日 本 書 紀 朝鮮史料 中国史料 備   考
内容
斉明天皇 ( 655 ) (新羅・太宗武烈王)二年〔655〕春正月、高句麗は百済靺鞨と連合し、我が北境を侵し、三十三城を取った。王は唐に遣使し援けを求めた。
(新羅・太宗武烈王)二年〔655〕三月、唐は営州都督程名振と左右衛中郎将蘇定方を遣わし、高句麗を撃った。 唐は新羅を護るという名目で、具体的に動き出した。
(百済・義慈王)十五年〔655〕八月、王は高句麗靺鞨と新羅三十余城を攻めて破った。新羅王金春秋は唐に遣使し上表し、百済が高句麗靺鞨と我が北界を侵し、三十余城を落とした、といった。
高麗・百済・新羅がともに遣使して調を進った。
新羅は別に及飡彌武を質とした。
朝鮮半島の情勢からは、敵対関係にある百済、新羅、高句麗の三国が一緒に遣使することは考えられない。

新羅4人目の人質である。新羅は1月と8月に唐に遣使し、百済と高句麗の攻撃に対して援けを求めている。新羅は唐に依存しており、倭国ではない。

倭国は百済と友好関係にあり、新羅が朝鮮半島の新羅だとすると、人質を送る意味はまったくないことになる。
2 ( 656 ) 8 8日、高麗が達沙らを遣わして調を進った。 朝鮮半島の情勢からは、この遣使もあり得ない。
高麗・百済・新羅がともに遣使して調を進った。
3 ( 657 ) 新羅に使を遣わして、新羅の使に付けて、沙門智達・間人連御廐・依網連稚子らを大唐に送ろうとしたが、新羅は承知しなかった。
4 ( 658 ) 7 この月、沙門智通、智達が勅をうけて、新羅船に乗って大唐国に行き無性衆生の義を玄奘法師のところで受けた。
【或本はいう。庚申年の七月になって、百済が遣使して、「大唐、新羅は力を合わせ我を伐った。すでに義慈王・王后・太子を虜として去った」といった。】
西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂が百済から還って、百済は新羅を伐って還った、云々、といった。
或本は2年後のこと。
「或本」には朝鮮半島の歴史が書かれていた、ということ。
5 ( 659 ) 3 この月、阿倍臣が水軍180艘を率い、蝦夷を討った。【或本はいう。阿倍引田臣比羅夫が肅愼と戦い帰ってきた。】
(新羅・太宗武烈王)六年〔659〕夏四月、百済が頻繁に国境を犯すので、王はこれを伐とうと、唐に遣使し出兵を乞うた。
7 【伊吉連博德書はいう。小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連らの二船が呉唐への路を使わされた。(中略)二十九日、東京に到着した。天子は東京にいた。三十日、天子は相見て問うた。日本国天皇は平安かどうか。(中略)十一月一日、冬至の会があった。諸蕃の中で倭客が最も勝れていた。後に出火騒ぎがあり、韓智興の従者西漢大麻呂の讒言により我客のせいにされたが、罪は免れた。勅旨があり、国家は来年必ず海東を征伐するから、おまえたち倭客は東には帰れない、といった。西京に、別の処に幽置された。】 伊吉連博德書によれば、同じ「倭客」に「我客」が讒言されたというのだから、「倭客」には博德側の「倭客」と韓智興側の「倭客」がいたことになる。
(『翰苑』所引 新羅 地惣任那)齊書云、加羅國三韓種也。今訊新羅耆老云、加羅・任那昔爲新羅所滅、其故今並在國南七八百里。此新羅有辰韓・卞辰廿四國、及任那・加羅・慕韓之地也。 「今」とは、『翰苑』が成立する(660)少し前の時代のこと。加羅任那は昔、新羅に滅ぼされたと、古老は言ったのである。
6 ( 660 ) 1日、高麗の使人、乙相賀取文ら一百余りが筑紫に泊まった。
3 阿倍臣を遣わして、船軍二百艘を率いて、肅愼国を伐った。 (新羅・太宗武烈王)七年〔660〕三月、唐の高宗は、左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大摠管に、金仁問を副摠管に任命し、左驍衛将軍劉伯英ら水陸十三万の軍を率いて、百済を伐たせ、王を嵎夷道行軍摠管とし、援軍とした。
