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研究会報告:共同体・市民社会・アソシエーション
「市民社会」とは何か?

 これまで幾度となく論議されてきた三つの社会モデルについて、最新の知見をもとに改めて考える、短期集中研究講座「共同体・市民社会・アソシエーション」。今回はその第二回として、市民社会をめぐって、関西大学の植村邦彦さん(社会思想史)にお話を伺った。以下は、その概要である。

はじめに

僕は最近、『市民社会とは何か』(平凡社新書)という本を出しました。その中心課題は、市民社会という言葉の歴史を跡づけ、その輪郭を明らかにすることです。今回、報告の依頼をいただいたのも、それに絡んでのことだと思います。
 ところで、研究会のテーマは「共同体・市民社会・アソシエーション」だそうですが、僕は「共同体」という言葉についても、いつ頃から使われるようになったか、調べたことがあります。その結果、実は1950年代以降と、比較的に新しいことが分かりました。それ以前、1930年代には「協同体」という言葉がありましたが、これはたとえば「東亜協同体」というように国家連合体としてのCommonwealthに対応するもので、Gemeindeの訳語ではありません。Gemeindeの訳語として共同体が使われたのは、僕が調べた限りでは、大塚久雄の『共同体の基礎理論』(1955年)が最初です。
 もちろん、日本にも昔から共同体に相当するもの、内実を備えたものが存在したことは確かです。しかし、それは少なくとも戦後になるまで共同体と呼ばれることはなく、ムラとか部落と呼ばれてきました。
 僕は愛知県の田舎の出身ですが、地元ではいまもムラの単位が機能しています。実態としては私的所有が軸となって、私的に労働が行われていますが、前回の報告者である渡辺憲正さんに倣えば、GemeinwesenではなくGemeindeの意味で共同体が残っています。
 地元ではかつてのムラにあたる単位は「区」と呼ばれており、その下に「組」という組織があります。実家の裏には組の集会所(コミュニティセンター)があり、そこで月1回の寄合が行われ、世帯から一人、多くは家長が出席して地域にかかわる決定をしています。
 たとえば、僕が子どもの頃には田植えの前に、組の持っている溜め池の水を下ろす時期を決めていました。いまは農業用水が整備されてしまったため、生産に関わる実質的な役割はほとんどなくなり、行政末端の町内会のようになっていますが、それでも地域の全世帯が参加しています。また、いわゆる「役」と称する労働奉仕、共有地の草刈りだとか掃除だとかいう類のものは未だに続いています。
 そのため、共同体はすでに解体され存在していないと言われると、共同体規制の力が弱まっていることは間違いないけれども、なくなったとまで言えるかどうか疑問です。僕は大学では、当時の市民社会派を代表する平田清明の下で勉強しましたが、田舎の人間だからか、そもそも市民社会について、羨望の気持ちと同時に、本当にそんな素晴らしいものなのか、拭いがたい疑いを抱いていました。『市民社会とは何か』には、そうした背景が一つあります。

