逃げたくなるコトって、ない? あの日私は、ものすごくヤなコトがあって、泣きっ面に蜂ってこのことを言うんだってくらい、もう、悪いことばっかりで。 このまま消えちゃいたいって思うコト、ない? 最後の砦でいつもの笑顔を振りまいた私。 プライドだけでそこにいた私。 一人になったとたんに涙がこぼれた。 悔しくて、悲しくて、そのままそこに膝をついて泣いた。 子供みたいに泣けなくて、こぼれる嗚咽が惨めだった。 もうヤだった。 このままどこかへ行ってしまいたかった。 人さらいでも、人殺しでも、ここから連れてってくれるなら何でも良かった。 誰かに助けて欲しかった。 が目を開いたときに見えたのは、闇だった。 暗い室内。 目を開いているはずなのに、物がぼんやりとしか見えない。 は何度か瞬きをすると、ため息をついた。 まず初めに寝過ぎたのかと考えて、それからみんなに心配かけたかなって思った。 感情にまかせてひどいことをしてしまったかもしれない。 少しだけ冷静になった頭でそんなことを思いながら、時計を探す。 けれど、手が上手く動かない。 拘束されているわけでもなく、ただ重たくて神経が鈍くて上手く動かない。 と、暗い闇から声が響いた。 「何を泣いているのかな?」 の上から降ってくる声。 が目を凝らすと少しずつはっきりしてくる視界。 視力が足りない時の視界に似ているぼやけ具合で、貧血を起こしたときにも似ている暗さ。 はっきりしない視界の中で、何かがの方へと動く。 頬に、何かが触れた感触。 指が、の頬をなぞる。 しめった感触。 その時初めては自分が泣いていることに気が付いた。 少しずつ視力を取り戻していく視界。 離れていく手は、さっきよりもよく見えた。 そしてその先にいる人物。 白衣の男の姿。 無精ひげと、銜え煙草に眼鏡。 よく見えない。 と、男がニヤリと笑った気がした。 「名前は?」 男がに聞く。 有無を言わさぬ口調。 は乾きすぎてひりひりしている喉から声を出した。 「……」 「ふーん。ちゃんかぁ」 楽しそうに男が笑った。 その瞬間、屋敷中に鐘の音が響き渡った。 ゴーン、ゴーン。 耳を塞ぎたくなるような大音量で、建物中を響きわたる音。 上手く動かない腕を上げると、男がへニヤリと笑った。 「ゲームの始まりだよ。ちゃん」 鐘の音に消されず届いたその言葉。 男が笑いながら身を翻すと、は慌てて起きあがろうとした。 こんな、どこだかわからない場所に一人で置いていかれたくない。 けれど、上手く動かない身体では後を追うことも叶わない。 ずるっと手が滑って、の身体はそのまま地面へと落ちた。 無様に肩から硬い床に落ちて、痛みに眉をひそめながらも光の差す方を見れば翻った白衣が消えていくところだった。 寝台を頼りによろめきながらが後を追う。 一人になりたくなかった。 助けて欲しかった。 縋る思いで男を追う。 ただ歩くということがこんなに大変だなんて、思わなかった。 まるで歩き始めた子供のような危うさで、は必死に男を追った。 けれど、その歩みで追いつけるわけがない。 男の姿なんて、扉の所で見たのが最後。 それでも一本道の廊下を、必死では追った。 無理に動いたせいか、視界がかすむ。 駄目だと。 確信しながらも認めることなんてできず、は重い体を引きずるように歩く。 角を曲がるたび、絶望する。 それでもあきらめること以上の絶望なんて無いはずと信じて。 踏み出した身体を突然羽交い締めにされた。 「……っ!?」 後ろから大きな手で羽交い締めにされてが目を見開く。 ぎりぎりと首に食い込む腕が、身体を浮かせて足が地面から離れる。 必死でもがいても、手には力が入らなくて。 「ここで、なにをしているんですか?」 