【娘の成長 2 】

娘を転校させたのは、小学校の2年生の3学期だった。
転校してからしばらくは、新しい家に、新しい同級生、と
ものめずらしかったのか、良く、人が出入りしていた。
それも、少しずつ、時間と共に減っていった。
学校に行くのも楽しかったみたいで、
この頃は、喜んで通っていた。
本当に楽しく通っていた。

そんな娘が変わり始めたのが、3年生に進級してからだった。
わりと勉強が好きで、宿題とかもきちんとしていたのが、
宿題をあまりしなくなってきた。
その頃の私は、一番下の娘が産まれ、てんやわんやしていた頃だ。
お母さんを取られた・・・という気持ちもあったのだろうか。
おまけに、後から娘から聞いた話だが、
先生が、もの凄く嫌いだったそうだ。
女の先生だったが、とてもキツクて
よく、叩かれたそうだ。
これには、私にも責任がある。
「宿題をしない」ことで、娘は娘なりの主張をしていたのに
私は、ただの「怠け癖」と取ってしまったのだ。
先生が、家に訪ねてきて、
「宿題をしない日には、厳しくさせてもらっていいですか?」と聞くので、
「お願いいたします」と言ってしまったのだ。

何故、急に宿題をしなくなったのか、
本人に良く聴いて、原因を突き止めなくてはならなかったのに
私は、軽く考えてしまっていたのだ。
それでも、何とか学校には通っていた。
その担任は、4年生にも持ち上がり、
娘にとっては、とても息苦しい学校生活だったのだろう。

そして、5年生になり、担任が変わった。
男の担任になった。
ここで、もっと最悪の状態になっていった。
余程、先生と合わなかったのだろう。
時々、学校を休むようになり始める。
それでも、時々は学校に通っていたが、
やはり、宿題はしない。
その為に同じ班の人に迷惑がかかりはじめ
同級生にも、弾かれ始めた。

男の先生も、「厳しくバシバシさせていただきます」と言ったので、
私は、(本当はしてはいけなかったのに)了解をした。
厳しくすればするほど、娘は殻に閉じこもっていった。

そして、6年生になり、また、以前の女の先生が担任になった。
それが原因か1学期が終わらないうちに、
本格的に不登校になった。

その時に私達夫婦が取った行動は、
世間一般の親がとる行動だとは思うが
この行動が、どんどん娘を苦しみに追いやっている事に
気付くのは、かなり後になる。

どんな行動をとったかというと、
無理矢理、学校に行かせようとしたのだ。
泣き泣き「嫌だ」と言う娘を着替えさせて、
引きずってでも行かせた。
特に主人は、怒ると酷く、
叩いて、叩いて、「何としてでも学校に行かせろ!」
「学校に行かんヤツは、飯を食わすな!」と言った。
女の子だったせいか、暴力で反抗はしなかったものの
本当に、毎日のように繰り返す修羅場だった。
本人にとっては、本当に地獄だっただろう。

結局は、どうやってもこうやっても行かなかった。
担任の先生は、「気分でも変えたら?」と、
因島市内の小中学校の不登校児を集め、
野外活動をしていた、「青空学級」を薦めた。
娘に話すと、「行ってみる」というので、
時間があるかぎり、行かせた。

それと同時に、福山市にある児童相談所にも
相談を持ちかけた。
「学校に行きたくない子供に、『行きなさい』は禁句だ」というのも
ここに来て、理解をすることになる。

・・・じきに中学生。
学校に行ってないが為に、授業について行けない。
中学校になったら、もっと、大変になる・・・。
中学校でこけたら、高校はどうなるの・・・・・!

・・・完全に親の意見だけだ。
娘の気持ちなんか、考えてないのだ。

田舎であるが為に、十分な施設もなく
対応もできない・・・・・
ただ、閉じこもらないようにする為に
少しでも外に連れて行くのが、精一杯だった。
この中でも、3歳の時から続いていた
モダンバレエは、いい外出だった。
学校に関係ない友達がいるのだ。
小さい時から一緒にレッスンしていたから
気心がしれているので、休まずに通った。

そして、小学校の卒業が近づいて、
娘にとって、ショックな事を知ることになる。

同級生で唯一、お友達のSちゃんが、
県外の私立中学に行く事になったのだ。
娘にとって、最後の頼みの綱だった友達がいなくなる・・・
もの凄い、ショックだったのだろう。
「私も同じ中学に行きたい!」と言い出した。
私達は「駄目」と言った。
Sちゃんみたいに目標があって、行くのではないからだ。
高校でも、親元を離れて下宿をしながら学校に行くのは
並大抵の事ではない。
それを、中学で、ましてや、友達が行くから・・・では
行かせる事はできなかった。
おまけに、金銭的余裕もなかった。

説得して、諦めさせた。

そして、中学に進級した。