『地域・アソシエーション』 第10号(2004年9月16日)

同化政策清算は「アイヌ文化振興法」では終わらない

―「川村カ子トアイヌ記念館」館長・川村兼一さんに聞く(1)―

 北海道視察・交流の旅の報告第3弾。北海道の報告の最後となります。「さっぽろ自由学校『遊』」の花崎皋平さんに薦められて、旭川市の川村カ子トアイヌ記念館を訪ね、カ子トさんの孫で現在館長の川村兼一さんにお話を伺ってきました。花崎さんは「北海道を語るときにアイヌの問題を抜きには語れない」と言います。そして自由学校でも、アイヌ民族の文化と歴史は毎年欠かさず講座に入れてきたそうです。関西にいると、本で読むことはあっても、なかなかピンとこないテーマですが、今回、直接お話を聞く機会を持てて、ほんの少しだけ身近になった気がします。記念館のある地域は近文(チカブミ)と呼ばれており、旭川の石狩川沿いに住んでいた3つのアイヌの集落が北海道庁によって1891年(明治24年)、強制移住させられてできた集落です。以下、事務局の文責にて、川村さんのお話をまとめさせていただきます。

◆「旧土人保護法」下の同化政策と差別

 明治時代というのは同化政策で、アメリカのインディアン同化政策の「ドーズ法」をそっくり真似したんですよ。江戸時代まではアイヌに日本語を教えるな、米作らせるなという決まりがあったんです。見つかったら罰せられる。「ドーズ法」を真似して、「北海道旧土人保護法」(事務局注1)で狩猟とか漁猟が禁止されて、農業に従事するならば土地を5町歩(15000坪)貸し与えるから、10年以内に開墾して収穫を上げなさい、と言われた。屯田兵(事務局注2)は15町歩与えられるのに対して、アイヌは3分の1の5町歩。しかも、屯田兵は優先的にもらうのに対して、アイヌには貸すんです。もともと農業に従事する習慣がなかったり、農業に適さない土地を貸し付けられたり、和人に騙されたりで、農業はみんな失敗してしまうんです。
 「旧土人保護法」で5町歩だったのが、近文の場合は、軍隊(第7師団)ができて、師団の前にアイヌ部落があると見苦しいと言って、5町歩が1町歩にされてしまう(事務局注3)。だから、他のアイヌの5分の1になってしまう。屯田兵の15分の1。とてもじゃないけど、農業なんかやっていても食べていけない。
 大正時代になったらね、女性たちが見かねて、アイヌは手先が器用だから、熊を彫ったらどうかと。その前は、こういう手拭い掛けというのを作って、鎖抜きというんですけど、こういう細かいものを飾りにして、そんなのが売れたんですよね。で、手先器用だから、熊を彫ったらどうだって。大正9年(1920年)から木彫りの熊を始めて、阿寒湖とか白老(シラオイ)とか平取(ビラトリ)に教えに行った。
 軍隊ができて、もう中学校になってますけど「土人小学校」(事務局注4)というのがあって、学校でアイヌ語使うと怒られて、日本語教育させられて、特に修身を厳しく教えられて、うちへ帰ると、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんはアイヌ語しか分からない。読み書きなんか、明治だからできませんよね。だから、学校では日本語、うちへ帰ればアイヌ語っていう、それがずっと昭和の初めまで続いている。で、軍隊の偉い人が来ると、アイヌの子供を集めて踊ったりして見せるという、そういう学校だった。
 その当時、うちのじいさんが、せっかくアイヌ部落へいつも見に来るんだったら資料館作った方がいいんじゃないかというんで、こういう笹葺の家を改造して、資料館みたいなのを作った。それが大正5年(1916年)です。うちの親父は測量技師で測量ばっかりやっとって、おじいちゃんが亡くなったので、昭和18年(1943年)に帰って来たんですよ。二代目。で、私が三代目。アイヌ文化を正しく伝えようと。
 昔は、近文アイヌコタンというのは有名だったんですね。それからカムイ・コタン。戦後もずっと、近文アイヌコタンとか、カムイ・コタンというのは有名だった。その後、白老がどんどん人気が出てね、お客さんが行くようになった。その前は旭川に来てたね。カムイ・コタン、あそこは凄い渓谷で、今も毎年お祭りをやっているんですけど。そうやって、うちのおじいちゃんもやっぱり、こういう手拭い掛けとか作って売ったりしながら、記念館をやって生活してた。旭川に今、150世帯450人いますけど、農家は1軒だけなんです。木彫りやっても今はもうほとんど売れないから、タクシーの運転手とか、東京に出て行く人、いっぱいいますよね。山谷とか代々木とかね。中卒とか高卒が多いから、大学行った人はあまりいないから。だから市役所とかはね、市役所には今1人もいない。前は2、3人いたんです。生活は貧しい。
 アイヌにはアルコールを飲む習慣がなかったから、古くは松前藩がアイヌと交渉するときには必ず酒を飲ませて、酔っ払わせて契約させてしまう。それが明治からずっとですね。平取町という有名なところがありますよね。アイヌの人口が一番多いところ。萱野茂さんという国会議員の出身地、あそこは平取町の二風谷というところです。平取に昔、アイヌがたくさんいたんです。そこの酒屋さんが酒飲ませて契約書を書かせて、平取のアイヌの土地を全部、その酒屋さんが自分のものにした。で、アイヌは平取に1人もいない。二風谷にはたくさんいるけど、平取には1人もいなくなった。なんせ、アルコール分解酵素がないんですね、酒飲む習慣がなかったから。
 今、北海道に7万7000人。東京は5000人ぐらい。7万人以上はいるんだけども、北海道ウタリ協会の会員は2万人。後の人はアイヌだということを隠してる。旭川でも結構いるんですよね。でも、俺の顔を見るとみんな嫌がったりする。親がアイヌだってことを子供に言わないのが多くて。相撲界とかオリンピックとかで結構活躍しているんですよ。みんな知らないだけで。
 結婚のとき、女の人は特に差別がひどかった。嫁に行くとき、戸籍取りに行くと「旧土人」と書いてあった。それにこの辺りは、昭和12年(1937年)まで「給与予定地」となっていた。アイヌの居住地を「給与地」、旭川は軍隊のせいで「給与予定地」。あまりにもひどいから、町名つけようとなって、北門町、錦町、緑町、近文町となった。