耳元で囁くように詰問する声。 そんなの私が聞きたいくらいだと、言葉にすることもできずにの意識が闇へと引き込まれていく。 がりっと、爪が彼の皮膚を傷つけた。 力無い抵抗。 いうことの聞かない身体に、の目から涙が零れた。 そしてその意識が完全に途切れる寸前、彼はその手を離す。 どさりと重力に従ってくずおれる身体。 そしての意識は闇へと飲み込まれた。 目を開くと見慣れない天井が目に入った。 「大丈夫ですか?」 そばからかけられた声に少しだけ視線をずらすと、柔らかな笑みを浮かべたたずんでいる男性が目に入る。 ぼんやりとしたままが見つめていると、彼が少し苦笑した。 「気分はいかがですか?」 そっと手を伸ばしの額へと触れさせる彼の手に、ひっかき傷のようなものが目に入る。 「…貴方…?」 押し出した声はひどくかすれていて自分のものとは思えなかった。 それに気が付いたのか、彼はの喉へと手をかざすと目を閉じた。 かすかな光がその手に宿りの喉がほんのりあたたかい。 「他に具合の悪いところはありませんか?」 彼が、布団をかけ直しながら問う。 「…貴方は?」 まだ少しぼんやりした頭でが問うと、彼が少しすまなそうにした。 「僕は猪八戒といいます。先ほどはすみませんでした」 「さっき…?」 ぼんやりしたままの頭を巡らせ、そして合点がいく。 廊下でを羽交い締めにした人だった。 「夢じゃなかったんだ……」 呟きに八戒が不審気な目をする。 けれどそれにも気付かずはさき程の出来事を思い出す。 翻る白衣の背中。 置いていかれたんだと。 見知らぬ人だったはずなのに。 なのに。 ぽろっとの目から涙が零れる。 「……っ」 ひどく悲しくて、心細くては唇を噛んだ。 一人なのだという事実。 自分のことを知っている人は誰もいない。 自分すらわからない。 『ゲームの始まりだよ』 きっとあの人は知っている。 私のことも、何もかも。 なのに。 置いていかれた。 「っく……ぅ…」 一度零れた涙はなかなか止まらなくて、どんどん自分が惨めになって、悲しくて。 ただ泣き続けるの頬を、触れた手。 「どこか、痛いんですか?」 心配そうにの顔を覗き込み、頬の涙を拭う八戒にあの人の姿が重なる。 「……っ、置いてかれたの」 子供のように泣きじゃくりながら、が言う。 「あの人が、助けてくれたって思ったのに……」 「あの人…?」 八戒が怪訝そうな顔でを覗き込んだ。 その瞬間は思わず言っていた。 「貴方のせいだ…」 ののしる言葉は止まらなくて。 「貴方があそこで私を引き留めたから、だからっ…!」 八戒の顔から笑みが消える。 「貴方のせいよっ! 私、私っ……」 ぽろぽろと涙が零れてはうつむいた。 八つ当たりなのはわかっていた。 追いつけなかったことも、彼はただ偶然居合わせただけだということも。 いっそののしってくれれば良かったのに。 なのに。 「スミマセンでした」 八戒はすまなそうに微笑して、を静かに抱きしめた。 「本当に、すみませんでした」 その胸にの頭を抱いて、優しく頭を撫でる。 の目からまた涙が零れた。 「……違うの」 ひどいことをした自分。 そしてただ他人に助けを求めて、逃げようとして、うまくいかないのを全て他人のせいにした自分。 「ごめんなさい」 貴方が悪い訳じゃない。 わかっているの。 誰のせいでもない、自分自身のせい。 そして貴方の優しさに甘えて貴方を傷つけた私。 自業自得だ。 あたたかい胸に抱かれたまま泣き疲れて、いつしかは眠りに落ちていた。 再び目を覚ましたときに気が付いたのは煙草の香り。 「気が付いたか」 そばの椅子から声がかけられてがそちらに視線をやれば、金色の髪をしたキレイな人が、煙草をくわえたまま新聞を閉じた。 