1.殉教と将軍たちの近視眼 ウリ・アヴネリ
500人の胡麻塩髭のハマス・メンバーが私の前に坐っていた。尊敬すべき指導者や若者たち。傍らの座席は女たちが占めていた。私は舞台の上で、上着の折り返しにイスラエルとパレスチナの旗を交差させてつけ、ヘブライ語でスピーチをした。
これは1992年末のことである。当時就任したばかりのイツハク・ラビン首相は、415人のイスラム教活動家―ほとんどがハマス―をレバノンへ追放した(訳注:オスロ合意につながっていったマドリッド和平交渉に反対したハマスがイスラエルをゲリラ攻撃、その懲罰として活動家が追放された。しかし1年後、最高裁判所が「追放無効」の裁定を下した)。私たちはエルサレムの首相官邸の前で45日間、テントを張って抗議した。「私たち」というのは、イスラエル人平和運動家(後に反戦団体「グーシュ・シャローム」を形成)とイスラエルのアラブ系市民―その多くはイスラム運動のメンバー―であった。大変寒く、テントが雪に覆われることもあった。しかしテントの中は、熱っぽい議論で活気に満ちていた。議論の中でユダヤ人がイスラムについて学習し、ムスリムがユダヤ教について学習した。
追放の身の活動家たちは、イスラエル軍とレバノン軍に挟まれて、国境の山岳地帯で1年間、無為に暮らした。世界中が彼らの苦しみを見守っていた。1年後、彼らは帰還を許され、ガザのハマス指導者たちが彼らをねぎらう集会を、町で一番大きな公会堂で開いたのだった。私も招かれ、スピーチを要請された。私は平和について語った。休憩時間に私たちイスラエル人は食事に招かれた。集会にいた何百人ものパレスチナ人たちの友好的な態度に随分感動したことを、今も覚えている。
当時アハメド・ヤッシン師と、追放者たちのスポークスマンであったドクター・アブダル・アジズ・アル・ランティッシ(先週、彼がヤッシン師の後継者となった)はイスラエルの牢獄にいたので、集会には参加できなかった。
私がこのことを書くのは、ハマスが和平と妥協を頑強に拒む度し難い敵だという一般のイメージが、必ずしも正確ではないことを伝えたいからだ。もちろんあの集会以来、流血の自爆攻撃とターゲット暗殺が交互する10年間が過ぎた。しかし、ハマス=自爆テロという単純な図式以上にことは複雑であることぐらいは、知っていた方がよい。
ハマスにはさまざまな顔がある。イデオロギー的ハード・コアは、たしかにイスラエルとの和平や妥協を一切拒否する。彼らは、外国勢力がイスラエルを、イスラム教義では「ワクフ」(宗教的寄贈物)とされるパレスチナに植え付けたと見る。しかし、ハマス支持者の多くはハマスのイデオロギーに心酔しているわけでなく、現実的な目標を実現するためにイスラエルと戦う手段と見ている。
ヤッシン師自身、数ヵ月前、ドイツの新聞で、もし1967年の国境内にパレスチナ独立国家が誕生すれば戦闘をやめる、と発表した。今後30年間の「フドナ」(休戦)を提案したではないか(このことは、ガザを放棄するが西岸地区の大部分を暫定措置として20年間保持するとしたシャロンの言葉を思い出させる)。
だから、ヤッシン師殺害には何らプラス面はないのだ。全くの愚行としか言いようがない。
アラブの復習心を増幅させる愚行
現在のイスラエルを牛耳る3人の将軍―シャロン首相、シャウル・モファズ国防相、モシ・ヤアロン参謀総長―は、ヤッシン師殺害の結果、「短期的には」イスラエル市民へのテロが増加するであろうが、「長期的には」テロ撲滅に大いに貢献する、と言う。用心深く、いつ「短期」が終わり、いつ「長期」が始まるのか、には触れていない。
私はこの将軍たちに言いたい。「阿呆か!」と。短期的にはイスラエル民衆は身辺の危険に神経をすり減らし、長期的には国家そのものが危険な状態となる、と言うべきだ。パレスチナばかりでなくアラブ全土の何百万人もの子どもたちの心に怒りと復讐の思いを植え付け、アラブ諸国が手出しできないことへの不満と屈辱に身を震わせている。これらの子どもたちは未来の自爆攻撃者となり、アラブ世界を揺るがせている過激なイスラム原理主義運動への候補者となるのだ(私にはそれがよく分かる。私も15歳のとき、英国統治下の同じような状況の中、地下武装テロ組織に入ったことがあるからだ)。