5 8日、高麗の使人・乙相の賀取文らが難波の館に着いた。
7 16日、高麗の使人・乙相の賀取文らが帰った。
【高麗の沙門道顕の日本世記はいう。七月云々。春秋智は大将軍蘇定方の手を借り、百済を挟撃して亡ぼした。あるいはいう、百済は自ら亡びた。云々】
【伊吉連博德書はいう。庚申年の八月に百済を平らげた後、九月十二日に客を本国に発たせた。十九日に西京より発ち、十月十六日に東京に帰り着き、はじめて阿利麻ら五人と会うことができた。十一月一日、将軍蘇定方らにとらえられた百済王以下、太子隆ら、諸王子十三人、大佐平沙宅千福・国辨成以下三十七人、あわせて五十人ほどの人たちを朝堂に進め奉った。・・・天子は恩勅して、百済王以下を釈放した。・・・24日、東京より出発した。】
(新羅・太宗武烈王)七年〔660〕七月十三日、義慈左右の近臣を率いて夜に遁走し、熊津城に非難した。義慈の子・隆は大佐平千福らと出て降服した。十八日、義慈は太子及び熊津方面の軍兵をひきつれて熊津城より出て来て降服した。 (『旧唐書』劉仁軌伝)(顯慶)五年〔660〕、高宗征遼、令仁軌監統水軍、以後期坐免、特令以白衣隨軍自効。時蘇定方既平百濟、留郎將劉仁願於百濟府城鎭守、又以左衞中郎將王文度爲熊津都督、安撫其餘衆。文度濟海病卒。百濟爲僧道琛、舊將福信率衆復叛、立故王子扶餘豐爲王、引兵圍仁願於府城。詔仁軌儉校帶方州刺史、代文度統衆、便道發新羅兵合勢以救仁願。轉鬭而前、仁軌軍容整肅、所向皆下。道琛等乃釋仁願之圍、退保任存城。 伊吉連博德は歴史的事件の現場に遭遇したのである。
9 百済が達率沙彌覚従らを遣わし来朝して、奏して、「今年七月、新羅が唐人を引き入れて百済を転覆させた。君臣みな俘となり、生きているものはいない。(中略)ただ福信だけが神武の権を起こして既に亡んだ国を興した。」といった。
10 百済の佐平鬼室福信が佐平貴智らを遣わし、来朝して唐の俘一百余人を献じた。今の美濃国の不破、片県の二郡の唐人たちである。軍を乞い救いを請うた。あわせて王子余豊璋を乞い、天朝に遣わしている王子豊璋を百済国に迎え国主としたい、といった。
詔して、・・・礼をもって発遣せよ、といった。【王子豊璋と妻子、その叔父忠勝らを送った。その正しい発遣の時は七年を見よ。或本はいう。天皇は豊璋を立てて王とし、塞上を立てて輔となし、礼を以って發遣した。
(百済・義慈王)二十年〔660〕武王の従子・福信はかつて将帥だった。道琛とともに周留城に拠って叛き、かつて倭国に人質となっていた古王子扶余豊を迎え王とした。西北部がみなこれに呼応したので、兵を率いて仁願を都城で包囲した。・・・仁軌(仁願の救済軍)は新羅軍と合勢してこれを撃つと百済軍は退却した。福信らは都城の方位を解き退いて任存城を保全したが、新羅人は食料が尽き、兵を引き連れ帰って行った。時は龍朔元〔661〕年三月であった。 百済が653年に好を通じたのはあくまでも倭である。このことは『旧唐書』にも記されている。
つまり倭とは、『魏志』倭人伝からずっと中国正史に記録されてきた「倭」なのであり「ヤマト」と読む倭のことではない。
豊璋がヤマトに居たとしたら、ヤマトは倭国の一部たったと考えるしかない。
12 24日、天皇は難波宮に幸した。天皇は福信の乞うところにしたがい、筑紫に行き救軍を派遣しようと思い、まずここに来て諸軍器を準備した。 『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』からは、仏教を通じ百済とヤマトが親密になってきていることが伺える。
百済のために、まさに新羅を伐とうと思い、駿河国に船を造らせた。