「八戒さんは?」 喉はスムーズに動いた。 体調もとても良い。 ベッドに起きあがりまわりを見渡した後、は見えない影を探した。 「八戒はメシを作りに行っている」 「ご飯?」 「てめぇのだ」 その言葉に驚きと同時にうれしさを感じては頬をほころばせたが、金髪の男性にじろりと冷たく見られて居心地の悪さを感じた。 「……あの」 「なんだ?」 おずおずとが口を開けばつっけんどんな言葉が返ってくる。 が、一応会話は成り立っているのでここで話を終わらせる訳にもいかず、はさらに言葉を紡いだ。 「ここは、どこですか?」 漠然としたその問いに、そこはかとなく違和感を感じたらしく、彼は煙草を灰皿へ押しつけるとを見た。 「てめぇが居た屋敷から北へ2キロってとこだ」 「屋敷…?」 「結界の中に建てられた屋敷だ。中には妖怪どもがいたが、上に立つヤツは見つからなかった。そこにてめぇが居た」 彼はをじろりと睨んだ。 「次はこちらの番だ。てめぇは何モンだ? なぜあそこにいた。そしてなぜ無事だった?」 「…私……」 紫暗の瞳に見据えられて視線をはずすことすらできずにが口ごもる。 「私……、わからない」 その答えに焦れたように彼が舌打ちする。 びくりと身を竦ませがうつむいた。 どうしてこの人にこんな風に言われなきゃいけないんだろう……。 小さく唇を噛んで、そして思い当たる。 この部屋が誰のものかはわからないけれど、私は少なくともこのベッドの持ち主にここを提供され、そして八戒に食事を作ってもらい、彼らにあの屋敷からここまで連れてきてもらったのだ。 どう考えても迷惑をかけている。 ちらりと視線をあげるともう一度彼の紫暗の瞳とぶつかった。 「あの、ゴメンナサイ」 何がだと言いたげな彼の瞳に、は少しだけ微笑んだ。 「ご迷惑おかけしてすみませんでした。お礼なんて何もできませんが」 ベッドから降りて、もう一度彼に頭を下げる。 「ありがとうございました。本当にお世話になりました」 体調は良い。 ここがどこかはわからないけれど、生きていくくらい何とかなる。 迷惑なんてかけられない。 が身を翻してドアを開こうとしたとき、その扉が向こうから開いた。 そこには八戒が食事を持って立っていた。 「あれ? 体の具合はどうですか?」 八戒は少し驚いたように目を開いてから、いつもの微笑を浮かべた。 「うん、すごく良いです。本当にお世話になりました」 「え、もう行かれるんですか?」 「はい。ありがとうございました」 微笑むに八戒はちらりと三蔵を見る。 「彼が、何か言いましたか?」 「いいえ、何も」 「行くあてはあるんですか?」 どこまでもを心配してくれる彼の言葉に、少しだけ胸が痛んだ。 「はい」 にっこり笑っては答えた。 生きていくくらいどうにでもなる。 「それじゃ」 八戒の脇を通り抜けて、は外へと飛び出した。 街は賑やかだった。 通りには人が溢れ、商店も露店もにぎわっている。 けれど、そこに溢れている人は見慣れない洋服を着ているし、建物も商品もには見慣れないものばかりだった。 違う世界に来てしまったのだと、考えないわけにはいかなかった。 どうしたらもとの世界に帰れるのだろう。 それより、この世界で自分は生きて行けるのだろうか。 が不安に思ってため息をつくと、ふと後ろから声がかけられた。 「ねぇ、一人?」 振り向けば年の頃は40程のひげを蓄えた男性が立っていた。 「ここらじゃ見ない顔だね?」 「ちょっと遠くから来たから」 「あ、そうなんだ。2、3日この街にいるつもり? よかったらアルバイトしない? イイバイト、あるんだけどさ?」 ひどくうさんくさい。 うさんくさいけれど。 