殉教ほど地下武装組織にとって強力な武器はない。1942年、テルアビブで英国警察に殺害されたアヴラアム・ステルン(別名ヤアイル)のことを思い出せばよい。彼の血からレヒ地下武装組織(別名「ステルン・ギャング」)が生まれ、多くの流血事件を起こした。
しかし、ヤアイルとヤッシン師とではくらべものににならない。ヤッシン師は、聖なる殉教者になるために生まれてきたような人物だ。麻痺した身体を車椅子に乗せ、肉体は壊れても精神は揚々とした宗教指導者、何年も牢獄で過ごした戦士、以前にも暗殺されそうになったが、それをものともせずに戦い続けた指導者、そういう人物が、礼拝を終えてモスクから出てきたところを卑劣にも空からの凶弾に倒れたのだ。これほど英雄像として完璧なものがあろうか。天才的な作家でも、何十億人ものムスリムの崇拝の的となれる英雄を創作することはできまい。
ヤッシン師暗殺を契機に、パレスチナの武装組織各派の協力と団結が高まるだろう。ここでも私たちヘブライの地下組織との類似点が見出せる。対英闘争のある時点で、シオニスト本部の準公的地下軍事組織であったハガナ(パレスチナのファタハに例えられる)の隊員の間に不穏な空気があった。当時、ハガナ(その中にはエリートのパルマフ隊も入っていた)は動きがないと批判されていた。一方、イルグンやレヒは大胆で過激な行動を敢行し、英雄視されていた。ハガナ内部は揉めに揉め、各組織間の統一行動を呼びかける「戦う民族」というグループが現れた。ハガナを出てレヒへ入った隊員もかなりいた。
同じことが今、パレスチナで起こっているのではないか。各党派間の境界線は次第にぼやけてきている。アル・アクサ殉教者旅団のメンバーが、指導部の命令に逆らって、ハマスやジハードと協調して動いている。彼らは、「殺されるときはいっしょなんだから、戦うときもいっしょにやろう」と言っている。この現象は今後ますます進行し、それだけ攻撃が効果的になるだろう。
長期的発想欠くシャロンたち
ハマスの人気は、その攻撃実行力と並行して、ますます高まっている。しかしそのことは、パレスチナ民衆がイスラム教国家を目的として受け入れたことを意味するものでもなければ、イスラエルと並存してパレスチナ国家を樹立することを諦めたわけでもない。ハマスの中でも、イスラエル・パレスチナ2国並存に賛成している者は多くいる。パレスチナ民衆がハマスの攻撃や行動を賛美するのは、イスラエルが力の論理しか理解しないことの反映であろう。人々は、過激な暴力なしでは何一つ実現できないことを、経験から学んでいるからであろう。
残念ながら、逆の真理を証明するものは何もない。暴力に訴えずしてかち取ったものは何一つないというのが、悲しむべき事実である。この意味で、ヤッシン師暗殺の後、善意のパレスチナ人知識人や役人などを中心に、暴力闘争を自粛しようという呼びかけが行われたが、たぶん何ら効果はないだろう。彼らの訴えには、民衆を説得できる有効な非暴力的方法の提示がない。それに、私たちのイスラエル政府は、そういう呼びかけを、単に弱さの表れとしか見ない。
もっともっと長期的に見ると、ヤッシン師暗殺は存在論的危機を引き起こす可能性がある。イスラエル・パレスチナ紛争はもう5世代にわたって繰り返されてきたが、それは基本的には民族紛争―2つのナショナリズム運動の衝突、それぞれが1つの領土を自分のものだと主張して対立する紛争だった。民族紛争というものは基本的に合理に沿うもので、妥協による解決が可能である。困難ではあるが、可能である。ところが、民族対立が宗教対立に移行するとき、悪夢が始まる。宗教は絶対真理を主張するから、宗教紛争には妥協がないのである。
ヤッシン師の殉教のため、イスラエルが平和と静けさ、近隣諸国との普通の関係、経済の活性化を達成するチャンスは、はるか遠くへと遠のいてしまった。アラブ人やムスリムの未来の世代は、イスラエルを力ずくで中東へ植え付けられた外国と見、モロッコからインドネシアまで広がるムスリム世界の人々は、植え付けられたイスラエルを根ごと引き抜くことが神より課せられた聖なる義務と見なすであろう。