日本における「市民社会」の変遷

もう一つ、背景にあるのが『広辞苑』に対する批判です。僕は、『広辞苑』で市民社会という言葉を引いて出てくる説明は、大いに問題があると思っています。ただし、それは『広辞苑』だけに問題があるというよりも、その説明の基にあるのが戦後の日本の市民社会論で、それが言葉の意味を特定の方向に持って行ったということです。この点を示すために、まずは「市民社会」という言葉の意味の変遷について触れたいと思います。
 ところで、そもそも「社会」とは何でしょうか。『広辞苑』(第5版、1998年)には、こうあります。「【社会】(societyの福地桜痴[源一郎。1841〜1906]による訳語[1875])人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団。諸集団の総和からなる包括的複合体をもいう」。非常に曖昧ですね。
 ついでに、福地桜痴より前に、societyにはどんな訳語があったか。たとえば、福沢諭吉は、幕末から明治にかけて書いた『西洋事情 外編』(1868年)の中で、イギリスで出版されたハイスクールの政治経済の教科書を翻訳していますが、その一文「The idea of a perfect society supposes」を「人間交際の大本を云へば」と訳しています。societyは「人間交際」、つまり制度や組織というより関係として捉えられているわけです。仮に、福地の訳ではなく福沢の訳が定着していれば、どうなっていたのか、興味深い問題だと思います。
 その上で、日本で何時どのように「市民社会」という言葉が使われるようになったか。僕が調べた限りでは、最初に市民社会にあたる日本語が使われたのは、佐野学が訳したマルクスの『経済学批判』(1923年)です。ドイツ語原文のburgerliche Gesellschaftの訳として「市民的社会」という言葉が使われています。佐野学は日本共産党の創設者で、後に獄中で転向宣言をしました。
 その2年後の1925年には、『猶太人問題を論ず』の翻訳があります。そこでも「市民的社会」が使われていますが、驚くことに、その言葉一つに3ページにわたる非常に長い注がついています。内容も興味深いものです。たとえば、「茲に暫くburgerliche Gesellschaftを訳して市民的社会と云ふ。適訳とは思はないが、他に適当な邦語も見当たらない」。日本語として相応しい訳語ではないけれども、他に適切な訳語がないから市民的社会にしておく、とあります。
 あるいは、「他の色々な関係から離れて考へるならば『市民的社会』は又『個人中心的社会』とも訳され得るであらうし、更に進んだ別の見地から観るならば、所謂商品生産社会其者は即ち市民的社会と云はれ得るであらう」。つまり、日本で最初に市民的社会という言葉が使われた際、それは「個人中心的社会」や「商品生産社会」という意味合いで使われていたわけです。この点では、もともとヘーゲルの言葉をマルクスが使ったものだとして、ヘーゲルの含意に関する説明も長々となされています。いずれにせよ、マルクスからすれば批判的な意味合いが強い言葉です。
 それが肯定的な意味で使われるようになるのは、高島善哉からです。太平洋戦争勃発の1941年に出された『経済社会の根本問題』には、こうあります。「市民社会(civil society)という言葉はホッブズ以来イギリスではしばしば使用されているが、それが一つの観念として何を意味するかについては必ずしも明らかではない」。「けれども特にこれをcivil societyとして観念する場合には、何よりもまず人間の経済関係、特に一七、一八世紀の頃、中世的束縛から経済的政治的文化的に解放されて生成し来たったところの近代社会関係が意味されている」。
 ここで市民社会に括弧でcivil societyと補っているのは、高島自身です。その市民社会は、中世の束縛から解放されてできた近代社会、しかも経済的、政治的、文化的に解放された社会だと捉えられています。個人が解放されてきた近代社会という、進歩的で明るいイメージで市民社会という言葉が使われる出発点になったと言えるでしょう。
 こうした捉え方の変化は、実は『広辞苑』にも見られます。たとえば、1955年の『広辞苑』初版では、「【市民社会】(burgerliche Gesellschaft)自由経済に基づく法治組織の共同社会をいう」という形で肯定的な評価はありません。原語からも分かるように、ヘーゲル的ないしマルクス的なニュアンスで書かれています。

●『市民社会とは何か―基本概念の系譜』

 ところが、1969年の第2版では、「【市民社会】(civil society)自由・平等な個人の理性的結合によって成るべき社会」とあります。原語が変わったと同時に、明らかに肯定的で積極的な捉え方に変わりました。69年と言えば、ちょうど日本で「市民社会派」と言われる潮流が活躍し始める時期であり、まさに『広辞苑』の文言は市民社会派の立場から書かれたものと言えます。これ以降、いわゆる「岩波知識人」が市民社会という言葉を使う際、こうした意味合いが前提とされるようになります。
 この説明は、98年の第5版で再び「【市民社会】(civil society)特権や身分的支配・隷属関係を廃し、自由・平等な個人によって構成される近代社会」と変わります。以前に比べれば、多少トーンは下がっていますが、それでも肯定的な印象の強い説明です。2008年の第6版(現行版)も同じです。

マルクスの「市民社会」概念

 以上を踏まえて、次に、もともと日本で市民社会という言葉が使われるきっかけとなったマルクスの「市民社会」概念について考えたいと思います。大枠で言えば、マルクスが市民社会という言葉を使う際、まずはアダム・スミスが、そしてスミスを批判したヘーゲルが前提になっています。したがって、スミス・ヘーゲル・マルクスと並べて考えれば、マルクスの「市民社会」概念がわかりやすくなると思います。