7 ( 661 ) 6日、御船は西征して、はじめて海路に就いた。 任那官家が滅んでも西征しなかった天皇がなぜ百済のために九州へ行こうとしたのか。しかも皇太子と共に。
留守のヤマトはどうするつもりだったのだろうか。
14日、御船は伊予の熟田津の石湯の行宮に泊まった。
3 25日、御船は還って娜の大津に着いた。
磐瀬の行宮に居た。これを改めて長津といった。
(『旧唐書』列伝 東夷 百済)
百濟僧道琛、舊將福信率衆據周留城以叛。遣使往倭國、迎故王子扶餘豐立爲王。其西部、北部並翻城應之。時郎將劉仁願留鎭於百濟府城、道琛等引兵圍之。帶方州刺史劉仁軌代文度統衆、便道發新羅兵合契以救仁願、轉鬭而前、所向皆下。道琛等於熊津江口立兩柵以拒官軍、仁軌與新羅兵四面夾擊之、賊衆退走入柵、阻水橋狹、墮水及戰死萬餘人。道琛等乃釋仁願之圍、退保任存城。新羅兵士以糧盡引還、時龍朔元〔661〕年三月也。
4 百済の福信は遣使して上表し、その王子糺解を迎えることを乞うた。【釈道顕の日本世記はいう。百済の福信が書を献じ、その君糺解を東朝に祈った。或本はいう。四月、天皇は朝倉宮に遷った。】 福信が遣使した先は九州朝倉宮であり、6年10月条とは状況が異なる。
糺解は余豊のことだとは単純には言い切れない。
5 9日、天皇は朝倉の橘の広庭の宮に遷り居た。
23日、耽羅がはじめて王子阿波伎らを遣わして貢献した。
【伊吉連博得書はいう。・・・(耽羅が)五月二十三日、朝倉の朝庭に奉った。耽羅の入朝はこのときに始まった。また、智興の従者東漢草直足嶋の讒言により、使人らは寵命を受けることができなかった。使人らの怨は上天の神を突き抜け、足嶋を震え死なせた。時の人は、大倭の天の報いは近い、といった。】
耽羅が入朝したのは九州の朝倉宮である。
韓智興と従者の東漢草直足嶋は大倭の人ということになる。
「大倭の天の報いは近い」というのであるから、伊吉連博得は大倭の人ではなく、日本の使者である。
つまり大倭と日本は別の国ということになる。
7 24日、斉明天皇が朝倉宮で崩じた。
この月、蘇将軍と突厥王子契苾加力らが、水陸二路から高麗城下に至った。
皇太子(天智)は長津宮に遷った。徐々に海外の軍政をとった。
8 1日、皇太子は天皇の喪を徙し、磐瀬の宮に戻りついた。 (高句麗・宝臧王)二十年〔661〕八月、蘇定方は高句麗軍を[氵貝]江で破り、馬邑山を奪い、ついに平壤城を取り囲んだ。
前将軍大花下阿曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花下阿倍引田比羅夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石らを遣わして、百済を救った。
【或本は、この末に続けていう。別に大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津を使わし、百済を守った。】
9 皇太子は長津宮にいた。織冠を百済王子豊璋に授けた。また多臣蒋敷の妹を妻とし、大山下狹井連檳榔・小山下秦造田来津を遣わして、軍五千余を率い、本国に護送した。このとき福信が迎えに来て、奉国朝政、すべてを委ねた。 皇太子(天智天皇)は長津で指揮をとった。
豊璋はすでに6年10月に本国百済に帰っている。
10 7日、天皇の喪は海を帰って行った。
23日、斉明天皇の喪は戻って難波に泊った。
11 7日、斉明天皇の喪を飛鳥の河原で殯した。
【日本世紀はいう。福信がとらえた唐人續守言らが筑紫に着いた。ある本は、辛酉年(661)、百済の佐平福信が献じた唐の俘106口は近江国墾田に居住したという。しかし庚申年(660)に、すでに福信が唐の俘を献じたとあるので、ここに注記しておく。】
天智天皇は斉明天皇の死によって飛鳥に戻った後二度と九州に行かなかった。ヤマトで指揮がとれるのならわざわざ九州に行く必要はなかったのではないか。