「ホント?」 「ホントホント〜、やる? 君ならかわいいから奮発しちゃうな」 「……やる」 「マジ? ラッキィ。じゃ、早速いこうか?」 うさんくさいことはわかっていた。 それでもにはあてなんて無かったし、今のこの状況では生きていく手段は選べなかった。 「泊まるトコも用意しちゃうよ〜」 「ね、どんなコトするの?」 「ん〜、接客業? ってゆーか、ちょっとだけみんなを気持ちよくさせてあげるだけの仕事だよ。簡単さ」 つまり身売りってこと? それとも売春? どちらにせよほぼ想像通りだった。 切り刻まれて売り飛ばされないだけマシな気もする。 「ゲッ…」 考え込んでいたの前で、突然彼がカエルがつぶされたような声を出した。 不審気に見上げれば、鮮やかな赤い髪の男性が目に入る。 「ん? なんだあ、また女連れてんのかよ?」 怪訝そうに赤い髪の彼が見下ろすと、オヤジはうろたえたように後ずさる。 「そんな、滅相もございませんよ〜」 「べっぴんさんじゃねぇか、イイ趣味してんなぁ」 「お褒めに預かり光栄ですぅ…。で、では!」 の腕を掴んで慌てて逃げようとするオヤジを、彼がぐいと押し止めた。 「褒めてねぇよ」 じろっと睨むとオヤジはすくみ上がる。 二人に振り回されて少々不機嫌なは、オヤジに力加減の無いまま掴まれて痛む腕に不快そうな顔をしながら彼を見上げた。 肩からこぼれ落ちる長髪が鮮やかな美形だ。 彼はオヤジから目を離すと、を見る。 「なぁ、アンタコイツが何してんのか知ってんの?」 「……まぁ、大方」 「そんなコトしなくても生きていけると思うけど? そんなに困ってるワケ?」 「……まあ」 複雑そうな顔でが答えたその時、彼の後ろから聞き覚えのある声がした。 「ちょっと悟浄、いきなりいなくならないでください」 「ああ、ワリィ」 「あ」 思わず間の抜けた声を出したに、近くまできた八戒が気が付いた。 「ああ、こんにちは」 ニコリと笑って彼がに挨拶をすると、悟浄があからさまに不審気な顔をした。 「知り合い?」 「ええ、っていうかこの間の屋敷の」 「屋敷……って、ああ! お前なにしてんだよ?」 「何って言われても…」 「何してたんですか?」 「コイツ売りしようとしてんだぜ?」 「は?」 「ホラこいつ」 ぐいっとオヤジを八戒の方へ突き出すと、八戒がしげしげと彼を見つめる。 「確かこの方は裏通りの女性を性的に扱うお店を経営されている方でしたよね」 そうそうと大きく悟浄が頷く。 と、八戒がを見た。 「貴方が言っていた当てってこの方のことですか?」 笑顔の中に漂うそこはかとない冷気に、が口ごもる。 「え、ええと…」 「そうですか」 そういうが早いか、八戒はいきなりの腕をオヤジから奪い取り、自らの方へと引き寄せた。 「そういうことなら貴方を一人にはできません」 「え?」 八戒がびっくりしているをじろりと見下ろす。 「貴方には僕らと一緒に来ていただきます」 「……へ?」 の口からひどく間の抜けた声が漏れた。 どんより曇った空は、今にも雨が降り出しそうだ。 あの時と同じように街を一人でとぼとぼあるきながら、は空を見上げた。 まるで自分の心を移しているようだとちょっとセンチになってみたり。 むなしくなって、はうつむいた。 傷つけただろうな……。 感情のままに行動して後悔するのはいつものこと。 自己嫌悪に泣きたくなる。 どうしていつもこうなんだろう。 はあっとため息をついて、は足を止めた。 そしてのろのろとUターンする。 旅を降りようと思っていたのは本当だった。 言い出すきっかけが無かっただけで。 