●アダム・スミスの「文明化した商業社会」

まずはアダム・スミスです。アダム・スミスと市民社会の組み合わせについて違和感を持つ人は少ないかもしれません。先ほど触れた高島善哉も、ホッブズやロック、ファーガスンやスミスはcivil societyという言葉を「慣用」している、と言っています。高島は『アダム・スミスの市民社会体系』(1947年)という本でスミスの市民社会観を検討していますが、日本ではこれ以降、アダム・スミスが『国富論』(1776年)などで市民社会を論じているという「常識」が定着していきました。
 しかし、実はスミスが『国富論』の中でcivil societyを使っているのは、一ヶ所に過ぎません。しかも、一般に想定するような意味ではない形で使っています。むしろ、アダム・スミスが一貫して使うキーワードは「文明化した商業社会(a civilized and commercial society)」です。以下に『国富論』での典型的な例を紹介します。
 「文明化し繁栄している民族(a civilized and thriving nations)のあいだでは、多数の人びとは全然労働しないのに、働く人びとの大部分よりも十倍、しばしば百倍もの労働の生産物を消費する。しかしその社会の労働全体の生産物が極めて大量である為、しばしば全ての人が豊富な供給を受けるし、最低最貧の職人ですら、質素かつ勤勉であればどんな未開人が獲得しうるよりも大きな割合の、生活必需品や便益品を享受することができる」。文明化した国では、働かなくても働く人の十倍、百倍も儲ける人がいるけれども、最低最貧の職人ですら、まじめにやればそこそこ生活は享受できる、というわけです。
 「いったん分業が完全に確立してしまうと、人が自分自身の労働の生産物で充足できるのは、彼自身の労働の生産物のうちで彼自身の消費を超える余剰部分を、他人の労働の生産物のうちで彼が必要とする部分と交換することによってである。こうしてだれもが交換することによって生活するのであり、……社会そのものが商業的社会(a commercial society)と呼ぶのが当然なものになるに至るのである」。文明社会では分業が確立され、人々は自分が作った物のうち自分の消費を超える物を売り買いするけれども、普通の労働者は労働力しか売る物がないから、自分の持っている労働力を買ってもらうために、商人のように振る舞うことになる。その意味で、文明社会は商業社会だということです。
 「一般民衆の教育はおそらく、文明化した商業社会(a civilized and commercial society)では、ある程度の身分や財産のある人々の教育よりも、公共の配慮を必要とするだろう」。分業が進んだ商業社会では、一般民衆は限られた能力しか必要としない単純作業を繰り返すだけなので、教育や知識のレベルが低下していく。だから、政府が何らかの形で対策を講じる必要が出てくる、と。
 このように、スミスの『国富論』は、ある意味で非常にリアリズムの視点を持っていると同時に、文明化した商業社会では確かに格差や貧困はあるけれども、全体としては誰もがそれなりに豊かな生活を送れるという基本的な考え方が貫かれています。だから、余計な介入などせず、人々が自らの利己的な欲望に従って頑張れば、全体としてはうまくいくということになります。

●ヘーゲルの「市民社会」批判

これに対して、かなり厳しい形で批判を加えたのがヘーゲルです。ヘーゲルは『法の哲学』(1821年)の中で、スミスの言う「文明化した商業社会」をburgerliche Gesellschaftというドイツ語に置き換え、次のような批判をしています。
 「市民社会(burgerliche Gesellschaft)が円滑に活動しているならば、市民社会はその内部において絶えざる人口増加と産業発展のうちにあるものとみなされる。欲求を介しての人々の結合の普遍化、および欲求を満たす手段を用意し作りだす仕方の普遍化によって、富の蓄積が増大する」。 「これが一面である。他面においては、特殊的労働の個別化と制限、そしてこれとともに、このような労働に縛り付けられた階級の依存性と困窮とが増大する。後者には広範の自由の感得と享受が不可能になること、そしてことに、市民社会の精神的長所の感得と享受が不可能になることが結びついている」。
 つまり、市民社会では、一面では富の蓄積が増大するけれども、他面では単純労働を繰り返すような人にとっては自由を感じることができず、社会に対して不安と怨嗟を募らせることになる。ヘーゲルはこの点を懸念し、繰り返し強調しています。
 「社会の成員にとって必要であるとしておのずときめられるような一定の生活水準以下に大衆が陥ることは、そしてそれにともなって、法の感情や遵法の感情、また自分自身の活動と労働によって生きるという誇りの感情が失われるまでになることは、浮浪者の出現を引き起こす」。
 ここで「浮浪者」とある言葉は、正確には「公的な救済の対象になるような貧困者」という意味です。文字どおり住居を失って浮浪している人に限りません。最近で言えば、「ワーキング・プア」と呼ばれる人たちも含まれるかもしれません。いずれにせよ、ヘーゲルは「社会の成員にとって必要であるとしておのずときめられるような一定の生活水準以下」になってしまえば、法律を守って生きていこうという感情も、自分の仕事に対する誇りも失い、社会から逸脱したり、場合によっては反社会的になってしまうと捉えています。
 実際、何度となく「秋葉原事件」のようなことが起きているわけですから、ヘーゲルの懸念は杞憂とは言えません。彼が言うように、市民社会という社会は一方で富が蓄積されるが、同時に貧困を生み出し、貧困に起因する反社会性をも生み出すのです。
 では、どうしたらいいか。ここで、ヘーゲルは解決の主体と解決の手段を国家に求めます。つまり、一つは国家が生活保障などを行う主体として対策を講じること。もう一つは、国家そのものがナショナリズム、愛国心によって人々を束ねる求心力を発揮すること。こうして、自分の仕事に対するプライドなり、社会に対する帰属意識なり、法律を守って生きていこうという感情を維持していこうというのが、ヘーゲルの考えたことです
 これは、簡単に言えば「ナショナリズム」と「生活保障」のセット、言い換えれば「国民国家+福祉国家」ですね。これがヘーゲルの解決策ですが、実は歴史的に見て、こうした考え方は世界中で何度となく繰り返されてきました。現在では実質的に機能しなくなっているにもかかわらず、経済危機が起きたりすると、似たような話が出てきますが。このあたりをどう考えるか、旧くて新しい問題だと思います。

