ではないかもしれない、そんな期待をこの選挙結果は持たせてくれた。

2009.05.30
 最近少し疲れ気味で、集中力がなくなっている。というより、古代史に関して考えるべき題材を見出せないでいる、といったほうが正しいかもしれない。
 今私の気を引いているのはまたまたカメラとレンズ。しかもカメラはデジタルではなくフィルムカメラ。カラーはデジタルでもよいが、白黒はデジタルでは本来の諧調が出てこない。このことを町並みを撮ってつくづく感じたのである。そんなこんなで、フィルムカメラ(ニコン)は持っているくせに、ペンタックスのレンズとM42レンズを使いたくて、結局新たに中古のフィルムカメラ(ペンタックス)を買ってしまった(値段のわりにはきれいなボディーだったので満足)。写真を撮りに出かけることは滅多にないというのに、どうも理屈をつけては買いたがる病気なのかもしれない。まあそれで気持ちが落ち着くのならば、精神衛生上はよいのかもしれないが。
 こんな状態のとき、きのうの読売新聞夕刊の”「卑弥呼の墓」有力に?”という見出しの記事に目が止まった。久々に脳が刺激されたような感じを受けた。国立歴史民俗博物館が、箸墓古墳の築造時期は240~260年とする調査結果をまとめた、というのである。同博物館名誉教授の春成秀爾氏は「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは間違いなくなった」とコメントしているが、果たしてこんなことでよいのだろうか、と正直私は感じざるを得なかった。寺沢薫氏は「今回測定された土器の試料のうち、築造時のものは少なく、誤差を考慮すれば、まだ結論を出すわけにはいかない」と慎重であるが、これが本来の考古学者のとる道ではないかと私は思う。
 この試料となった土器はどの部分から出土したものなのか、は非常に重要であり、しかも古墳自体は調査できないのだから、種々の文献記録と異なった状況にありながら、この土器だけから結論を下すのは学問といえるのか、大いに疑問を感ずる。
 卑弥呼の墓は「『魏志』倭人伝」に、「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩とあり、「徑百餘歩」から卑弥呼の墓は円墳であり前方後円墳ではない、とするのが正しい見方だと私は思う。箸墓古墳は当初円墳であり、のちに前方部を増築した、という考古学者もいるが、その証拠はなく、これはもう考古学とは呼べない。石塚古墳やホケノ山古墳は前方後円墳の原型とされており、年代的にそれに続く箸墓古墳は、初めから前方後円墳だったはずである。当初は円墳だったとする見方は当たらない。しかしこの説は卑弥呼の墓は円墳だったことを認めているものであり、文献記録を無視していない点は、箸墓古墳を前方後円墳としながら卑弥呼の墓であると主張する説よりはまだましといえるかもしれない。
 ヤマトは古墳時代でも卑弥呼のいたところは古墳時代ではなかったかもしれない。学問は思い込みでは済まされない。おかげで古代史への脳が少し活性化してきたようだ。

2009.01.02
 とうとう新しい年になってしまった。「とうとう」というのは、2008年にはまだやり残したことがあったという意味である。へんなものに首を突っ込んでしまって、少なからず自分の時間を縮め行動範囲をせばめてしまったことは確かである。自分自身に対して不満の多い年であり、反省している。今年は「やるべきことはやった」といえる年にしたい。
 最近は考古資料のほかに倭人の住居に関する本も読んでいるが、鳥越憲三郎と建築史家若林弘子両氏による、中国雲南省のミャンマーに接するあたりに住むワ族の住居調査は実に興味深い。鳥越氏の調査結果については拙著『縄文から「やまと」へ』でも紹介したけれど、ワ族の住居の構造形態はどこか伊勢神宮に通じるものを感じる。
 今年は建築に部分復帰するので、倭人の住居についても少し首を突っ込んでみようかと思っている。その前に三角縁神獣鏡もあるけれど。