大海人皇子(のちの天武天皇)が行動を起こしたのは天智天皇が亡くなってからであるが、なぜ斉明天皇も皇太子(天智天皇)もいないときではなかったのか。
斉明天皇と皇太子(天智天皇)の九州行きは疑問。
12 高麗が、「高麗国では[氵貝]水が凍結し、唐軍が渡って来た。高麗の兵士は勇壮で唐の塞を二つ取った。しかし残り二つは取ることができなかった」といった。
【釈道顕はいう。春秋の志は、高麗を撃つために起こったが、先に百済を撃った。・・・】
日本の高麗を救う軍将らが百済の加巴利浜に泊まって火を燃した。灰が変わって孔となったり、細い響きがして、鳴鏑のようだった。ある人が、高麗と百済が滅びる徴か、といった。 実際に高句麗に行って戦ったとは書かれていない。
天智天皇 ( 662 ) 27日、百済の佐平鬼室福信に矢十万隻・絲五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稲種三千斛を賜った。 (高句麗・宝臧王)二十一年〔662〕正月、蘇定方は平壤を包囲していたが、大雪にあい退去した。
3 4日、百済王に布を三百端賜った。
この月、唐人・新羅人が高麗を伐った。高麗は救いを乞うた。軍将を遣り、疏留城に拠った。
唐人はその南の堺を侵略することができず、新羅はその西の塁をおとすことができなかった。
4 釈道顕が占って、「北国の人が将に南国につこうとしている。高麗が破れて日本に属すのか」といった。 朝鮮半島の高句麗が破れても、勢力的にも地理的にも、日本に属するなどということはあり得ない。
5 大将軍大錦中阿曇比邏夫連らが水軍一百七十艘を率いて、豊璋らを百済国に送り、勅を宣して、豊璋らにその位を継がせた。また金策を福信にあたえ、爵と禄を賜った。 どちらが正しいかわからないが、660年10月、661年9月、すでに豊璋らを本国に送り届けている。
6 28日、百済が達率万智らを遣わし物を献じた。
12 1日、百済王豊璋は朴市田来津の諌めも聞かず、避城に都した。 645年9月の古人皇子が起こした謀反の一員に朴市秦造田来津という人物がいる。
百済を救うため、武器を修繕し、船舶を具備し、兵粮をたくわえた。
2 ( 663 ) 2 2日、百済が達率金受らを遣わし調を進った。 (新羅・文武王)三年〔663〕二月、欣純と天存は兵をひきつれて百済の居列城を攻め取り、七百余級を斬った。また居勿城と沙平城を攻め、これを降服させた。また德安城を攻め、一千七十級を斬った。
新羅人が百済の南辺の四州を焼き払い、安德などの要地を取った。避城を去り州柔に還った。田来津の計ったとおりになった。
この月、佐平福信が唐の俘虜続守言らを進るため送った。
3 前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣わし、二万七千人を率いて新羅を打った。 「新羅を打った」とあるが、具体的な状況は書かれていない。
5 犬上君が馳けて、兵事を高麗に告げて還った。糺解と石城で会った。糺解は福信の罪を語った。 この高麗とはどこにあったのか。朝鮮半島の高句麗だとすると、犬上君はヤマトから戦闘地域の朝鮮半島を通って、高句麗の方がよく知っているはずの戦闘をわざわざ伝えに行ったことになる。
6 前将軍上毛野君稚子らが、新羅の沙鼻・岐奴江の二城を取った。 百済は高句麗、倭国に出兵を要請したが、唐将孫仁師に阻まれ、新羅への攻撃どころか救援すらできなかったのであり、新羅の沙鼻・岐奴江の二城を取ったというのは疑問。
百済王豐璋は福信に謀反の心があると疑い、どうしてよいか決めかね諸臣に問うた。達率德執得は悪逆人を放免してはならないといった。王は福信を斬り、首を酢づけにした。 (百済・義慈王)福信は権勢を専らにしていた。扶余豊と互いに猜疑心があった。豊は福信の計略を知り、先に親しい信頼のおける臣下とともに福信を殺した。高句麗、倭国に遣使し出兵を請い、唐兵を拒んだが、孫仁師が中路で迎撃しこれを破った。 (『旧唐書』劉仁軌伝)俄而餘豐襲殺福信、又遣使往高麗及倭國請兵、以拒官軍。
8 13日、新羅は百済王が良将を斬ったので、百済に入り州柔を取ろうと謀った。百済は新羅の計りごとを知り、今、大日本国の救将廬原君臣が健児万余を率い、まさに海を越えてやってくると聞いている、我は自ら往って白村で待ち、もてなそうと思う、といった。