●マルクス「資本主義社会」としての「市民社会」

 ここでマルクスの出番になるわけですが、マルクスがヘーゲルの『法の哲学』を批判する形で自らの思想形成を始めたことは、ご存じだと思います。つまり、市民社会が不十分だから国家が解決策だというヘーゲルの主張に対して、マルクスは、そうではなく、むしろ国家と市民社会が二重化しているところが問題だ、と批判しました。
 一方の市民社会では貧富の格差があり、出生・身分・教養・職業等々の差別がある。しかし他方、国家という枠組みの中では国民としての平等という幻想がある。たとえば、「同じ日本人」だとか、選挙権は一人一票で平等だ、といった幻想です。そうした二重化こそ、実は問題だというのが、マルクスの出発点です。
 だから、マルクスからすれば、市民社会そのものを変えなければならない。どう変えるのか。『共産党宣言』(1848年)には、こうあります。「古い市民社会(burgerliche Gesellschaft)およびその諸階級と階級対立の代わりに、一つのアソシエーションが現れるのであり、そこにおいては、各人の自由な発展が、すべての者の自由な発展の条件なのである」。まさに、市民社会からアソシエーションへと変えていこうと主張していたのです。
 マルクスは長期間にわたって市民社会という言葉を使っていましたが、それはヘーゲルの市民社会論を踏まえたものであり、ヘーゲルの市民社会論は、先ほど見たように、内実としてはアダム・スミスの「文明化した商業的社会」を下敷きにしていました。しかし、マルクスは最終的には、市民社会という言葉を「資本主義社会」と言い変えています。
 この言葉が最初に現れるのは『資本論』(第一巻:1867年)です。それ以前の『経済学批判要綱』(1857年〜1858年)では、まだ「市民社会」を使っていますが、たとえば「資本がはじめて市民社会を、そして社会の成員による自然および社会的関連それ自体の普遍的取得を創りだすのである」というように、資本と市民社会との関係について繰り返し強調しています。
 これが『資本論』になると、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会」という明確な表現に変わり、その省略形として「資本主義社会」という言葉が頻繁に使われるようになります。その意味で、マルクスの言う市民社会は、少なくとも『資本論』以降は、資本主義社会と捉え、表現すべきでしょう。
 社会の変遷の見通しについても、「共同体、市民社会、社会主義」と言うより「共同体・資本主義・社会主義」あるいは「共同体・資本主義社会・アソシエーション」と言った方が、マルクスの本意に即して正確だと思います。わざわざ市民社会を使うことによって、逆にマルクス以外のさまざまな含意が流れ込み、結果として正確さを欠くことになってしまうと思います。

