大好きだった女(ヒト)。
好きで、そしてとても大切だった女。
いつも泣いてばかりだったけれど、その人が笑ってくれるなら何だってしたのに。
料理だって、掃除だって、兄貴との情交すら見ない振りしていた。
貴女が望むなら、この命すら差し出せた。
オレがいなくなることで、貴女が笑ってくれるなら。
それだけでオレは満足なくらいに。


赤い花


目覚めは最悪。
うすら闇の中、ぼんやりと目を開いた悟浄は改めて今の自分を確認する。
ここは違うと。
あの不幸だった少年時代ではないし、カミサマってやつの霧の中でもない。
古ぼけた天井に、ようやく正気が戻ってくる。
と同時に朝特有の肌を刺すような寒さがむき出しの肩に感じられた。
ごそっと起きだし隣のベッドの悟空を見やる。
満足そうに寝こけてやがる。
苦笑の形に歪む口元。
静かにベッドに腰掛けハイライトに火を付け、うすら闇に紫煙の煙を吐き出した。
久しぶりにアノヒトの夢を見た。
吹っ切れたと思っていた。
けれど。
身体になじんだ煙を肺の奥底まで吸い込む。
このままこの煙に犯されてしまえばいいのにといった馬鹿げた思いすら浮かび、悟浄は煙草を灰皿に押しつけた。
朝の静かな空気がここに彼の居場所は無いのだと言わんばかりに、張りつめている。
視線を幾度か彷徨わせた後、悟浄は静かに扉を開いた。
そしてまだ薄暗い街へとその脚を向けた。


カミサマとの一件以来、怪我を負った彼らは酒場のマスターのところに世話になっていた。
始めこそ床に伏せっていた彼らも日を追うごとに回復し、現在では三蔵がまだベッドの住人である他は至って普段通り。
三蔵の看病のため八戒が彼と同室になっている以外はいつもと何ら変わりは無かった。
そのため、悟空の朝は遅い。
太陽が中空にさしかかる頃ようやく起きだしてくる。
そしてまず三蔵のところにやってくる。
「はよ〜」
「おはようございます」
あくびをしながら悟空が扉を開けると、八戒がさわやかな笑顔で彼を迎える。
それを三蔵があきれたように見た。
「もう昼だぞ」
いつもの言葉に少しぶーたれながら、悟空が無駄な反論を試みる。
「だって、今日は静かだったからさ」
その言葉に八戒がきょとんとした。
「悟浄はどうしました?」
「知らねーよ。オレが起きたときにはいなかったけど?」
「そうですか」
少しだけ歯切れの悪い物言いに、悟空が怪訝そうな顔をする。
「悟浄、どうかしたの?」
「いえ、どうもしないですけど」
「けどなんだ?」
はっきりしない八戒に少しだけ焦れたように三蔵が問うた。
それに八戒が苦笑する。
「朝から姿を見てないので、気になっただけです。それよりお腹空きませんか? そろそろ食事の時間ですよ」
「わーい! メシメシ」
嬉しそうに笑う悟空に、つられるように八戒も笑う。
それきりその話は終わってしまった。


