『地域・アソシエーション』 第8号(2004年8月1/16日)

地域に根ざし家族と共にある闘いに持続力の源泉が

―国労音威子府闘争団「労働者協同組合おといねっぷ」(1)―

 北海道視察・交流の旅の報告第2弾。今回は、稚内の150`ほど南に位置する音威子府村からの報告である。札幌から車を走らせて約4時間。途中、名寄あたりまでは道路脇に稲が育っているのが見えるが、さすがにそれより北に行くと風景が変わってくる。白樺林と酪農の牧草地が交互に現れてきて、見慣れない風景だけによけい美しく感じる。日本の周縁部で、地域に根ざし、地域の活性化に取り組みながら、国家の不正と真っ向から闘いつづけている国労音威子府闘争団「労働者協同組合おといねっぷ」の理事長・金児順一さんと専務理事・小西邦広さんにお話を伺った。

◆18年目を迎える国鉄闘争

 「北国『おといねっぷ』からの報告」という小冊子を渡された。その表紙には同じ女の子3人が写っている写真が、赤ちゃんの頃の写真、小学校の頃の写真、そして高校生の今の写真と載っている。国鉄・JRによる国労組合差別解雇から18年、闘争団とその家族にとっての長い年月の思いがその表紙から見て取れる。
 18年という長い年月を闘い続けることは並大抵ではない。家族の理解と協力、争議団内部での高い共同性が要求されてくる。そしてそれは、初めから備わっていたというより、おそらく、現実の闘いの中で矛盾を抱えながら何度もぶつかり合いながら打ち鍛えられてきたものに違いない。金児さんは「綱渡りの連続だった。まとまっていないからこそ強い」と言った。お二人から話を伺う中で、自己の尊厳をかけた解雇撤回という根っこのところから、労働者の対等な関係を基礎にした事業を起こし、地域から変革を求めるという新たな地平を獲得した運動を見ることができた。
 1987年4月、当時の中曽根首相によって、国鉄がJR7社に分割・民営化された。そのときに、7628人という大量の首切り(JRへの不採用)が行われた。さらに国鉄の残務処理を引き継いだ国鉄清算事業団は、1990年3月末をもって再就職斡旋業務を終了し、1047名を再び解雇した。解雇(JR不採用)に当たってJR側は、所属組合による差別を行った。最後まで国鉄の分割・民営化反対を訴えた国労、全動労、千葉動労の組合員と分割・民営化に協力した鉄労や動労とでは、歴然とした差がある。1047名の解雇者のうち国労が966人、全動労64人、千葉動労9人、その他8人となっている。明らかに組合差別であり、不当労働行為である。
 当然のことながら、18ヵ所の地方労働委員会と中央労働委員会は軒並み、組合差別の実態を認定し、JRも採用差別の責任があると認めて、救済命令を出した。地労委、中労委レベルでは闘争団側の連戦連勝である。それに対しJRは中労委命令取り消しを求めて行政訴訟を起こし、裁判所は東京地裁、東京高裁、そして2003年12月の最高裁判決でも、不当労働行為の存在は認めつつ、JRには責任はないとして、中労委命令を取り消す判決を出した。

【写真】事務所前にて労働者協同組合のメンバーと共に

◆「労働者協同組合おといねっぷ」

 音威子府では、87年の国鉄による解雇で101人が清算事業団に回された。そして90年、清算事業団によって最終的に48名が解雇され、48名の組合員で闘争団が結成された。当時の闘争団の平均年齢は28歳くらいで、2〜3歳くらいの子どもを抱えている組合員が多かった。アルバイトといっても地元に働ける企業は少なく、闘争団結成当時は22人が東京方面へアルバイトに出かけていた。米屋、弁当屋、下水道処理場、土木作業などさまざまな仕事についた。当時、政府の“国労の労働者は働かない”というキャンペーンが浸透していて大変だったが、実際に働き出したら若くてよく働くというので喜ばれ、信頼されたという。
 しかし、バブル崩壊後の不況の中でアルバイト探しも深刻さを増し、また、小さい子どもと離れるというのが一番つらかったので、何とか地元で働き続け、闘い続けられないかということで、自分たちで仕事作りに取り組み始めた。それと合わせて村おこし的な発想も取り入れて、91年6月29日、「労働者協同組合おといねっぷ」を設立。地元のものを活用できるようにということで、木工品と羊羹作りに取り組み始めた。木工品は、もともと地元の村で振興に力を入れていた商品である。羊羹は、旭川市や上川町あたりの良質で安全な小豆を確保できるということと、支援の人々に鎌倉の老舗「美鈴」を紹介してもらえたということで取り組むことになる。鎌倉に出向いて本格修行するところから始めて、自主生産にこぎつけた。「音威子府羊羹」には多くの人の「出会いがあり、結びつき、支え合い」があったとのことである。
 素人が一から木工や羊羹作りの技術を身につけていくのは大変だったと思うが、初めの5年くらいは結構順調にいった。一時は木工担当が9人、羊羹担当が6人というときもあったそうである。この時期、戦後すぐに結成された労働組合が結成50周年を迎えるところも多く、木工品を記念品として扱ってくれた。しかし今は、最盛期の半分くらいになっている。羊羹の方も味が評判で好調だったが、4党合意問題で国労本部の方針に従わないということで国労統一物販のカタログから外され、売上は一時の6割くらいまで落ちている。販売ルートの8〜9割は労組関係で、物品販売のネットワークに依存している。残りが地元の商店街や生協関係。労組以外の販路の拡大、特に地域に根ざした販路の拡大が今後の課題だという。現在、木工担当3人、羊羹担当3人で自主生産に励んでいる。
 そして今、3本目の柱として味噌作りに取り組んでいる。7年ほど前から試行的に味噌作りを始め、去年で10トン出荷。去年12月に許可を取って本格的な販売に乗り出したので、今年で20トン、最終的には30トンの出荷を目指している。完全無添加でキロ当たり600円で販売しているので、競争力はあると思う。地元の安全な大豆を使えるということと、生活必需品ということで、地域に根ざした販路の拡大という戦略にも合致しており、今後の主力商品にしていきたいとの意向である。
 当初は、争議のための資金稼ぎの手段、仮の姿として始まった労働者協同組合、設立から14年目という歴史を経る中で、それ自身が労働者が平等に共に生きるという一つの形を示し、共同性の新しい地平を示してきた。本人たちの希望に沿う形での国鉄闘争の決着ということを前提に、今後、どうしていくのか話し合うときがくるでしょうと、金児さんは言う。

