【娘の成長 4 】

そんなこんなと時間は過ぎて行き
娘は2年生になった。
相変わらず、行ったり休んだりを繰り返していた。

もちろん教室には、全く入らない。
大きな行事も参加したりしなかったり。
と言うよりは、参加できなくなってきていた。
「気持ち」だけでなく、「体調」も悪くなり始めていた。
「不眠」を訴えるようになってきていた。

夜、遅くまでインターネット(チャットも)をしていたので、
注意をしたら、「寝られんのんよ!」という返事。
「パソコンをして興奮するから、寝られんのじゃろ!」と私。
「わからんけど、寝られんのよ!
じゃけん、インターネットをしよんよ!」
私が中学生の頃は、眠くて眠くて仕方がなかったので、
その感覚で、話をしてしまった。
その頃には、ストレスから「うつ病」へなり始めていたのだ。

そして、それが形となって表れてくる。

ある日、娘が
「お母さん、リストバンド買って。」と言った。
「??リストバンド??何に使うん?」
「私が使うんよ。」と右手を出すと
手首にリストバンドがはまっていた。
「それって、最近のおしゃれなん?」と言いながら
買い物に行った時に、リストバンドを買った。
私も主人もテニスを長い間やっていたので
リストバンドはいくらでもあったので
私は、そう、気にも留めなかった。

でも、ある日、娘の部屋のゴミを捨てていて、
異変に気付いた。
血の付いたティッシュが入っていたのだ。
それも、何枚も。
これはおかしい・・・と思い、娘に
「どっか、怪我をしとるん?」と聴くと、
「別に・・・・」と返事。
「この、血の付いたティッシュはどうしたん?」と聴くと
「ちょっとね、血が出た。」と返事。
「気をつけなさいね」と言って、部屋を出た。
気になりながらも、そのままにしておいたが・・・。

2・3日後にも同じ様に、
ゴミ箱に血の付いたティッシュが入っていた。
どう考えても、おかしい!!
どこに傷が・・・・・!!
すぐに娘の腕を見た。
そう、「リストバンド」だ。
リストバンドを取って、私は心臓が止まりそうだった!!
手首に無数の傷跡があるのだ。
それも、5本6本の世界じゃない。
何十本とあった!!!!
「リストカット」をしていたのだ。
幸い、傷は、浅く細いものばかりだが、
それでも、私には十分過ぎる程の衝撃だった。

「何でこんな事を・・・・・・」
「血を見ると、安心する・・・・」
絶句した・・・・・・。
痛いだろうに、血を見ないと安心できなくなっていたのだ。
「お母さんは、あんたをこんな風に追い込むために
あんたを産んだんじゃない。
頼むけん、辞めてや。
いつか、事故が起こるとも限らんけん・・・」

私の願いも空しく、娘のリストカットは1年以上続く。

ある日、娘が本屋さんで「本を買って」と言った。
「何が欲しい?」と言って、持ってきたのが
「リストカット症候群ーシンドロームー」と言う本だった。
内容を少し読むと、リストカットをしていた女の子の
日記で作られた本だった。
私は、本の最後の方をめくった。
最後がどうなったか確かめたかったのだ。
『その子が、元気でいるのか』
でも、日記は途中で止まっていた。
リストカットが原因で、亡くなっていたからだ。
私は、娘に「駄目」と言った。
きちんと理由も言った。
「これは、亡くなった子の日記だ。
元気でいるのなら、買ってあげるけど、
お母さんは、この子の様にあんたを死なせるわけには
いかないから、買うことはできない。
これを買うことで、あんたが、リストカットに対する
考えを変えて欲しくないから。
あくまでも、リストカットは、危険と隣り合わせだと言う事を
忘れて欲しくないら・・・・・」
娘は、その時は諦めたが、
結局は、図書館で借りて読んでいた。

この頃から、病院でカウンセリングを受け始めた。

最初は、お兄ちゃんが検査に通っていた
広大病院に行こうか・・と思っていたが、
中学校の保健の先生が、
「三原にもいい先生がいる」と話を持ちかけてきた。
正直、広島に通うのは時間的にも金銭的にも大変な事もあり
とにかく、行ってみる事にした。
そこが駄目なら、広大に行けばいいと思いながら。

三原の市役所のすぐ近くで、港からも近いと言う事で、
子供一人でも十分通えるところに病院はあった。
立て替えたばかりのようで、まだ、新しい匂いがした。
カウンセリング・・といっても、普通精神科の先生ではない。
「思春期専門」の先生だ。
県下でも人数は少なく、
なかなか見つけるのは難しいのが現実だ。
会ってみると、優しそうな男の先生だった。
娘は、「とりあえず通ってみる・・」と言いながら通った。
が、それは長く続かなかった。
先生が、山陰に転勤になってしまったのだ。
そこの病院の院長に診察してもらったが、
娘は、シャットアウトしてしまった。

そして、3年生に進級する事になる。