さわさわと葉擦れの音がする。
緩く抜けていく風はわずかに湿り気を帯びて、森が水を蓄える場所だと言うことを改めて知らしめる。
「きゅー」
ジープが、少しだけ心配そうに悟浄の頬を舐めた。
そのくすぐったい感触に悟浄は片目だけうっすら開けると、ジープに笑ってみせる。
「サンキュ」
草の上に横たわり、ぼんやりと空を見上げる。
葉と葉のあいだから見える空は青い。
こんなところに変わらないモノもあるのかと少しだけ感心するが、それでも子供の頃に見た空の色とはわずかに違う気がするのは気のせいなのか。
誰にも会いたくなくて、街を彷徨ったはいいが、その生活臭にたまらず逃げるように近くの森まできてしまった。
しかもジープまでつれて。
誰にも会いたくは無いけれど、誰かにそばにいて欲しいと餓える心にはペットはちょうどいい。
そう言葉にすればジープは怒るかもしれないが、なんだかんだでつきあいのいいジープはこうして悟浄にも気を配ってくれる。
こういうところは飼い主にそっくりだ。
ふと、今一番会いたくない人間の顔が浮かぶ。
この歳にしてできた初めての親友。
なんでも分かり合えるとまではいかないけれどそれに近く、お互いの全てを許容してあまりある関係。
彼のおかげで自分はずいぶん変われたし、強くもなれた気がする。
弱みを見せるのがイヤなわけではなく、格好悪いとも思わないけれど、それでも今は彼に会いたくなかった。
過去を吹っ切った彼に、過去を振り切れない自分がおいて行かれてるような気がするからかもしれない。
それとも単なる意地なのかもしれないけれど、ただ今は彼に会いたくなかった。
かといって、あの生臭坊主もごめんだけれど。
お互いに大人のつき合いをしているせいか、不用意に心へ踏み行って来ることはしないまでも、上辺のつき合いで済まされるほど浅い仲でもない。
結局、人と深く関わると言うことは自分をそれだけさらすと言うことと同義で、傷つくこととも隣り合わせだということだ。
少しだけ嘘の中で生きていた過去の自分を懐かしく思う。
嘘の愛を囁けば暖かい腕に抱かれることは簡単で、差しだした手は必ずだれかが握ってくれた。
けれど、それが偽物なのは自分でも良く判っていたから、いつも心のどこかに穴があいたような寂しさがあった。
結局自分は怖かったのだと気がついたのは、彼らに出会ってから。
差しだした手をはねのけられるのが怖くて、本音を漏らすことすら出来なかった自分。
くっと、喉で笑えば自分がますます滑稽に見えてくる。
何も変わっちゃいねぇ。
この手を怖くて伸ばすことができないことも、アノヒトを愛おしいと思うことも。
悟浄は自嘲気味な笑みを浮かべジープの頭を緩く撫でると、その手を草の上にはたりと落とした。
「帰んな」
「きゅー?」
心配そうに悟浄をのぞき込んだジープを、やんわりと押し返す。
「帰りな、八戒んとこに」
それきりまぶたを閉じて、何も言わない。
ゆるゆると眠りに引き込まれていく悟浄に、ジープはもう1度だけ小さく鳴くと宿の方へと羽ばたいた。


夜のとばりが降りてしばらくした時間。
既に夜の色が濃くなり商店の明かりは消え始める。
食事が終わってそれぞれの部屋に引き上げていた悟空が、三蔵と八戒の部屋を訪れた。
ノックもせずにその扉を静かに開ける。
と、気配を察した八戒が悟空を見付けて怪訝そうな顔をする。
うとうとと眠っている三蔵に気を使ってのことだとすれば良い知らせではない。
三蔵を起こさないよう静かに部屋を出ると、悟空が少しだけ潜めた声で言った。
「悟浄、もどらねぇんだけど…」
「朝からですか?」
「うん」
さすがに八戒の眉間にしわが寄る。
連絡も無しに外泊するような人間ではない。
外泊するにしても出掛けるの一言も無いのはおかしい。
そもそも、出掛けたのが夕ではなく朝だというのが引っかかる。
悟空が少しきつい目で八戒を見る。
「まさか、カミサマのところに行ったんじゃ……?」
「いえ、それはないと思います。1人で行っても勝てないことぐらい悟浄も解っているはずですから」
彼にぶちのめされた出来事はまだ記憶に新しい。
とすると心当たりがない。
二人は廊下に立ったまま、考え込む。
ふと、八戒が悟空を見る。
そういえば、ここ2・3日彼らの喧嘩を見ていない気がする。
とするとその前に何かあったのだろうか。
悟空に問いかけようと思って、八戒はやめた。
悟空が覚えている訳がない。
多分悟空と悟浄の感性は遠い。
悟空が気にも留めないような事に悟浄が反応するのは、悟空には解らないだろうし問うても無駄だ。
以外と気配り屋で繊細な親友を思いだして、こんな時だというのに思わず笑みがこぼれる。
「………八戒?」
じろりと白い目で見られて耐えきれず、八戒は吹き出してしまう。
「ああ、スミマセン」
「………」
「いや、ほら、まだいなくなったと決めつけるには早いですし。すぐに帰ってくるかもしれませんよ」
「でも……」
口をとがらせて八戒を見上げる悟空。
それを微笑ましく感じながら、八戒は彼の頭を撫でた。
「悟浄も1人になりたいだけかもしれませんし、ね」
ぶすーっと八戒を見上げていた悟空だったが、あきらめたように視線を落とした。
「そういうもんなの?」
「そうかもしれません」
にこりと笑う八戒に、丸め込まれてしまう。
けれど、どうしても悟空には納得できなかった。
1人になりたい時は悟空にだってある。
けれど、誰の目にも触れないところに黙って行くというのが果たしてそれなのか。
どうして八戒が悟浄をそこまで信頼できるのか解らなかったし、相談すらせずおいて行かれたことが我慢できない。
「いつもオレだけ置いて行かれるんだな」
ボソッと呟いたその言葉に、八戒が驚く。
先日の一件も含まれているであろうその言葉。
悟空がまだそういうところを納得できる程大人でないことを思いだして、八戒は悟空が傷ついただろうかと心配になる。
「……悟空?」
そっと問いかけてみても、悟空からの返事はない。
不安になってもう一度問いかけようとしたとき、悟空がいきなり顔を上げた。
「オレ、探してくる!」
突然まっすぐな黄金の瞳に見つめられ、八戒が驚いた。
けれど、それにかまわず悟空は廊下を走り出す。
「ちょっと行って来る! 三蔵よろしくな」
答えを返すまもなくその身をひるがえすと、悟空はあっと言う間に階下へ消える。
そしてばたばたと言う音とともに、玄関の開く音が続く。
唖然としていた八戒の後ろで、三蔵が扉を開いた。
「うるさくておちおち寝てもいられねぇ」
「だからって起きあがらないでくださいね」
「身体がなまるだろーが」
そう言って三蔵は煙草に火を付ける。
「くそガッパのせいか?」
「あははは」
ゆうるりと吐き出される紫煙の煙に、八戒の笑みがやさしい微笑に変わる。
「悟浄は、みんなに愛されてますね」
恥ずかしいその台詞に嫌味の一つも言ってやろうかと三蔵が視線を向けたが、その微笑みに口をつぐむ。
そして静かに煙を吐き出すと、少しだけその唇を笑みの形に歪めた。
「そうだな」