こういう長期的発想は3人の将軍の貧困な想像力ではできない。シャロン、モファズ、ヤアロンと彼らの取り巻き連中は、狭いナショナリズムのための露骨な力の行使しか理解できない。平和で心が踊ることもないし、妥協というのは汚らしい言葉でしかない。パレスチナの人々が、ヤセル・アラファトのように妥協する度量のある人物でなく、狂信的な宗教戦士によって指導された方が、3人の将軍にとってありがたいことは、はっきりしている。
2.存在論的争いへの逆戻り
ガッサン・ハティーブ(パレスチナ自治政府労働大臣)
パレスチナ人活動家や指導者殺害政策は、自爆攻撃挑発への反撃と称して、次第にエスカレート、パレスチナ指導層の頂点へと向けられるようになった。これは、長年のパレスチナ・イスラエル紛争の性格と流れに、大きな転換をもたらすことになるだろう。アハマド・ヤッシン師殺害を単なる暴力連鎖の一部と見るのは、単純にすぎるだろう。イスラエルの殺害ターゲットの上昇現象の底にある戦略を見なければならない。そのためには、和平交渉中断以来、変貌したのはイスラエルの方だけであるという事実に注目すべきだ。
現イスラエル政府が、この紛争の性格を変形させたのだ。それ以前には、パレスチナ人もイスラエル人も、紛争解決のガイドライン―2国並存解決―に大なり小なり同意していた。もちろん、両者の間の違いは決して小さいものでなかった。しかし、それを討議によって調整してゆく手筈もあった。2000年のキャンプ・デーヴィッド会談では、2国並存実現の手順や、イスラエル軍の西岸地区・ガザ回廊からの撤退の規模や、両国間の国境線問題や、入植地解体問題、難民問題、エルサレム分割問題などで意見が合わず、協定が先送りになっているのだ。
ところが、イスラエルで政権革命が起きた。和平推進派は政権から追い出され、反対勢力が政権についた。反対勢力は、パレスチナ人民の抵抗運動を悪利用して、紛争の性格を、2国並存を模索する論争から、存在のための戦いに変えてしまった。パレスチナ暫定自治政府領を再占領し、暫定自治政府そのものを弱体化させ、パレスチナ国家建設の可能性を潰そうと、全エネルギーを傾注している。
以前、つまり和平の前、まだ両者に妥協する気がなくて、お互いに相手を葬り去ろうとしていた頃にも、イスラエルはパレスチナ指導者殺害政策を実行していた。1960年代と1970年代に、PLO指導者が多数殺された。しかしそれは、結果としてパレスチナ人の闘争続行意欲をさらに高め、対立がより激化しただけであった。イスラエルは、その教訓を学び取らなかったようだ。同じことが現在の殺害政策にも言えるのだ。殺せば殺すほど、暴力連鎖を拡大するだけなのだ。
判断を間違えないでほしい。パレスチナの政治情勢や各派の願いや野心を知っているイスラエル人は、指導者殺害政策がパレスチナ社会の権力バランスにどんな影響をもたらすかも知っているはずだ。世俗派和平陣営であるパレスチナ自治政府を弱めるのが目的であるならば、そして暴力連鎖の渦に世界を沈めたいのであれば、その政策は当たっていると言わざるを得ない。
3.破産 ヨッシ・アルフェル(バラク首相時首相上級顧問)
アハマド・ヤッシン師暗殺から1週間、殺害を正当とする議論や戦略知恵を欠く愚行だとする議論が喧しい。しかしどんな議論にしろ、この殺害に表れている基本的事実を曖昧にしてはならない。即ち、現イスラエル政権担当者たちには、和平への実際的戦略もなければ、暴力連鎖を終わらせる戦略もないということ。
このターゲット・キリング(殺害目標を追跡して殺す作戦。イスラエル軍と米軍が現在採用している)を正当化する理屈を並べてみよう。