2008.12.25
 最近は10年程前に買った古墳や三角縁神獣鏡に関する本を読んでいる。もうそんな前の本になるのかと少し驚いているが、今読んでも違和感はさほどない。三角縁神獣鏡は魏鏡なのか国産鏡なのかという問題は、王仲殊氏の「呉の工人が日本に来て製作したもの」という説によって解決したかにみえたが、いまだに同じような議論が繰り返されているようだ。
 魏鏡説の人たちは、畿内を中心として大量に出土する三角縁神獣鏡は卑弥呼が下賜された銅鏡100枚にあたるとして、邪馬台国畿内説を主張する一つの根拠としている。しかし複数の文献を通してみると邪馬台国畿内説は矛盾だらけであり、三角縁神獣鏡からの邪馬台国畿内説主張はこれら文献の無視につながる。学問というよりも何が何でも邪馬台国は畿内にあったという、その気持ちばかりが先に立ち、見込み捜査の裏づけばかりしているように私にはみえる。安本美典氏は同じ出身大学の人たちを批判しているが、学問は学閥や研究室の道具ではないことを肝に銘じて欲しいものだ。
 10年経っても進歩がないのは何が障害となっているのか私には簡単にわかるが、先入観に犯されている人たちにはそれを理解することはいつまで経っても無理な話しなのだろうか。

2008.11.09
 今月4日の読売新聞朝刊に「百済の青銅菩薩立像」という見出しの記事が掲載されていた。熊本県山鹿市菊鹿町の「麹智城跡」で青銅製の菩薩立像が見つかったが、百済で7世紀後半につくられたものであることはほぼ確実であり、菩薩像の年代と麹智城の築造時期が符合するため、麹智城の築造に携わった百済人が持ち込んだものではないか、と書かれている。
 麹智城とは『続日本紀』の文武2年(698)5月25日条に「大宰府に命じて、大野・基肄・麹智の三城を修理させた」とある「麹智城」のことである。また天智天皇4年(664)8月条には、白村江敗戦による唐の侵略に備え「達率四比福夫を筑紫国に遣って、大野及び椽の二城を築かせた」とあることから、麹智城もこのとき防衛施設として築城されたと一般的には考えられているようである。
 麹智城や青銅製の菩薩立像は百済人(白村江敗戦による亡命百済人)によってつくられたもの、という見方は歴史の流れからみてありえないことではない。しかし麹智城そのものに関しては理解できないことが二つある。一つは、なぜ麹智城がヤマトにとって唐に対する侵略防衛施設なのか、ということと、もう一つは、なぜ『日本書紀』には麹智城の名がないのか、ということである。
 麹智城は現在復元されているが、麹智城があった菊鹿町は菊池市の西に位置し、阿蘇山が東にそびえ、北はその阿蘇山から福岡県の八女郡へと続く山地である。日本の都がヤマトだとすると、ここに防衛施設を築く必要性がまったく見えてこないのである。しかも防衛施設として築いたという記録もない。麹智城はそもそもヤマトとはまったく関係ない、九州倭国にとっての重要拠点の一つだったのではないか。そうみると、博多湾から麹智に続くラインと麹智城の存在意義も理解できるようになる。
 すべてヤマトに結びつけて考えてしまうと、どうもこんな単純な矛盾に対しても盲目になってしまうようである。もしヤマトと結びつけるのであれば、ヤマトにとってなぜここが重要な防衛拠点だったのかという、その理由を明確にすべきなのではないか。新聞記事にしても、麹智城に関するホームページにしても、この点私には不満が残るのである。