草を分ける音で目が覚めた。
気付けば辺りはすでに暗く、気温も大分下がっている。
「やば……」
慌てて身体を起こすと、上に乗っていた物がごろんと落ちた。
「へ?」
間の抜けた声を出して、悟浄はそろそろと視線を下へと下ろす。
するとそこには悟空の姿。
「いてて…。なんだよ、急におきんなよ〜」
転がった時に打ったのか、頭を擦りながら半身をおこす悟空に、悟浄は驚きのあまり硬直した。
「なんで、オマエここにいんの?」
やっとの事でそう言うと、悟空は唇をとがらせて悟浄を見た。
「だって悟浄帰ってこねぇんだもん」
「あ、ワリィ。なんか寝ちまってさ…って」
ひょっとして、迎えに来てくれたとか?
びっくりして、黙ってしまう悟浄。
いや、でも、まさか、そんな。
「悟浄?」
ひょいと顔を覗き込まれて、思わず悟浄は耳まで赤くなった。
あまりに自分が馬鹿げたコトを考えているのを見透かされた気がして。
「な、なんでココがわかったんだ?」
慌てて話を逸らすと、悟空は気にした風もなく笑った。
「さっきジープに会ってさ。ここまで連れてきてくれたんだぜ」
「へぇ……」
なんだかくすぐったい。
何も変わっていないと思ったけれど。
思ったけれど。
悟空がふと振り返った。
まだ座ったままの悟浄を見ると、ニッと笑って手を出した。
「帰ろうぜ」
悟浄がきょとんと瞬きをする。
差し出された手を、まじまじと見つめ、そして破顔した。
ホント、かなわねぇな。
まっすぐに見つめるその瞳。
きっとこいつは、手を伸ばすことをためらいなんてしないだろう。
それでも照れくさいからその手は取らずに、悟浄は立ち上がって悟空の頭をくしゃりと混ぜた。
「サンキュ」
突然の言葉に、悟空はなんのことかわからずきょとんとしていたがが、悟浄はかまわず歩き出した。
「おいてくぞ、サル」
「サルって言うな!!」
慌てて悟浄の後を追って、悟空が駆けてくる。
後ろからのパンチをひらりとかわし悟空の頭をこづいてやる。
いつもの二人、いつもの掛け合い。
「もーっ、迎えに来て損したっ!」
悟空が夜空に吠えると、悟浄が大きく笑った。



大切だった貴女。
貴女が笑うなら、何でもしてあげたかった。
けれど、もう命は差し出せそうにない。
貴女の他に、大切な物を見つけてしまったから。



END

期間限定で表においてあった悟浄さん誕生日おめでとう話。 お誕生日企画とは言え、特に誕生日の話ではありません(苦笑)。カミサマにやられたあとの、酒場で回復している彼らです。八戒の言った数日前からってのは妙なふせんになってしまいましたが、麻雀の後のことです。本当は59になる予定だったんですが、話の流れからどうしても入れるとおかしくなってしまうのでやめました。まあ、それはそのうちね。といってもこれも十分59? いやどちらかというと95…(苦笑)。何はともあれ悟浄さんお誕生日おめでとうv

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