ヤッシン師はテロリストのリーダーで、米の9・11事件以降、テロ指導者殺害には世界的に何らためらいも制限もない雰囲気になっている。イスラエル世論も、いつもテロの恐怖に脅えているので、これを支持している。そもそもイスラエルはガザ撤退計画を表明、当然ガザ発のテロもなくなると期待されたのに、ハマスは、ヒズボラの支持を得て、アシュドドでテロ行為をやったのだから、彼らに力のメッセージを送るのは当然である。それは、穏健派パレスチナ人にとっても有利になるはずで、撤退計画にとっても重大な障害物を取り除くという意味でも、必要なことだった。たしかに、麻痺した体を車椅子に横たえた宗教指導者を礼拝から出てきたところを殺したというのは、非情で残酷なイメージだが、ヤッシン師に追従するテロリスト指導者たちには大きな抑止力となるはずだ。あのサダム・フセインが捕らえられ、惨めな姿を晒したのが、リビアの指導者ムァンマール・カダフィに与えた影響がよい例だ。また、前回のイスラエルのターゲット・キリング作戦がハマスを追い詰め、「フドナ」(休戦)を提案させたこともよい例だ。また、ヤッシン師殺害には別な政治的意味―低級だが、現実政治上の意味がある。これによって、シャロン首相は、自党内の軍撤退に反対する過激派を沈黙させ、また自分の汚職疑惑に関する刑事訴追を前にして、自分の「取り替え不可能」な絶対的地位を誇示したのだ。また、国際的な意味もある。スペインが、マドリッドのテロの後、イラク撤退を掲げるサパテロを次期首相に選んだことが、ヤッシン師の運命を決めたというのだ。つまり、スペインの発したテロへの譲歩イメージを覆す強力な対テロメッセージが必要だった。
平和をかち取るための戦略が欠如
こういう議論、及びその他の議論がヤッシン師暗殺を正当化するために動員されているが、それが、愚かとまでは言わないとしても、無意味な行為であったことには変わりがない。1人の指導者を殺し、他の指導者を地下に潜らせたことでハマスの攻勢を弱らせたかもしれないが、ハマスにテロを放棄させたわけではない。それどころか、ハマス指導者ばかりか、一般イスラム教信者を刺激し、イスラエル人、今度は政治家や宗教指導者までを含めたイスラエル人殺害への動機を高めたことになった。
過激派を恐れている穏健派パレスチナ人は、心の内ではヤッシン師がいなくなったことを喜んでいるかもしれないが、しかし殺害行為には当惑し、むしろ怒っているだろう。特にヨルダンのアブドゥッラ国王がそうで、彼は暗殺の2日前にシャロンと会談したばかりで、アラブ世界で微妙な立場に陥ってしまった。2年前にサウジアラビアが提案した和平案を強化するために3月末に予定していたチュニスのアラブ首脳会議も、体面を失った穏健派が出席しにくくなった。それよりももっと心配なのは、ヤッシン師殉教によって、アラブ人民衆が、イスラエルを越えた世界各地で、もっと激しい宗教的過激主義や反米闘争に走ることだ。
この暗殺、およびその他のターゲット・キリング政策全体の差引勘定をすれば、決算はイスラエルばかりでなく、関係社会全体にとって破産である。イスラエル人もパレスチナ人も、目先の暴力だけに反応している。これでは、もし実現するなら2005年夏の予定のガザ完全撤退も怪しいもので、ましてこれまで間違ったことばかり(例えば西岸地区への固執)してきて自ら半身不随に陥った首相が口にした約束だから、信じることはできない。パレスチナの抵抗が始まって以来IDF(イスラエル国防軍)が発した数限りない空ろなスローガン、「IDFに勝利を」、「奴等の頭に敗北を叩き込め」、「ハマスは戦略的敵だ」(じゃあ、前は戦術的敵だったのか?)など、これらはすべて、暴力を終わらせ、平和をかち取るための戦略が欠如していることを表明するものだ。
この点は、ハマスを含むアラファト指導部も同じだ。そもそも、彼らが現在の暴力連鎖の端緒を開き、そのためにイスラエル以上に大きな犠牲をこうむったのに、何ら教訓を学び取っていないのだ。まだシャロンの方は、口先だけかもしれないが、撤退を表明したのだ。米のブッシュ大統領も、中東地域「自由と民主主義」計画を打ち出したものの、それが引き起こしている大惨事には無頓着のようだ。せめてシャロンに、和平への現実的な戦略の1つでもあれば、こんな暗殺や殺害が不必要になるのに!
