『地域・アソシエーション』 第11号(2004年10月1/16日)

同化政策清算は「アイヌ文化振興法」では終わらない

―「川村カ子トアイヌ記念館」館長・川村兼一さんに聞く(2)―

◆旭川のアイヌはいつも闘ってた

 旭川には「旭川アイヌ協議会」というのがあって、北海道ウタリ協会とは考え方が違うんですね。こちらは国から、国の福祉部から金をもらって生活するのが嫌だったから、自立している人が多いです。意地張ってる人が多い。旭川は土地問題がずっとあって、いつも闘ってたんです。
 軍隊(第7師団)ができるというんで、その工事を一手に請け負った大倉組に、ここら辺の土地は全部横取られそうになった。大倉組に騙されてね、契約書に書いちゃった人がいたんです。だいたい、読み書きなんてあんまりできなかった。明治33年(1900年)、東京の内務省まで行って相手にされないんだけれども、東京の新聞社が新聞に載せてくれたりして、大倉組の契約は取り消しとなった。その後、大倉組というのは札幌へ行って、サッポロビールや大成建設になる。大倉男爵、大倉喜八郎。そういう土地問題が明治から昭和までずっとあった。
 うちの先祖の、記念館に写真あったと思うけど、クーチンコロという人が弓の上手な人で、松浦武四郎が北海道を歩くときにガイドしたんです。ガイドしてアイヌも良くなるだろうと思ってたら、だんだん状況が悪い方に悪い方にいった。江戸時代というのは、松前藩が場所請負制度(事務局注6)というのを作って、請負商人が余市とか小樽とか海岸沿いでアイヌをこき使った。
 ニシン御殿なんて、今でも観光名所になってるけど、あれはアイヌが強制労働させられてできたもの。もう凄まじいですよ。旭川からも石狩まで連れて行かれて、強制労働でしたね。最初は賃金払ってたんですけれども、だんだん給料も払わないで強制的にやらせる。ここのクーチンコロというのは雄弁家だったんですね。雄弁家で、石狩に行って商人と闘って言論で負かしてね、全員引き連れて帰って来た。
 南の方(渡島・檜山)のアイヌ部落は、みんななくなってしまった。強制労働だけじゃなくて、伝染病を持って来たんです。アイヌにない結核とか、疱瘡とか、天然痘とか、梅毒ね。結核で死んだ人がいっぱいいたんです。治しようがなくてね。

◆闘わないと何にもやらない

 今、裁判二つやってるんです。土地問題の共有財産裁判と、もう一つは差別図書裁判。
 一つは、アイヌ民族共有財産裁判。平成9年(1997年)に「旧土人保護法」が廃止になり、「今まで北海道が管理していた教育資金と土地を、北海道が預かってたアイヌの共有財産を返してやるから、49軒のうち代表者を決めなさい」と。「1軒につき1万2000円返してやる」と。1万2000円って、1万5000坪の土地をどうやって買えるの。軍隊ができたのでこの辺の土地を全部取られて、本来1万5000坪(5町歩)を3000坪(1町歩)にされた上に、今3000坪を持ってる人は誰もいなくて、うちも1100坪。「共有財産を北海道が管理してて、利息がコロコロころがって1万2000円になった。だから返してやる」と。だから「そんなもんはいらない」と。それで裁判起こしたんです。
 裁判で5年間やったけど、結局負けてしまった。訴える権利がないと。地裁で負け、高裁で負けた。今度最高裁で東京へ行かなきゃならない。
 もう一つは、差別図書裁判。江戸時代に日本の商人が梅毒や他の伝染病もってきて、アイヌの女を犯して梅毒とかをうつしたんですね。男は色丹とか島の方に渡して、残った女をみんな妾にしたんですよ、商人が。そういう歴史があるんです。それを警察の医者が調べてね、梅毒をアイヌ固有の病気であるとか、遺伝性梅毒だとか、アイヌは劣等民族で体力が劣るとか、書いた。警察の医者しか見れない物を、非売品をね、資料として収めて学者が売ってしまったわけです。20年前ですか。それで、本を回収しろ、謝罪しろという裁判をやってます。
 その本にはアイヌの名前が420人載ってる。孫が今生きてるんです。そういうことを平気でやる学者がいまだにいて、全然平気な顔して開き直って、これは学術的に価値があるとか、威張りくさって言うんです。
 教科書の副読本でも、89年までは「昔アイヌの人がいました」と、過去形みたいに「昔いました」と書かれてました。行政も今は、「アイヌ語教室」とか、いろんなこと活動をしています。旭川が一番最初です。そして釧路もやって、まあだんだん良くなってきた。言わないと何にもやらない。
 知里幸恵という19歳で亡くなった人がいて、それが中学校の国語の教科書に載るようになった。アイヌに文字がなかったから―口承なんですよね、口伝え―知里幸恵という人が初めてローマ字でユーカラを書いたんです。大正時代に。良く考えたもんだ。カタカナだとね、上手く書けないんですよ、アイヌ語の発音は。金田一京助が来て、ユーカラを素晴らしいて言って、金田一京助に招かれて知里幸恵は東京に行って、一生懸命原稿を書いた。

◆記念館をもっと自然豊かなところに

 ここは子供のときは、川と畑と田圃しかなかった。それがいつの間にか、みんな土地を切り売りしちゃったんです。だから、もう宅地になって熊が飼えない、鹿も飼えない。観光客が来ても、「こんなとこにあるんですか」って言われる。昔はこの辺、畑しかなかったんだけどね。
 だから、もっと山の方に引越して、川と森があるところへ。川で丸木舟で川くだりして、山で山菜を採りたい。山菜採りに行くにも、山まで行かないと採れない。ゆり根、そこに置いてあったやつ、あれもこの時期でないと採れないんだけど、1時間くらいかけて山へ行って採ってきた。明日も友達の山へ行って、楡の木の皮剥いでアットゥシ織の材料を取りに行く。大学生が行きたいと言ってるので。それだって、知り合いのところじゃないと一皮だって剥げない。国有林とか道有林だと怒られちゃう。クーチンコロが江戸時代に、「これからはもう石ひとつ自由にならない時代が来る」って言ったけど、その通りですね。「石でも木でも粗末にするではない」と言ったけど、本当にその通りでね。(おわり)

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注6:18世紀になって、商人が松前藩に運上金を納めて商いを全面的に請け負うようになる。アイヌに苛酷な労働を強制し、漁業資源や木材資源を収奪した。