17日、新羅の将が州柔に着き、王城を取り囲んだ。大唐の軍将は戦船一百七十艘を率いて、白村江に布陣した。

27日、日本の水軍の先陣が大唐の水軍と合戦した。日本は不利となり退いた。

28日、ほんのしばらくの間に、官軍は敗れに敗れた。朴市田来津は戦死した。このとき、百済王豊璋は数人と船に乗り高麗に逃げた。
(百済・義慈王)劉仁軌及び別帥杜爽・扶余隆は水軍と糧船を率いて、熊津江から白江に行って陸軍と会い、周留城へ向かった。倭人と白江口で遭遇し四戦してみな克った。王の扶余豊は脱出したが、その行方はわからない。高句麗へ逃げたともいわれている。王子扶余忠勝、忠志らはその衆を率いて倭人とともに降服した。 (『旧唐書』劉仁軌伝)仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船、自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘、煙焰漲天、海水皆赤、賊衆大潰。餘豐脱身而走、獲其實劍。僞王子扶餘忠勝、忠志等率士女及倭衆耽羅國使、一時並降。百濟諸城、皆復歸順。賊帥遲受信據任存城不降。 白村江の戦い前後の『日本書紀』は、『三国史記』の「本紀」「列伝」、『旧唐書』『新唐書』の、この事件に関係した人物の「列伝」、「百済伝」「新羅伝」とほぼ同じ内容となっている。
(「列伝」金庾信 中)龍朔三年〔663〕八月十三日。豆率城に至ると、百済人が倭人と出陣したが、我軍は力戦してこれを大いに敗った。百済と倭人はみな降服した。大王は倭人に、「我と爾の国は海を隔てて境界を分け、いまだかつて交戦したことはなかった。友好講和を結び、聘問し交通していたのに、何ゆえ今日になって百済と同盟し悪をはたらき、我国を謀ろうとするのか。・・・」といった。 金庾信伝の倭は、任那をめぐって新羅と敵対していた日本とは明らかに異なっている。

『三国史記』「新羅本紀」には、500年以後665年まで倭と新羅の記録はまったくなく、『日本書紀』とは対照的である。このことは無視できない。
9 7日、百済の州柔城がはじめて唐に降りた。このとき国人は、百済の名は今日で絶えた・・・、といった。枕服岐城にいた妻子らに、国を去る心を知らせた。
11日、牟弖から出発した。
13日、弖礼に着いた。

24日、日本の水軍及び佐平余自信・達率木素貴子・谷那晋首・憶礼福留、国民らが弖礼城に着いた。明くる日出船して、はじめて日本に向かった。
3 ( 664 ) 2 9日、天皇は大皇弟に命じて、冠位の階の名を増やしたり換えたりすること、氏の上、民部、家部などのことを宣した。(中略)大氏の氏の上に太刀を、小氏の氏の上に小刀を、伴造らの氏の上に楯、弓矢を賜った。またその民部、家部を定めた。 (新羅・文武王)四年〔664〕二月、角干金仁問、伊飡天存は唐の勅使・劉仁願、百済扶余隆と熊津で同盟を結んだ。 白村江敗戦後の状況からして、天智天皇のこの行為は理解できない。
3 百済王の善光王らを難波に住まわせた。
5 17日、百済の鎮将劉仁願が朝散大夫郭務悰らを遣わして、表函と献物を進った。 勝利国が敗戦国に献進などするわけはないから、唐は勝利国として日本へ交渉に来たのではないかと思われる。
10 1日、務悰らに勅を宣べた。この日沙門智祥を遣わして、物を郭務悰に賜った。