【写真】羊羹づくりの作業に励む労働者協同組合のメンバー

◆収入はプール制 各自の申告で支給

 48人で始まった音威子府闘争団は現在、44名。「行くも地獄、とどまるも地獄」という状況の中で、闘争団から離れたから脱落だとかそんな風には思わない、と金児さんは言う。ちゃんと話をして別れれば、闘争団から離れた人もそれぞれの地で頑張っている。戦線が変わるだけ。闘争団に結集していても、事情があって労働者協同組合に結集するのではなく、自活せざるを得ない人もいる。現在、労働者協同組合でやっている人は34〜5人。
 労働者協同組合の事業だけで全員が生活していけるというわけではなく、今でも19人がアルバイトに出ている。その他に、音威子府闘争団の専従や闘争団全国連絡会議などの専従を派遣するなどしている。闘争と生活を丸ごとひっくるめて共同しているわけである。組合のメンバーの収入について、完全申告制にしているという話を事前に聞いていたので、本当かと尋ねてみた。本当だそうだ。事業収入やアルバイト収入をいったん全部プールし、各自の申告に基づいて支給している。「うちはおっかちゃんが働いているから、これくらいでいい」といった具合だ。今年の春改定して今、最低で月2万円、最高で20万円。5〜6年目まではゼロという人も7〜8人いたが、いくらなんでも働いていてゼロはないだろうということで、5〜6年目のときに、最低いくらというふうに決めていった。
 さらに、それで不平不満が出てきたことはないかと聞いてみた。「そのことでもめたことはなかったな」と小西さんは言う。だいたいみんな同じJRのアパートに住んでいるので、お互いの生活がだいたい見えるし、みんな大変な中でやっているということがわかっているので不平不満は出てこなかった、との返事だった。逆に、それでないと闘争団はやって来れなかっただろうな、と言う。立ち退きの話になったとき、JRのアパートの一部を村が村営アパートとしてJRから買い上げて、そのままそこに住んでいるとのことである。後でまた触れるが、闘争団は家族も含めると村の人口の1割を占めており、村の存続にとっても重要な問題で、村も闘争団にいろいろ協力してくれているという。闘争団としても地域とのいい関係を意識して作ってきた結果でもあるのだが。
 18年の長期にわたる闘いを持続するためには、家族の理解と協力なしにはあり得ない。「おやじといっても、かあちゃんが『うん』と言ってくれないと何もできないし」と小西さんは言う。そして、団員間の家族ぐるみの助け合う関係がないと続けられるものではない。プール制と簡単にいうが、それぞれが経済的に余裕のある生活を送っているわけでもない中で、家族も納得の上でそう簡単に踏み切れるものではない。大変であっても一緒にいることが居心地いいという関係がみんなで作られていないとできるものではないと思う。
 闘争団の会議とは独立して家族会というのがあり、ちょうど前日、総会があったとのこと。「昨日も9割が参加してたな。おまえとこが来てたら100%だったのに」と、事務所の中でお互い言い合っていた。闘争団家族の学習会も必要に応じて開いている。国労闘争団について描いた映画『人らしく生きよう』がヒットし、各地で闘争支援の上映会が行われたときには、音威子府からわざわざ出向いて行くのは大変なので、たまたま子どもたちが学生でいたりすれば、子どもが集会に参加してアピールしたりすることもあるという。
 今一番大変なことは、子どもの教育費のことと親の介護のことだという。解雇撤回闘争が始まった頃は子どもがみな小さいという大変さがあったが、18年経ってまた、家族のことで問題を抱えるようになってきた。来年9人の子どもが高校を卒業する。高校までの教育費はしれているが、大学にやるとなると今の収入では難しい。子どもを大学にやれるかどうかという問題に直面している。それと、親の世代が70代になってきていて、介護の問題が出てきている。現在、親の面倒を見ないといけない人が3人くらいいるとのこと。こうした生活上の問題を闘争のためといって切り捨てずに、丸ごと抱えて共に解決してきたからこそ、18年という持久戦を闘ってこられたのだろう。
 次回は、闘争団と地域との関係や、国鉄闘争の今日的状況について報告する。(片岡明宜)