2008.08.26
 もう数ヶ月も前のことになるが、大学時代の友人と久しぶりに会った。学生時代には、先輩を囲んで「建築とは何ぞや」などと、さもわかったような議論をし合ったものだった。彼はマイペースでしかもかなり個性的だったが、今も当時とまったく変わっていない。
 私たち二人はどういうわけか、普通であれば新しい人生をスタートし順風満帆であるはずのときに、ほんのちょっとしたことに躓いて転んでしまっていた。そんなとき、二人で心を癒しに行ったのが飛騨・高山だった。彼も私も民家に惹かれていたので、そこはもってこいの場所だった。人生とは不思議なもので、彼はその後仕事で高山のその民家を訪れ、ご主人とも親しくなり、以来毎年訪れるようになったという。
 私はといえば、設計の仕事をしながら、ある教育雑誌に写真つきの紀行文を連載させてもらったりしていたが、建築を設計することよりも、古い建築や民俗学、さらに歴史を研究することに興味を持つようになり、また仕事の向き・不向きに気づき、やがて建築設計の前線からは身を引いてしまった。
 きっと私のこの行動は彼には気に入らなかったに違いない。私は裏切り者である。しかし人生は面白い。古代史を考える中で、倭人の住居を研究する必要がおきてきたのであるが、それはまさに建築の分野になるのであり、ここに、建築と私が勝手に方向転換して始めた古代史とが結びつくことになったのである。
 彼は私に、民家の起源を調べて欲しい、という。それはかなり難しいことであり、私には多分無理だろう。しかし倭人の住居はその中の重要な要素の一つであることは確かである。現在の日本人が北東アジア系であり、弥生時代は倭人系社会であったとすれば、何か少し見えてきそうではある。
 彼は今も昔のように、建築を熱く語る。もしかしたら彼の思いが、倭人の住居を研究することを通して、もう一度私に熱くなる機会を与えてくれようとしているのかもしれない。

2008.07.12
 雑考ノートを書き始めてから1年と9ヶ月になる。もうそんなに経ってしまったのかと、月日の流れの速さに戸惑っている。しかし、その間に33の論考が書けるとは当初まったく予想もしていなかったので、その点はまあまあ満足している。
 この雑考ノートは名前の通り、いろいろなことについてもっと気楽に書くつもりで始めたのであるが、これまでの定説とは異なる歴史を証明する必要性から、多くの原文史料を引用したため、内容がかなり複雑で難しくなってしまった。しかしこの中で私が示した史料は、定説の正否論において、その判断材料となりうるものと自負している。
 このノートを書き進める中で愕然としたこともいくつかあった。『日本書紀』の内容と『三国史記』の内容には一致点がほとんどないこと。任那は『日本書紀』には頻出するが、中国史料・朝鮮史料にはほとんど現われないこと。任那は加耶だといわれるが、『日本書紀』に加耶という名は現われないこと。任那は朝鮮半島にはなかったのではないかという状況を示す史料が、『日本書紀』・朝鮮史料・中国史料にあること。任那は十国の総称であり、加耶には六つの加耶があったが、加耶と呼ばれたのは金官と高霊加耶だけで、任那と加耶には大きな違いがあり、決して任那は加耶であるとはいえないこと。等々。これらのことは私がそのように見たからではなく、史料が示す事実なのである。
 不思議でならないのは、このような史料がもとになっているにもかかわらず、日本の古代史はこれらの史料が示す内容とはまったく別の歴史になっているということである。私はこのノートを書きながら、任那は加耶ではなく、任那は朝鮮半島にはなかったのではないか、ということを『日本書紀』、朝鮮史料、中国史料から学んだが、今までの研究者は同じ史料をみながら、なぜこのような見方ができなかったのだろうかと、不思議に感じないわけにはいかなかった。また逆に、これらの史料から私のような解釈をするのはおかしいのだろうかと、疑心暗鬼になったこともあった。
 こんな風に雑考ノートを書き進めてきたが、細かい部分は別にして、文献資料からみた日本古代史の大きな流れの中において、という意味では、私が今まで疑問に思っていたことや、言いたかったことは、この33の論考でかなり言いえたと思っている。文献において私が問題としているテーマはまだいくつか残されているが、「雑考」の意味するように、今後は文献学だけではなく、考古学における問題についても(いつのことになるかわからないが)少しずつ触れていければと、ささやかながら思っている。
 

