興宗寺の歴史

 興宗寺に伝わる「元治由緒書」「文政由緒書」に依れば、興宗寺の開基とされる行如は、北条時政の子時房の次男で北条相模次郎時村と称し、鎌倉で将軍源実朝に仕えていたが、1219(承元元)年に鶴丘八幡宮で実朝が公暁に殺害されたことから仏門に入る決心を固め、翌年1月14日に出家して最初に法名を「行念」と名乗った。時に行如、16歳であったという。
 上京した行如は親鸞の弟子となり十字名号を授かったという。その後、越前国主をしていた弟=北条相模太夫時弘を頼って彼の地に赴き、九頭竜川北岸の長畝郷に一宇を建立する。これを人々は但馬御坊と呼んだ。48歳の頃、行如は後代の形見として自身の木像を製作したという。
 やがて親鸞が亡くなったため、行如は如信に仕え、更にその後、覚如にも仕えることとなった。親鸞の旧跡を訪ねる旅に出た覚如に代わって、御真影の番をした功により、覚如から「如」の一字を賜って法名を行如と改名したとされる。
 1292(正応5)年には、覚如より興宗寺の寺号を拝領し、その後、越前に帰った行如は1300(正安2)年5月16日に往生を遂げたという。
 しかし、研究者によれば両由緒書の記述には明らかな間違いや疑問点も多いという。一例を挙げれば、行如が越前に下向した覚如に帰依したことは「反古裏書」など複数の文書に記載されているが、その時期はいずれも1311(応長元)年であり、両由緒書が行如の没年を1300(正安2)年としていることと明らかに矛盾する。
 「反古裏書」には藤島超勝寺創立の由緒を語る部分に行如についての記述があるが(「田嶋ノ興宗寺行如」とある)、それによれば行如は、鎌倉末期の越前において、和田の信性、大町の如道等と共に高田系に属する念仏者であったと思われる。本願寺の勢力を北陸へ伸張させるために1311(応長元)年、息子である存覚を伴い覚如は越前へ下向し、大町如道のもとに20日余り滞在し『教行信証』を伝授している。この時点で行如は高田系から本願寺系の念仏者へと、その籍を移したものと考えられる。興宗寺の寺号を名乗った時期は定かではないが、これ以前のかなり早い時点において付与されていたらしい。
 その後、大町如道は「秘事法門」を唱えて本願寺から離脱し、三門徒派を立てることとなるが、興宗寺行如とその子孫は一貫して本願寺に帰順し続けた。覚如の生涯を描いた『慕帰絵』には「凡又、聞法血脈の名字を釣輩は、有昭・善教・覚浄・教円・乗智・成信・行如・承入・唯縁・道慶・寂定等なり。」とあり、覚如の聞法血脈に属する重要な人物の一人として行如を位置づけている。
 月津興宗寺には「九尊像」と呼ばれる高僧連座像が伝わっている。文政由緒書には、第二世行円の時に覚如よりこれを下付されたとされており、元治由緒書によれば、これに描かれた人物の配置は「善導大師→法然聖人→祖師聖人(親鸞)→信空上人→聖覚法師→蓮尼御房→入西御房→西仙御房→行如房」となっている(現存する連座像では、名を記した部分が剥落して全く読むことが出来ない)。しかし、この由緒書に示されている法脈に従えば、行如は西仙の弟子であったこととなり、そこには覚如の名は全く登場しないこととなる。ほぼ同様の連座像が三門徒派本山の福井専照寺に伝わっていることなどから、この絵像は由緒書の主張するところとは違い、行如が高田系の念仏者であったことを示していると言える。
 「西光寺古記」によれば、行如は60歳で死去し、その命日は5月16日であったと言う。
 その後、興宗寺は、第二世行円、第三世行祐、第四世円祐、第五世円慶と継承されていった。第五世円慶は、蓮如上人の越前下向の際、その供をし、1471(文明3)年に始まる吉崎御坊建立のために尽力したという。1477(文明9)年、円慶は加賀国月津(江沼郡矢田庄月津村牛カ鼻)の太子堂に移り隠居する。これが月津興宗寺の始まりとされる。また、その地が牛カ鼻と呼ばれていたことに因み、蓮如上人より「牛鼻山」の山号を許され、それ以来、牛鼻山但馬興宗寺と称した。月津興宗寺に伝わる聖徳太子十六歳像は北条家伝来のものと言われ、太子堂ゆかりの尊像と言われるが詳細は定かではない。
 石山合戦最末期の1580(天正8)年、福井興宗寺の第八世誓了は顕如派に属し和議退城を支持、その弟・善了は教如派に属して徹底抗戦に参加したという。結果として、教如は大坂退城を余儀なくされ、善了ら教如派は破門され、残された門徒衆は誓了に預けられたと見られる。
 1602(慶長7)年、復権した教如が東本願寺を立て、本願寺の東西分派が為された際、善了は教如に従い、以後、月津興宗寺は東派(真宗大谷派)、福井興宗寺は西派(浄土真宗本願寺派)として別々の道を歩みだした。
 現在、月津興宗寺は二十四代を数えている。