「失敗した革命」から学ぶべきもの

       ――『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』(明石書店刊)を書いて― 脇田 憲一

 5年がかりで『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』(明石書店刊)を書き終えた。400字詰め原稿用紙1500枚、850頁、定価5040円(税込)という部厚くて高価の本になってしまった。内容は50年前の朝鮮戦争において日本で朝鮮人と日本人が連帯し、実力で反戦闘争を展開した吹田・枚方事件と、和歌山・奈良の山村工作隊の実態を描いている。枚方事件と奈良の山村工作隊は当事者であった私の体験を中心に、当事者ではなかった吹田事件と和歌山の山村工作隊は関係者からの聞き取りや資料を構成して事実関係を検証し、史的総括を試みた。
 大きなテーマとしては、「失敗した革命」から何を学ぶかということになろうか。つまり、これらの事件や活動は、朝鮮半島における分断された南北の統一、朝鮮民族の独立・解放闘争という性格をもち、日本においては米軍の朝鮮戦争への介入を支える軍事基地、軍需生産、軍需輸送に反対する闘いとして位置づけられる。しかもそれは、当時の日本共産党の51綱領による軍事闘争と結びついていた。その結論部分を要約して紹介しよう。

◎朝鮮戦争は「失敗した革命戦争」
 第二次世界大戦後、戦勝主要国の英・米・ソの占領統括を合意したヤルタ体制が崩れ、1948年以後、東西冷戦体制に入った。アジアでは49年に中国革命が勝利して、50年に朝鮮半島の南北対立から朝鮮戦争が勃発し熱戦となった。中・ソの路線合意が成立、アジア各国共産党は一斉に中国革命防衛と朝鮮戦争北側支援のための武装革命闘争を展開した。日本共産党も50年1月のコミュンフォルム批判以後、占領下の平和革命路線から暴力革命路線に転換するが、党内の主導権争いで党中央が分裂し、実際の路線転換は51年10月の新綱領と軍事方針採択以後であった。
 朝鮮戦争は最初から北から南に侵攻する南北統一と民族独立の武装革命戦争(内戦)であったが、米軍が国連軍の名目で介入し、これに対抗して中国義勇軍が参戦したので、事実上の米中戦争となった。38度線を挟んだ一進一退の激烈な攻防戦となったが決着がつかず、3年後の53年7月、38度線の休戦ラインを挟んで分断国家が固定したまま半世紀が過ぎている。1991年にソ連、東欧の社会主義体制が崩壊し、東西冷戦は終結したとされるが、アジアの朝鮮半島の火種は未解決のまま残っているのである。
 20世紀におけるアジアの社会主義革命は、中国、ベトナムにおいて成功したが、朝鮮半島においては失敗した。朝鮮戦争は「失敗した革命戦争」であるというのが、私の基本認識である。

◎吹田・枚方事件は正義の反戦闘争
 吹田・枚方事件とは基本的には朝鮮半島の民族独立闘争に連帯した正義の武装闘争であり、日本共産党の指令によって展開した諸行動であった。日本共産党は、これを当時は軍事方針の具体的実践として過剰に評価しながら、朝鮮戦争休戦後の国際的な路線転換(東西平和共存路線)以後、1955年7月の「六全協」で具体総括をせずに、「極左冒険主義」として切り捨てた。私は、これを当事者の立場から個別に事実関係を検証し、具体総括を本書によって試みた。以下はその結論の概要である。

<吹田事件>
 実質的には、朝鮮戦争に軍事基地(米軍伊丹飛行場基地)と軍事輸送(国鉄吹田操車場)を実力で阻止する民戦(朝鮮人大衆組織)の朝鮮戦争2周年記念闘争を包み込んだ、朝鮮人と日本人による反戦闘争であった。一連の武装デモは軍事行動ではなく、党が計画した軍事闘争の陽動作戦としてのデモンストレーション(合法的示威行動)であった。党が計画した軍事行動は、米軍及び警察警備強固のため中止した。示威行動は、竹槍や火炎瓶で武装防御したことにより、警察警備行動を圧倒して非暴力闘争で勝利した。

<枚方事件>
 旧枚方工廠復活(小松製作所払い下げ)に反対する、日本人と朝鮮人が共闘した反戦闘争であった。党の軍事闘争として組織した行動であったが、計画や指導戦術の未熟さによって軍事行動は失敗し、全員が逮捕されるという犠牲の多い闘いとなった。けれども、旧工廠復活反対運動の後段においては地域住民が立ち上がり、町ぐるみの闘いを展開して火薬工場誘致を阻止し、住宅公団誘致を勝ち取って、今日の「平和の街ひらかた」の礎を築いた。これらの闘いを総合して捉えると、事件前段の枚方民主主義擁護同盟(枚方民擁同)の市民運動、事件後段の寺嶋市長の勇気ある決断と社会党(左派)議員の活躍と住民運動の高揚は、武装闘争の枚方事件を挟んで運動は連鎖しており、今日的に言う「多元的左翼」と「集団的主体」形成の運動像の原型と捉えることができる。

◎民衆抵抗の伝承と結びついた山村工作隊の精神史
 1953年7月18日の紀州大水害の日共大阪府委員会指令による水害救難隊動員は、近年の阪神大地震災害に対する大規模のボランティア救援活動に匹敵する、評価すべき活動であったと言える。日共はその水害救援隊から選抜して、和歌山と奈良の山村に30名からなる、いわゆる山村工作隊を組織した。これは、党中央軍事委員会が認定した最初で最後の「独立遊撃隊」であった。しかし党は、食糧の補給を約束しながら、2ヵ月足らずで補給を打ち切った。事実上の隊解散であったが、隊員のほとんどがレッド・パージの失業者や学校を中退した学生たちであり、しかも軍事闘争で逮捕状が出ていたり党の指令で裁判を放棄した者が多く、やむなく山村に残って生きていかねばならなかった。
 隊は最終的には55年の「六全協」前に解散が決定されるわけであるが、最後まで残った隊員は30名中10名足らずであった。隊活動の総括もなく隊員たちは挫折感を抱いたまま散ってしまったが、私は機会を見つけては元隊員たちや山村の関係者を尋ね歩きながら、「失敗した革命」の負の遺産についての考察を続けてきた。民衆の支配権力への抵抗の歴史は、何世紀もの断絶と連続の抵抗史を重ねながら、民衆の潜在意識として継承されていることを認識することができた。それを私の古里の農民一揆の伝承を調査して、前章「四国山地から」−野村騒動異聞−を書いた。そしてその問題意識から、第2部の「奥吉野巡歴」と「有田川遡上」を、過疎化の著しい奥吉野と奥有田の山村をめぐり、日本の民衆の抵抗史と私の山村工作隊の精神史を重ねて紀行風の物語を書いた。全編の解説は、近現代史研究者の伊藤晃氏にお願いして、日本の戦後の空白を埋める意味を論じてもらった。
 私は本書を戦後革命運動の自分史の序説として書いた。本論は第二作として戦後労働運動私史を書きたいと思っている。  

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