4.ヤッシン師と死の陣営 エヤド・エル・サッラージ
(ガザ・コミュニティ精神衛生研究所長)
誰かを殺しに来るときは、いつもイスラエルのスパイ無線操縦機が、不気味な音を響かせてパレスチナの空を飛ぶ。そんなときは、決まって衛星テレビの受信ができなくなる。その夜もそうで、私は気がかりでなかなか寝付けなかった。夜明けの5時20分、F16戦闘機の低空飛行の轟音で目が覚めた。イスラエルがターゲット・キリングの目標に近づいたことを表す徴候だ。5分後、遠くで爆発音。唯一のニュース源であるパレスチナ・テレビ局が、ハマスの精神的指導者アハマド・ヤッシン師暗殺を報道した。
すぐにIDFはガザを封鎖した。西岸地区と同じように、完全密封された牢獄となった。街角のあちらこちらでタイヤが燃やされ、その煙で空が真っ黒になった。ヤッシン師の葬列が墓地へ向かう周囲の通りは、何万人という人々が復讐を叫んで、泣き、喚き、怒りに震えていた。こんなガザは初めてだった。男も女も、事態がどうなるのか、不安で身を震わせていた。
ヤッシン師殺害は、予期されないことではなかった。つい先日、イスラエル当局が、武装グループはもちろん、誰もみんながIDFのターゲットになると宣言したばかりだった。首相のシャロンがアシュドドの自爆攻撃に激怒したのだろう。アシュドドでイスラエル市民が殺されたからと言うよりは、悪名高い分離壁やその他の厳戒治安体制をあざ笑うかのようにイスラエルへ侵入されたことに怒ったのだろう。この3年間続いてきた復讐の応酬が、また繰り返されたのだ。政治家や評論家は、シャロンが発狂して、全世界とまでは言わないが、中東地域全体をカオスに放り込んだと言っている。しかし私は、シャロンが気が狂って仕返しをしたとは思わない。彼には計画があり、その計画に沿って動いているのだと思う。
シャロンは、時計の針をオスロ合意前の状態へ戻すのに成功した。自治政府を形無しの状態へ破壊するのに成功した。彼にとって、和平は、西岸地区の領土を放棄することを含むから、イスラエルにとって致命的に危険なものなのだ。彼は、2国並存という「極左」どもの夢物語を潰す決意だ。そのためには、いくらでもユダヤ人の生命を犠牲にすることを厭わない。国際法違反なんて気にもかけないし、パレスチナ人が何人死のうとどうってことない。ヤッシン師は単にそのうちの1人にすぎず、今後もっと多く殺す必要がある。
ハマスの影響力高めたヤッシン師殺害
ヤッシン師殺害は、自治政府解体というシャロンの入念に練った計画の最後の仕上げ、いわば自治政府用棺桶を仕上げる最後の釘打ちと言ってよいだろう。彼は自治政府破壊ばかりでなく、将来和平交渉のパートナーになる可能性がある組織や個人―ハマスも含めて―すべてを潰すつもりなのだ。
興味深いのは、ヤッシン師は1度、紛争終結を受け入れたことがある。それにはイスラエルと並存してパレスチナ国を作ることに賛成することも含まれていた。つまり、歴史的なパレスチナの地にイスラム教国を作るという夢を放棄したのだった。彼の最大目的は、イスラエルの占領を終わらせることだったのだ。ハマスやその他の武装抵抗組織はすべてイスラエルの占領から生まれたことを、忘れてはならない。
昨夏、ヤッシン師の指示でハマスが一方的休戦に入り、それがほぼ2ヵ月間続いたことがあった。それほど彼は尊敬されていたのだ。彼は殺害されたことによって、聖者の地位にまで高められ、殉教の格好のモデルとなった。ヤッシン師殉職のため、ハマスは確実にパレスチナ社会で影響力を高めた。アラファトが屈辱と無力のシンボルとなったのとは対照的に、ハマスはパレスチナ社会でのリーダーシップを強めていった。これは、パレスチナ自治政府のリーダーシップ欠如と米国の激励に助けられて、シャロンが招いたものである。