4日、郭務悰らをもてなした。
12 12日、郭務悰らが帰った。
対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国に防人と烽を置いた。また筑紫に大堤を築いて貯水した。これを水城といった。 唐の使者が帰った後、九州より北に防衛施設をつくっている。
4 ( 665 ) 2 この月、百済国の官位階級を勘案した。佐平福信の功で、鬼室集斯に小錦下を授けた。また百済の百姓男女四百余人を近江国神前郡に住まわせた。
8 達率答[火本]春初を遣わし、城を長門国に築いた。達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣わし、大野と椽の二城を築いた。
耽羅が遣使し来朝した。
(新羅・文武王)五年〔665〕秋八月、王は勅使・劉仁願、熊津都督・扶餘隆と熊津就利山で盟約を結んだ。                                      
(新羅・文武王)五年〔665〕歃血がおわると、牲幣を壇の壬地に埋め、その書を我が宗廟に保管した。仁軌は我が使者と百済・耽羅・倭人の四国使をつれて、船で西に還り泰山に行きまつった。 (『旧唐書』劉仁軌伝)麟德二年〔665〕、封泰山、仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會、高宗甚悦、擢拜大司憲。
9 23日、唐国が朝散大夫沂州・司馬上柱国劉德高らを遣わした。【らとは右戎衛郎将上柱国百済禰軍、朝散大夫柱国郭務悰をいう。およそ二百五十四人。七月二十八日に対馬に着き、九月二十日に筑紫に着いた。二十二日に表函を進った。】
13日、劉德高らに饗を賜った。
12 14日、劉德高らに物を賜った。

この月、劉德高らが帰った。
小錦守君大石らを大唐に遣わした、云々。
5 ( 666 ) 11日、高麗が前部能婁らを遣わし調を進った。この日、耽羅が王子姑如らを遣わし貢献した。
6 4日、高麗の能婁らが帰った。
10 26日、高麗が臣乙相奄[偏:上下に∃ 旁:阝]らを遣わし調を進った。
(新羅・文武王)六年〔666〕冬十二月、唐は李勣遼東道行軍大摠管に任じ、司列少常伯、安陸郝處俊を副官として、高句麗を撃った。
6 ( 667 ) 2 27日、・・・(大田皇女の)墓への路で、高麗・百済・新羅の使いはみな哀しんだ。 朝鮮半島の高麗・百済・新羅は、日本の皇族の葬儀のために来る状況にはない。
特に新羅は百済を滅ぼし、さらに高句麗も滅ぼそうとしているのである。
3 19日、近江に遷都した。
7 耽羅が佐平椽磨らを遣わして貢献した。
11 9日、百済鎮将劉仁願が熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰らを遣わし、大山下境部連石積らを筑紫の都督府に送った。

13日、司馬法聰らが帰った。
倭国の高安城、讃吉国の山田郡の屋島城、対馬国の金田城を築いた。 今回も唐の使者が帰った後、城を築いている。
ヤマトにも築いている。
7 ( 668 ) 4 6日、百済が末都師父らを遣わして調を進った。

16日、末都師父らが帰った。
百済はすでに滅亡している。この百済とはどこの百済なのか。
7 高麗が越の路を通って、遣使して調を進った。
栗前王を筑紫の率に任命した。
朝鮮半島の高句麗は、日本に遣使朝貢しているような状況にはない。
9 12日、新羅が沙[口彔]級飡金東厳らを遣わして調を進った。

26日、中臣内臣・沙門法辧・秦筆を使いとして、新羅上臣大角干庾信に船一隻を賜い、東厳らに付した。

29日、布勢臣耳麻呂を使いとして、新羅王に輸御調船一隻を賜い、東厳らに付した。
(高句麗・宝臧王)二十七年〔668〕秋九月、李勣が平壌を落とした。 白村江の勝利国が敗戦国に遣使朝貢することはあり得ない。