2008.05.31
 夏のような暑い日が続いたかと思ったら、今度は季節が逆戻りしてしまったような、少し肌寒さを感じる日が続いている。
 ところで季節用語に「小春日和」とか「五月晴れ」というのがある。「小春日和」は涼しくなった秋の、春のような暖かい陽気のことを指して言うのであるが、「五月晴れ」は本来、六月の梅雨の合間の晴れ間を指して言うのだそうだ。六月は旧暦では五月であり、梅雨は五月にあったため、梅雨の合間の晴空は五月の晴空であり、長い梅雨空の中での貴重な晴空を、人々はいつしか「五月晴れ」と呼ぶようになったのである。今は新暦の五月の晴天を「五月晴れ」と呼ぶが、本来の意味はこういうことらしい。
 「情けは人のためならず」とか「役不足」とか、その本来の意味をまったく逆に捉えて使用してしまっている諺や用語も多く見られる。どうも言葉の意味や歴史は、長い間にまったく異なった意味や歴史になってしまうこともあるようで、そのまま信じていると大変なことになるかもしれない。
 話しは跳ぶが、『日本書紀』はその成立直後から講義が行なわれており、それを記録したものが『日本紀私記』にまとめられている。『日本書紀』成立直後から『日本書紀』の講義が行なわれたということは驚くべきことであるが、このことから、『日本書紀』というのは特別な存在であったことが知られる。またこの事実は、当時の皇族・貴族は『日本書紀』がいう「日本の歴史」なるものをよく知らなかったのではないか、という疑惑を抱かせる。講義の本当の目的は何だったのか。諺や用語が本来の意味とはまったく逆の意味になってしまうこともあるという事実をみると、それを起こさせる意識変換のための行為がここでは意図的に行なわれたのではないか、と疑いたくなる。『日本紀私記』丁本や『釈日本紀』開題には信じられない記録(書紀、ヤマト、倭奴の言葉の由来など)が載っており、一概にこのことを否定することはできない。もし現代の研究者の中に、これらの信じられない記録を盲目的に信じている人がいるとしたら、私にはそのことが驚異である。
 何か大事なものを忘れてしまっている今の時代だからこそ、言葉の意味に限らず、自ら思い込んでいるのか、それとも思い込まされているのか、もう一度身の回りのいろいろなものを見直してみる必要があるのかもしれない。

2008.01.13
 ”今年こそは良い年でありますように”と願ってから、もう二週間近くが過ぎてしまった。今年は「デジイチ」と「時間に余裕」を持って、昔のように写真を撮りに出かけてみようかと思っている。
 話しは日本古代史のことになるが、どうして現在のような状況になってしまったのだろうかと、ふと思うことがある。専門家だけの世界から在野の研究者も参加できるようになったのは喜ばしいことなのではあるが、このことが一般の古代史ファンを混乱させていることも事実である。
 一般的な見方として、専門家は多くの史料に接することができ、その論述は学術的だと思われている。一方在野の研究者は史料には恵まれず、その反動によるものか、専門家の史料重視によって導かれた(と多くの人が思い込んでいる)説に疑問を投げかけ(この疑問は結果的には正しい)、別の方法でアプローチしようとする。そこにヒストリーではない、史料とはかけ離れたストーリーが生まれることになる。ここが問題なのである。果たして専門家は本当に史料を重視しているのだろうか。私は非常に疑問に思っている。専門家は決して史料を重視していない。その証拠が『漢書』地理志から『新唐書』東夷伝までの倭国と日本国の解釈であり、中国・朝鮮史料・『日本書紀』の任那と『日本書紀』にはない加耶の解釈である。その通説となっている証拠を、これらの中に私は見つけることができない。通説は先入観に犯され、恣意的であると私には映る。日本古代史の混迷の原因は、専門家のこうした史料間の整合を問わない、旧態然とした姿勢と解釈にあるのではないか。私自身の反省でもあるが、在野の研究者はこういった状況に惑わされず、より批判的な目を持ち、史料を重視するという古代史研究の基本を忘れてはならないと思うのである。
 新しい年に、このことを改めて確認し、また肝に銘じ、今年一年間研究に精を出していきたいと思っている。