イスラエルは、朝の礼拝を済ませてモスクを出た車椅子の聖職者を殺害したのだ。これでイスラエルの安全がなくなったと言えるだろう。一時的にシャロンの政治家としての地位が安定するかもしれないが、このような暴力政策を続ければ続けるほど、パレスチナでハマスの人気が高まり、ますます戦闘的となり、イスラエル人はますますテロの影に脅える日々を過ごすこととなる。悲しいかな、こういうテロの論理がシャロンを助け、ブッシュ株式会社を助けてきたのだ。シャロンは国内の政敵を抑えるために、パレスチナ人の抵抗が必要なのだ。
しかし、もし真実が明らかになり、もし新ハマス指導層が路線を大転換するようなことになれば、シャロンの目論見はすべてご破算となる。ハマスのガザ地区の新指導者アブデル・アジズ・ランティシが将来、テレビを通じて、これ以上死体を増やし合うやり方をやめ、和平の道を歩もう、報復合戦をやめようと、イスラエル人に呼びかけることは、まったく可能性がないわけではない。
ヤッシン師殺害で喜ぶのは、死の陣営だけである。しかし、いつまでも続きはしない。歴史が示すように、最後には生の陣営が勝利する。
5.ターゲット・キリング
― レトロ・ファッション ヨッシ・メルマン
(『ハアレツ』記者。諜報・秘密外交などに関する著作活動にも従事)
暗殺―イスラエルでは「ターゲット・キリング」と呼ばれる―は、イスラエルの諜報機関世界では新しいものではない。少なくとも1970年代までの長い間、それは最後の手段、稀に使ってもよいが賢明に使うべき手段として、正規の政策の一つだった。この用心深さには2、3の理由がある。第一に、諜報機関の人間は、諜報機関はマフィアのような殺人会社ではないと考えていたこと。そしてターゲット・キリングは諸刃の剣で、こちらがやればあちらもやり返す性質だからである。
イスラエル諜報機関が最初に行った暗殺は、1956年7月11日、ガザ回廊のエジプト軍情報将校で、パレスチナ人を組織してフェダイーンを結成、イスラエルに潜入させた責任者ムスターファ・ハフェズ殺害であった。これは、書籍小包に爆弾を仕掛けたやり方であった。この郵便爆弾は、その後1960年代、特にエジプト軍の武器開発に協力するドイツ人科学者(元ナチ党員と言われた)を標的に利用された。6日間戦争後は、イスラエル領内外におけるパレスチナ・ゲリラの活動に対処する戦いの中で、暗殺は主役に近い役割を担うまでになった。
しかし分水嶺になったのは、1972年のPLOの一派「黒い9月」によるミュンヘン・オリンピック選手村襲撃で、イスラエル選手11人が殺された事件であろう。当時の首相ゴルダ・メイルがモサドの長ツヴィ・ザミールに、オリンピック村襲撃に直接または間接的に関与したと思われる者全員をターゲットにして殺せ、という命令を出した。これは、イスラエル史上初めての「プロジェクト」だった―重要人物1人をこっそり、誰がやったか分からないように暗殺するのでなく、多数の人間を組織的に抹消する作戦が成立したのであった。これがセット・インされて、今日まで続いているのである。
まず諜報機関がターゲットのリストを作成(リストは「銀行」と呼ばれている)し、「X委員会」と呼ばれる特別に限定された委員会へ提出。X委員会がリスト上の人物の抹消をモサドに許可する権限を持っている。X委員会は、司法長官の意見を求める。司法長官は、リスト上の人物に死刑判決を下す1人裁判所の役割を果たす。また、オリンピック村襲撃に対抗するターゲット・キリングは、復讐のためになされたものとして、やはりイスラエル史上初めてのことだった。テロの「抑止」とか「事前防止」などと格好良い言葉が使われたが、イスラエル選手殺害に対する報復であることは明らかであった。
暗黙の了解ーターゲット・キリングは賢明に
このターゲット・キリングと呼ばれる組織的暗殺は、1973年、ノルウェーのリリハンメルで、モサド隊員が「黒い9月」の首謀者とされるアリ・ハッサン・サラメヘを殺そうとして、間違ってモロッコ人作家アハメド・ブーシキを撃ち殺してしまうという大失策を犯して、見直しが迫られた。ターゲット・キリングは行う価値があるのか?