新羅上臣大角干庾信は、新羅の朝鮮半島統一の最大の功臣。その功臣と新羅王にそれぞれ船一隻を賜った。白村江で倭と百済を破った新羅を、日本は認めた、ということか。
10 大唐の大将軍英公が高麗を打ち滅ぼした。 この年、高句麗が滅亡したのは史実。
11 1日、新羅王に絹五十匹・綿五百斤・韋一百枚を賜い、金東厳らに付した。

5日、小山下道守臣麻呂・吉士小鮪を新羅に遣わした。この日、金東厳らが帰った。
8 ( 669 ) (總章)二年〔669〕二月、(高句麗)王の庶子・安勝が四千余戸を率いて新羅に投じた。
3 耽羅が王子久麻伎らを遣わして貢献した。
9 11日、新羅が沙飡督儒らを遣わして調を進った。
小錦中河内直鯨らを大唐に遣わした。また佐平余自信・佐平鬼室集斯ら、男女七百余人を、近江国蒲生郡に遷して住まわせた。また大唐が郭務悰ら二千余人を派遣してきた。 唐の二千余人は日本への圧力か。
9 ( 670 ) (『新唐書』日夲)咸亨元年〔670〕、遣使賀平高麗。
日本は唐が高句麗を平定したことを祝うために使者を送った。

このとき以来引き続き、日本は唐に朝貢している、という。『唐会要』の倭国は明らかに「日本」を指している。
つまり、それまでの遣隋使、遣唐使の主役は、日本ではなく倭(わ)だったということになる。
2 高安の城を修理し、長門に城を一つ、筑紫に城を二つ築いた。
(『唐会要』倭国)咸亨元年〔670〕三月、遣使賀平高麗。爾後継來朝貢。
9 1日、阿曇連頰垂を新羅に遣わした。
(新羅・文武王)十年〔670〕十二月、倭国が国号を日本と改めた。みずから、日の出るところに近いので名づけた、といっている。 (『旧唐書』日本国) 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。                                                                              『唐会要』は、則天時〔690~705〕に国号を日本と改めたと書く。
(『新唐書』日夲)日夲、古倭奴也。(中略)後稍習夏音、惡倭名、更號日夲。使者自言、國近日所出、以爲名。或云日夲乃小國、爲倭所并、故冒其號。
10 ( 671 ) 9日、高麗が上部大相可婁らを遣わして調を進った。

13日、百済の鎮将劉仁願が李守真らを遣わして上表した。
(新羅・文武王)十一年〔671〕春正月、兵を出し百済に侵入し熊津の南で戦った。 『三国史記』の百済は、唐が抑えている旧百済領のこと。
佐平余自信、沙宅紹明に大錦下を授けた。・・・
2 百済が臺久用善らを遣わして調を進った。
6 15日、百済が羿真子らを遣わして調を進った。
この月、栗隈王を筑紫の率とした。
新羅が遣使して調を進った。別に水牛一頭・山鷄一隻を献じた。
(新羅・文武王)十一年〔671〕六月、将軍竹旨らを遣わして兵を率いて、百済加林城を襲い、ついに唐と石城で戦った。 『日本書紀』の百済、新羅の遣使朝貢は朝鮮半島の情勢ではありえないこと。

朝鮮半島では、旧百済の領域を抑えている唐に不満を持つ新羅が唐と敵対していく。

百済義慈王の子・隆は、百済滅亡後、熊津都督帯方郡王となった。しかし孫の敬を最後に百済はその国系を絶った。
10 7日、新羅が沙飡金万物らを遣わして調を進った。
11 10日、対馬の国司が筑紫の大宰府に遣使して、「この月の二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の四人が唐より来て、『唐国の使者郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら一千四百人、合わせて二千人が船四十七隻に乗り、比知嶋に泊まったとき、語り合って、防人が驚いて射戦する恐れがある、ということから、道久らを遣わし、あらかじめ来朝の意をのべた』といっている」といった。
29日、新羅王に絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚を賜った。


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