◆「アイヌ新法」が「文化法」に骨抜きに

 戦後になってから「北海道ウタリ協会」を作った。最初は「北海道アイヌ協会」だったけど、アイヌというだけで差別されるから嫌だと「ウタリ協会」。仲間とか同胞っていう意味ね。それで、「旧土人保護法」を撤廃しちゃえと。代わりに「アイヌ新法」を作ってくれということで運動した。
 旭川市長をやっていた五十嵐広三という人、すぐそこにいたんですよね、市長のときから「ウタリ問題懇話会」というのを作って、「アイヌ新法」を作ろうっていうことで、検討してくれた。その人が村山連立政権の官房長官になって、諮問機関「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」を作って、平成8年(1996年)に答申を出した。しかし連立政権が崩壊し、社会党がバラバラになって、その後に鈴木宗雄とかがしゃしゃり出て来て、「アイヌ文化振興法」を作れと言う。「新法」じゃなくて「文化法」にさせられちゃった。
 北海道ウタリ協会の2代目の笹村理事長が、鈴木宗雄の後援会長になった。そして「文化」だけに限定した法律が作られた。俺たちは「旧土人保護法」を盾に、補償金として5000億円を要求したんですよ。それを外されて、アイヌから議員を出せというのも外されて、結局は「文化」に限定された(事務局注5)。それで、日本政府はもうアイヌ問題はこれで終わりと。鈴木宗雄にいいように潰されちゃった。(つづく)

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 注1:1899年(明治32年)に公布され、アイヌの同化政策の柱となる法律。アイヌの生活習慣を無視した農業の押し付けや、皇民化教育をすすめることになる。1997年に内容的には不十分な「アイヌ文化振興法」が成立したのにともなって、廃止となった。「旧土人」という現代では差別的な用語がこのときまで公的に用いられ続けた。

 注2:1874年(明治7年)に制度化。北海道開拓とロシアに対する北方警備の役割を兼ねていた。

 注3:「旧土人保護法」では、アイヌへの給与地は1戸につき5町歩とされたが、近文では第7師団ができるというので、給与予定地とされた。その後、土地問題をめぐって大倉財閥や、小作人を送り込んで土地の占拠を狙う商人などと、3次にわたる争議が闘われた。その結果、1934年(昭和9年)になってやっと「旭川市旧土人保護地処分法」が制定され、1戸あたり1町歩が貸し付けられることになり、残りの土地は「模範農耕地」とされ、北海道が共有財産として管理し、アイヌのためにではなく恣意的に使用されることになる。「アイヌ文化振興法」成立にともなって廃止となった。

 注4:「旧土人保護法」第9条を受けて「旧土人教育規定」が定められ、アイヌ児童のための小学校が全道に新設される。ここでは、アイヌ語が禁止され皇民化教育がすすめられた。

 注5:ウタリ協会が1984年に決議した「新法案」は、当時既に国連で認知されていた先住民の権利「先住権」を思想的根拠としており、(1)アイヌが過去に被った迫害や差別に対する補償・賠償(2)現状の是正のための教育、文化、経済的自立など施策の実施(3)国会および地方議会での優先的議席の確保―などを考えていた。