もしあるとするなら、どういう人物をターゲットにすべきか? 結局明確な結論は出なかったが、暗黙の了解として、ターゲット・キリングをしてもよいが、それは非常に限られた状況のもとでのみ、注意深く、賢明に行わなければならない、という公式めいたものが成立した。
ターゲットにするのは上級作戦指揮官で、その人物の死がその組織の作戦遂行能力を著しく損なう場合に限るのが望ましい、とされた。さらに、イスラエルがそのテロ行為の責任者だと正式に明らかにならないように配慮、また、ノルウェーの時のように、あるいは1997年にヨルダン領内でハマス指導者ハレド・マシャアルを暗殺しようとしたモサド隊員がヨルダン警察に逮捕されたときのように、外国との関係を悪化させない配慮のため、ターゲット・キリングの責任を国家として正式には認めない、とした。
小組織の指導者、いわば「ワンマンショー」をやっている人物の殺害も望ましいと、諜報機関関係者は考えた。1995年10月、イスラム・ジハードの指導者ファトヒ・シカギ殺害は、彼が死ねば彼の小組織の能力が消滅するだろうという計算のもとで行われた。後継者にアブドゥッラハ・ラマダン・シャラハという人物がいたが、彼には指導能力がないと考えたのだった。ところがそれが間違いで、シャラハは有能な指導力を発揮、ガザ地区のイスラム・ジハードは最近最悪の自爆テロを行っている。
ターゲット・キリングが手軽な手段に
諜報機関と政治家の間で交わされる議論で一番重要な要素はターゲット・キリングの費用便益比率である。もしこちらの暗殺が相手側からの激しい仕返しテロ行為を招くようであれば、その暗殺計画はマイナスと考えられる。1992年、南レバノンでヒズボラのアッバス・ムーサウィ長官をターゲット・キリングしたときは、費用便益比率計算を忘れていたか、間違った計算をしたのだろう。ヒズボラの報復はきつかった。ブエノスアイレスのイスラエル大使館とユダヤ人コミュニティ組織へ2台の車爆弾攻撃を敢行、100人以上の人が死んだ。
今だから分かることだが、1988年、アラファトの代理を務めたハリル・アル・ワジール(別名アブ・ジハド)殺害は間違いだったと、諜報機関関係者は思っている。彼が死んだため、PLO指導部トップはアラファト1人となり、有能でプラグマティックな相談相手がいなくなった。いつでも、例え暗殺合戦がたけなわのときでも、「国家」トップを暗殺しないという暗黙の了解みたいなものが、両者にあった。もちろん、時々例外は発生した。1960年代、スカンジナビア訪問中のベングリオン首相をPFLPが狙った事件とか、1960年代後半と1982年に計画されたが、実行できなかったアラファト殺害計画。
すでに1998年に、マシャアル暗殺失敗の後、その事件を調査した議会の「諜報と治安活動に関する小委員会」は、前例にない激しさで批判的声明を出した。そこでは、「過去長年にわたるテロ組織との戦争において、イスラエル政府がとってきた政策は基本的論理思考と連続性に基づいておらず…」とあった。
ここ3年間のターゲット・キリング、とりわけヤッシン師殺害という愚かな決定は、基本的前提や過去の失敗からの教訓を反映していない。まったく忘れたか、敢えて無視しているとしか思えない。ターゲット・キリングを、最後の手段から最も手軽に使用できる武器に変えてしまっている。先の先まで読んだ賢明で用心深い使用から、広範で日常的な使用に変わってしまっている。この変化のため、暗殺の心理的効果も減じてしまった。かつて謎につつまれた暗殺は、その稀有性と複雑性ゆえに、敵の心に恐怖を植え付けた。しかし、それが日常的出来事となると、神秘的効果が失せる。IDFと情報機関と治安部隊は、せっかく長い長い道のりを歩いてきたのに、思考麻痺状態へと進んでいるのだ。
6.ヤッシン師とハマス ダニー・ルビンスタイン(『ハアレツ』紙コラムニスト)
私は、先週イスラエルに殺されたハマスの創始者アハメド・ヤッシン教主に会ったことがある。ガザにある彼の家は質素なもので、PA(パレスチナ暫定自治政府)のファタハ幹部の立派な邸宅とは対照的であった。贅沢な自家用車もなければ、豪奢なオフィスも、ブランドのスーツもない。民衆から慕われる所以である。