2007.10.03
 今日の読売新聞朝刊に「3世紀のベニバナ花粉」という見出しで、奈良県桜井市の纒向遺跡から採取した土にベニバナの花粉が大量に含まれているのがわかった、という記事が掲載されていた。これだけのことなら特に問題にすることはないのだが、卑弥呼が正始四年(243)に中国魏の皇帝に献上した織物「絳青縑」の「絳(あか)」がこのベニバナのことではないか、というのである。つまりベニバナを「邪馬台国畿内説」を補強する材料としてとらえているのである。
 私は考古学者のこういった姿勢にはいつも大きな疑問を感じている。確かにこれは、纒向にはベニバナがあった証拠とはなるが、卑弥呼の国「邪馬台国」が畿内にあったという証拠の補強材料とはなりえないと思うからである。 『魏志』倭人伝という一史料に書かれている「絳青縑」をとりあげる前に、もっと文献史料全体に関してやるべきことがあるのではないか。
 『隋書』俀国伝には、『魏志』倭人伝の邪馬臺(邪馬壹国)だという俀国(倭国)の都・邪靡堆までの行路記事があり、俀国(倭国)の地理地形も記載されている。『旧唐書』倭国・日本国伝が記す倭国の地理地形は『隋書』俀国伝の俀国のそれとほぼ同じであり、はじめて登場した日本国は、その倭国とはまったく異なった地理地形の国として紹介されている。そして『新唐書』日本伝では、『旧唐書』の倭国の地理地形は日本そのものとなり、『旧唐書』の日本の地理地形は日本の都として記載されている。これら一連の記事は、日本古代史の大転換点を記す重要な史料であり、これらの記事を無視しては日本古代史は成立しない、と私は思っている。
 考古資料をすぐ「邪馬台国」や卑弥呼に結びつける前に、複数の文献記録に目をやり、もっと多くの資・史料に基づいた、理論的・科学的な古代史研究はできないものなのかと、こういった記事をみるたびに、ついつい思ってしまうのである。

2007.06.04
 思い込み、というのは恐ろしい。『日本書紀』の任那を調べているうちに、このことを思い知らされることになった。日本古代史は、中国史書や朝鮮史書と日本の史書(特に『日本書紀』)がお互いに補完しあって構築されている、といっても過言ではない。しかしこれはおかしいのではないかと、私は著書を通して異議を唱えてきた(日本国誕生までの間)。それぞれの国の史書をまず調査して、比較して、そしてそれが同じ事件を扱ったものであると確認されたとき、はじめてそれらの史書はお互いを補完しあうことができるはずである。
 中国史書と日本の史書の関係は特にこの問題が気になっていたのであるが、まさか朝鮮史書との間にもこれと同じ問題が横たわっていたとは思ってもいなかったのである。
 私にはこれまでの雑多な知識から、任那は朝鮮半島にあったから金官であり、加耶であり、ときには加羅ともいわれたのだ、という思い込みがあった。だから任那は朝鮮半島にはなく、『日本書紀』に加耶は現われず、『三国史記』の加耶は高霊の大加耶のことであり、加羅には三つの加羅があったことを示す史料に、大きな驚きを感ぜずにはいられなかったのである。
 思い込みは恐ろしい。人を盲にしてしまう。もし史料が手元にあるのなら、自分で確かめること、これが何よりも大切である。どんなに著名な人が書いたものでも正しいとは限らない。私は今回、このことを深く思い知らされたのである。

2007.04.08
 古代史論争の書き込みをときどき見るが、中には感情むき出しで相手を非難するものもあり、気分が悪くなることがある。自己主張をするのはよいが、お互いに尊重しあって論争するのが、エチケットでありルールではないだろうか。
  ところで七世紀までの日本古代史は解決するのだろうか。それははっきり言って不可能に近い。なぜなら未だに複数の史料を総合的にとらえようとする研究者がほとんどいないからである。せっかくある史料も自説に合わないからといって無視したり、史料にない解釈をしたり、あるいは合う部分だけは抜書きしてその証拠にしたりする。これではとても無理というものだ。
  論争は問題点を明確にし、自らを向上させるという点では確かに有意義である。しかしどちらかの説に折り合うということはまず考えられない。「それでも地球は周っている」というのが人の常であるように思う。
  難しいことはいらないから、小学生でも納得できるもの、それが欲しい、と私自身は常々思っているのであるが・・・。

2007.03.15
  昨日夜10時NHK放送の「歴史の選択」邪馬台国はどこか?を観た。根拠とする文献は相変わらず『魏志』倭人伝のみで、内容そのものは数十年前とさほど変わってはいなかった。しかし私の予想に反して、近畿説か九州説かの投票では九州説が圧倒的に多く、近畿に住んでいる人の中にも九州説支持が意外と多かったことには少し驚いた。これは文献・考古資料を恣意的に扱っていないということの現われでもあり、まだ捨てたものではないな、と少しうれしくなった。


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