半ば強引に旅へと連れて行かれたときは自分は何もわかっていなかったからただ単純に嬉しかったけれど、いざ旅を始め、そしてその目的、それから大変さを身をもって知ってしまえば我が儘は言えなかった。 役にたたない女を連れて歩くことがどれだけ大変か。 全てにおいて足手まといにしかならない自分。 けれどその場所が居心地がよかったのも事実。 だからといって、とていつまでもこのままで良いとは思えなかった。 旅を降りる。 その言葉を言い出すきっかけをずっと探していた。 でも、こんな風に飛び出してくるのは何か違うんじゃ無いかと、少しだけ冷静になった頭でが思う。 本当はちゃんとお礼を言って、そしてみんなを見送りたかった。 今更だけど。 だけど、せめてお礼だけは。 そう思って、は宿屋へと足を向けた。 もう旅立って誰もいないかもしれない。 途中で気が付いた。 のことなんて、自分が思うよりも彼らにはどうでもよくて、もう西へ向かってしまった後かもしれない。 勇気がなくて、玄関へは回れずは庭の方から自分たちの居た部屋を見る。 先ほど降り出した雨のせいで外は暗いのに、部屋には電気がついていない。 きっと、旅立ってしまったんだ。 が少しだけ笑った。 「馬鹿みたい」 うつむいて笑う。 私のことなんか、誰も待っているはず無いのに。 この世界でも、もとの世界でも、必要としてくれる人がいるはず無いのに。 わかってたのに。 「馬鹿みたい」 もう一度繰り返して、が笑う。 「ふふ」 空を振り仰ぐと雨の粒が顔へ当たる。 全てがどうでも良くなって、はそのまま目を閉じた。 その耳に、カタンという小さな音が聞こえた。 窓の開いたような音。 ゆるゆるとそちらに視線を向ければ、の居た部屋の窓が開いて、そこから誰かがこちらを見ている。 「……八戒」 「なにしているんですか?」 感情の読みとれない声。 居たんだとぼんやり思ってはそちらを向く。 「お礼、言おうと思って」 にこっと笑って、が八戒を見る。 「今まで本当にお世話になったから。ありがとうって。気をつけてねって」 笑って言ったを見つめたまま微動だにしない八戒。 きっと怒ってるんだ。 身勝手な私に。 黙ったままを見ている八戒に、微笑んだままはあきらめた。 「それだけ、言いたかったの。ゴメンね」 自分で話を打ち切ると、は彼に背を向けた。 ゆっくりと宿を後にするの後ろで、突然足音が聞こえる。 そして、それはが振り向くより早く彼女を抱きしめたのだった。 「駄目ですよ」 耳元で、八戒の押し殺した声が響く。 「貴方には僕らと一緒に来てもらうって言いましたよね」 「八戒?」 「逃がしませんよ」 ぐいっと乱暴に唇を奪われる。 そしてそのまま引きずられるように部屋へと窓から連れ込まれた。 「八戒?」 不安げに目を上げれば、八戒の翡翠の瞳とぶつかる。 沈んだその瞳に、言葉を続けるのがためらわれた。 怖くて、の足が竦む。 手を掴まれたまま硬直しているを八戒が見つめる。 「何しているんですか? 早くここに来てください」 そういってベッドを示す。 「いつものように、僕の下で良い声で啼いてください」 「…八戒っ」 怯えた声が彼の怒りを煽ったようだった。 無言での手を引くと、八戒はその身体をベッドへと引き倒す。 そしてその上に馬乗りになる。 「旅を降りるなんて、許しません」 暗闇で沈んだ翡翠は感情を映さず、の心に恐怖を刻み込む。 けれど、八戒の言葉を肯定なんてできなかった。 「私、足手まといにしかなれない」 貴方達と一緒にいるなんて、そんな価値は無い。 「一緒になんて、居られないよ」 みんなのこと、好きだけど。 「誰かの物になんてなれない」 がそういった瞬間、八戒の両手がの首に絡んだ。 「だったら」 圧迫される気道と血管。 信じられない行動に、が目を見開く。 