車椅子のヤッシン師は、イスラエルの存在を認めないと、はっきり私に言った。但し、もしイスラエルが1967年の「グリーンライン」まで撤退するなら休戦を受け入れるとも言った。彼の声は甲高かったが、落ち着いて明快に喋った。周囲には四六時中彼の世話をする成人した子どもがいた。
ヤッシン師の後継者選出でハマスは苦労し、内部の権力闘争が起きるのではないかと、私は思う(すでにアブダル・アル・ランティッシ後継者となっている―訳者)。彼はイスラエル市民に対する自爆攻撃を支持し、扇動した、イスラエルにとって最大の敵であったが、ハマスの政治的、軍事的、イデオロギー的なあらゆる活動に関わっていた。
ハマスは今日、パレスチナ社会の主要な反対派勢力である。パレスチナ全土をムスリムだけの聖なる土地と見なし、イスラエルがユダヤ人国家としてそこに存在する権利を認めずイスラエルに対する武装闘争を唱え、実行している。しかしその歴史はたかだか15年にすぎない。
1988年にハマスが創設されるまで、対イスラエル闘争は、左派マルクス主義思想をもった世俗派や民族主義派が担っていた。1950年代以降アラブの「革命政権」はソ連からの支援を求めていたが、同様にPLO主導のパレスチナ解放闘争もソ連やその同盟国から武器や政治的支持を得ていた。1970年代、左翼で民族主義的なPLOは、イスラエルとイスラム宗教運動にとって共通の敵であった。ヤッシン師もそういう宗教運動の一員であった。1948年、戦争で難民となったアラブ人一家の子どもで、10代のときスポーツ事故で障害者となり、カイロで宗教学を学び、ガザに戻ってイスラム運動に参加した。
占領との闘争と福祉活動で支持拡大
1970年代初期、私は新米ジャーナリストとして、イスラエルの首相代理イーガル・アロンに同行して、ヘブロンでのイスラム教学校の贈呈式に参加したことがある。これはイスラエル軍が建設してイスラム教徒に与え、7年間以上資金提供した宗教学校である。この学校の卒業生の多くが、イスラエルにとって最も危険な敵となったのである。以来、多くの人がイスラム宗教運動に存在理由を与えたとして、イスラエルを非難している。これは、ソ連支配下のアフガニスタンで米がムジャヘディーンを支持して、そのムジャヘディーンが反米闘争をやったのと同じ現象である。
初期の時代、ハマスは2つの旗印を掲げた。「堕落西洋文化との闘争」と「イスラエルの占領との闘争」である。前者の中には乱交、飲酒、ポルノ、ギャンブル、ベリーダンスなどがある。
ハマスはまた、学校、保育所、低所得者用診療所など、福祉活動のネットワークを作り上げている。これはPAの堕落ぶりを際立たせたばかりでなく、ハマスへのパレスチナ住民の支持をも拡大させた。
ヤッシン師は、ハマス創設以前にすでにイスラエル軍によって投獄された経験がある。1989年、イスラエル兵を誘拐し殺害する計画を立てた嫌疑で再び投獄された。そのときは8年間の獄中生活だったが、運動とは絶えず連絡をとっていた。この時期に、ハマスが現在の勢力を築きあげたのである。和平プロセスを拒否するパレスチナ人をひきつけ、彼らを組織するのに成功、さらにPAやイスラエル政府の数々の計算違いに助けられて勢力を強化した。
1992年、和平プロセスを正式に軌道に乗せようとしたマドリッド会議の後、ハマス民兵は幾つかのテロ攻撃を仕掛けた。当時の首相ラビンは、400名のハマス民兵をレバノンへ追放した。1年後、最高裁はこの決定を無効とし、ハマス・メンバーの帰還を命じた。西岸地区やガザへ戻ったこれらの民兵が中核となって、1993年のオスロ合意の強力な反対運動を展開したのである。アラファトはPAを作ったものの、非妥協的な内部の反対者と直面せざるを得なくなった。
1977年、ネタニヤフ政権は、現在ヤッシン師の後継者の1人と目されているハレド・マシャアルをヨルダンで暗殺する命令をモサドに下した。ところが、モサドの工作員はヨルダン警察に捕まった。フセイン国王は、イスラエルとの和平協定を結んだ直後にこのような領土侵犯が犯されたことに激怒した。結局、解決策として、モサド隊員とイスラエルの牢獄にいるもっとも有名なパレスチナ人との交換ということになった。そのもっとも有名なパレスチナ人が、アハメド・ヤッシン師であった。当時師は61歳、アンマンで国王から歓待を受け、その後ガザへと戻ったのであった。
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