「力ずくで僕のものにするまでです」 ぎりぎりと首を絞められ、が抵抗する。 けれどそんなものは意に介さず八戒はを追いつめる。 「…んな…コトしても、……貴方のものには…なれないよ?」 どくどくと脳に血液が留まり顔が熱くなる。 八戒の力は緩まない。 「それでも」 かすむ視界で八戒が喘ぐように答えた。 「これで貴方は、他の誰のものにもならない」 血を吐くような答えに、の手がシーツへと投げ出される。 そんなに欲しいのね。 ふわりと、涙が零れるままに笑う。 なら。 全部あげる。 ゆっくりと閉じられた目。 抵抗の無くなった身体。 浮かんだ微笑に、八戒の手から力が抜けた。 「……っ」 突然解放された呼吸に、がむせる。 げほげほと、身体を丸めて酸素を飲み込むに、呆然としたように八戒が言った。 「どうして……」 の身体を押さえつけて、その胸へと顔をうずめる。 「どうして、貴方も……花喃もっ…、そうやって」 子供のようにの胸へと顔をうずめる八戒。 こんなにも自分を必要だと思ってくれる人がいる。 それがとても嬉しくて、それだけでもう何もいらないくらい幸せで。 それでも。 「貴方のものにはなれないから」 八戒の頭を抱きしめ、そして離す。 八戒の目を見て、は笑った。 「こんなものでいいなら、貴方にあげる」 ゆっくりと、彼の手を自らの首へ導く。 私にできるたったひとつのこと。 私が貴方にあげられる唯一のもの。 欲しいなら、あげる。 私の身体。 私の命。 貴方は私を必要としてくれた。 だから。 「貴方の、ものにして?」 ゆっくり笑って目を閉じた。 八戒が、戸惑っている気配。 戸惑いながらもゆるゆると力がこもっていく手。 圧迫される気道。 せき止められる血液。 涙が、意志を離れてこぼれていく。 苦しくて、でもやめてなんて欲しくなくて。 肯定を示したくては八戒へと手を伸ばす。 かすんだ視界にはぼんやりとした輪郭しか捉えられず。 手に触れたあたたかい輪郭と金属に、それが八戒の耳であることを知る。 急速に重くなっていく身体。 ぼやける視界。 落ちていく意識。 自らの命を絶つ腕の力に、彼の気持ちの強さが表されてる気がして。 ひどく幸せな気持ち。 どうしてだろう。 こんなに嬉しい。 やっと、自由になれるんだ。 遠くなる意識の向こうで、カツンと小さな音がした。 ぼんやりと開かれた視界の先に、見慣れない天井が見える。 「あれ……?」 呟きは、かすれた声でしか出なかった。 と、を覗き込んできた金の瞳。 「気が付いた!?」 「……悟空?」 「よかったぁ」 ぺしゃっとベッドの上につぶれて悟空が安堵の声を漏らす。 「…私…」 「、風邪引いて2日も気ィ失ってたんだぜ〜」 「……風邪?」 横を向いたの額から、ぬるくなった濡れタオルが落ちる。 それを拾い上げて、悟浄がもう一度氷水に浸す。 「雨ン中立ってたんだって? オレたちが外探し回ってる間」 ゆっくりと記憶が押し寄せてくる。 「……ゴメン」 「いいけどよ。悪いのはオレらだし」 ひんやりとしたタオルを再び額に乗せられて、が気持ち良さそうに目を閉じた。 「悪かったな」 ぼそりと無愛想な声。 目を開けば三蔵がこっちを見ていた。 「それはこっちのセリフ……。ゴメン、また迷惑かけて」 自分が情けなくなってくる。 「遠慮なく、置いてってくれていいから……」 「……っ、何馬鹿なこといってんだよ!?」 悟空が至近距離で怒鳴る。 「ぜってー置いてかねぇかんな! も一緒じゃなきゃヤだ!」 「そうそう、オレらにはが必要なの。今更降りるなんて言うなよな?」 「…でも」 「が誰のものになるのもならないのもの自由だ。オレたちがとやかく言う権利はねえ。そのことを気に病むな」 「足手まといにだって、なってねぇしよ。もっと自信持てよ。必要無い人間をいつまでも危険な旅につきあわせるほどオレらも心が広くねぇのよ?」 「オレたちみんなのこと好きだよ。は? はオレたちのこと、嫌い?」 「そんな……ことは、ないケド」 そこまで言って、はそこにいない一人が気になった。 「……八戒は?」 「………」 みんなが口ごもる。 その沈黙に不審なものを感じて、が視線で問う。 すると、悟空がおずおずと口を開いた。 「会いたい?」 「なんで…?」 不自然な彼らの態度に、は疑問を抱く。 するとそれに答えるように悟浄が壁に身体を預けた。 「アイツなら隣に居るケド」 「会いたいか?」 三蔵にまっすぐ問いかけられて、気が付いた。 彼らは知っているのだ。 宿屋に戻ってきたに八戒が何をしたか。 だから。 それでも。 「……会いたい。呼んで」 の言葉に、悟浄が身体を起こして隣へと行く。 そして、悟空と三蔵も席を外す。 やがて誰もいなくなった部屋に響いたノックの音。 「どうぞ」 答えると、扉が静かに開かれた。 「体調は、どうですか?」 静かに問われ、も曖昧に笑う。 「スミマセンでした」 八戒が、頭を下げた。 「感情にまかせて、ひどいことをしてしまいました。謝って許されることじゃ無いとわかっていますが、それだけ貴方に謝りたかった」 顔を上げて、八戒が笑う。 「貴方はこのまま彼らと旅をしてください。彼らは貴方を必要としています」 八戒がそっとの手を取り、そしてそれに静かに唇を触れさせた。 「が無事で良かった」 静かに立ち上がって扉へ向かう背中。 それがもう二度と振り返らない気がして、は目を見開いた。 「待って!」 言葉に振り向きもしないで扉に手をかける背中に、ふと白衣の背中が重なった。 「…っ!」 気が付いた時には、は八戒の背中にすがりついていた。 「」 困ったような声で、けれど振り向けない八戒の背中にすがりついて、は首を横に振った。 「八戒のせいじゃない。私が望んだことだよ」 非を感じるのは八戒じゃない。 死なんて、残される方が辛いことなんて、知っていたのに。 「ごめんなさい」 ひどいことをさせた。 自分のことだけ考えて、彼にひどいことをさせた。 それに彼が傷つくことなんてわかっていたのに。 大好きな人の手で逝くなんて、逝く者にとっては甘美な幸せ。そして葬る者にとっては残虐な。 「ごめんなさい」 広い背中に謝る。 裏切ってしまった彼に。 そしてその傷を抉ってしまったことを。 こんな自分が、彼らと一緒にいられるわけない。 望まれることに、罪さえ感じる。 旅から降りるとしたら、私だ。 一歩、後ろに下がる。 『バイバイ』 心の中でさよならを言って。 静かにその身を翻したその時、後ろから八戒に抱きすくめられた。 「八戒?」 「逃げるんですか?」 耳元で囁く言葉。 「連れて行くって言ったでしょう」 きつく抱きしめるその腕のぬくもりに、眩暈すら覚える。 「でも、私、また貴方達を傷つけるかもしれない」 「お互い様でしょう?」 八戒がその腕を放して真っ正面からを見た。 「僕はとならどこへでも行けます」 翡翠の瞳がを捉える。 「貴女は?」 まっすぐな、迷いのない瞳に、背中を押された。 「私はみんなと一緒にいたい」 例えそれが危険な旅路でも。 「貴方達と一緒にいたい」 言葉にしたら、踏ん切りがついた。 この人たちと一緒にいたい。 迷惑をかけても、ひどいことをされても、この人たちと一緒にいたい。 好きだから。 この人たちが、そしてこの人たちが居るその場所が。 旅から降りたくなんてない。 だから。 「降りない」 その言葉を聞いて、八戒が嬉しそうに笑った。 |