戦後日本の市民社会論

 以上を踏まえて、改めて戦後の日本における市民社会論について、簡単に振り返りたいと思います。まずは、その代表例として、先ほど触れた高島善哉の『アダム・スミスの市民社会体系』の序文を取り上げます。こう書かれています。
 「人々をして市民社会のパトスとエトスを正解せしめることが、いかに民主主義革命途上にある我が国にとって緊急喫緊のことに属するかは改めて言うまでもない。本書は元来学説史的研究をもってその主眼とするものであるけれども、著者は、スミスの市民社会体系の研究が、日本の啓蒙化の理論にとっての一つの大きな現実的意義を有することは、これを信じて疑わない」。
 要するに、日本において民主主義革命を達成するためには、アダム・スミスの言う市民社会を人々に正しく理解させることが必要不可欠だ、と言っているわけです。言い換えれば、市民社会という言葉は、戦後の日本社会の啓蒙、あるいは民主主義革命と連動して使われたということです。
 こうした考え方は、1950年代から70年代くらいにかけて、ますます盛んになっていきます。代表的な論者として、内田義彦や平田清明などを挙げることができるでしょう。たとえば、内田は『経済学の生誕』(1953年)で、こう言っています。
 「資本主義社会は階級社会の中でも自由な、他ならぬ市民の社会(そこでは、法における平等が立法の理想であり、各人が自らの財産、つまり商品を処分しうる自由をもつことが経済的スローガンとなり、さらにそこでは自らを支配するものは自らでしかないという意味での人格の尊厳が、道徳=社会的強制の理念になっている)として他の社会から区別してあらわれ、そして社会の発展は多かれ少なかれ不自由な社会から、究極の到達点たる自由な市民社会をめざしておこなわれるということとなるであろう。」
 つまり、資本主義社会は一面で、封建社会などとは違って、階級社会の中でも自由な市民の社会だと捉え、社会の発展が究極的に到達すべき目標を自由な市民社会と置いています。いわば、資本主義を変革して社会主義を実現することが、自由な市民社会という究極の到達点にたどり着くことなんだ、というように理解できる言い方です。大まかに言って、これが「市民社会派」と言われる人々の典型的な発想の一つです。
 その後、内田は『日本資本主義の思想像』(1967年)で、こう述べています。「この二つ――抽象的概念としての市民社会と実体的概念としての即ち純粋資本主義としての市民社会――は、当時では、日本の資本主義は、資本主義社会ではあるけれどもまだ市民社会ではないというかたちで未分化にくっついています」。これも典型的な発想です。資本主義社会としての市民社会というマルクスの概念からすれば、こんな言い方はあり得ませんが、市民社会は自由と平等、あるいは民主主義という意味合いで使われています。
 ほかにも「完成した資本主義体制であるアメリカは市民の社会であるか」という文言がありますが、一般には民主主義という言葉の方が相応しいと思いますが、民主主義の原理が経済社会の中に投影された結果、市民社会が一つの判断基準になったわけです。これは社会主義についても同じで、当時のソ連に市民社会はあるか、社会主義において市民社会は実現されているか、といった言い方もなされました。
 ちなみに、英語のcivil societyはburgerliche Gesellschaftとはまったく違った起源と意味を持つ言葉です。ホッブズやロックが使っているcivil societyは、現代の言葉に訳せば「国家社会」となるでしょう。civilは古代ローマの都市国家civitasからきた言葉です。古代ギリシャの都市国家はポリスですが、古代ローマはcivitas。civil societyの元となるラテン語はsocietas civilisで、国家的な仲間団体を意味します。societas(society)は株仲間のような一種の団体のことなので、国家(civitas)のような団体(societas)という意味です。だから、ホッブズでもロックでも、civil societyとpolitical societyは同じ意味で使われます。
 ところが、高島善哉などはこうした流れを踏まえずに、civil societyという言葉を一般的な英語の知識で理解し、「市民の社会」つまり「市民が主体となった社会」と解釈したのではないかと思います。
 言葉の定義の問題と言えばそれまでですが、「市民の社会」という意味で言えば、日本の江戸時代などは世界的に見ても高度に発達した商業社会でした。商品の流通ネットワークはある、貨幣経済も浸透する。とくに大坂は、部分的にせよ市民社会が存在したと言っても何らおかしくない条件を備えていました。
 それ以降も、たとえば明治維新を経て工業化が進展していき、戦前ですら男子普通選挙法は存在していたわけです。にもかかわらず、日本には資本主義社会はあっても市民社会がないというような捉え方は、相当偏っていると言わざるを得ません。
 高島をはじめ市民社会派の代表的な論者は、いわゆる「天皇制ファシズム」が色濃くなる1930年代以降に思想形成をしてきた人たちなので、思想統制や神がかり的な狂信主義が横行した当時の状況に対する反発が非常に強く、その意味で自分たちが生きている社会を遅れたものと捉えたり、逆に個人の自立を高く評価することになったのだと思います。それは、時代状況としては非常によく理解できます。しかし問題は、現代に生きる私たちが、それをそのまま引き継いでいいのか、ということです。

「市民社会主義」の潮流

 その後、こうした市民社会派の流れが安東仁兵衛などの構造改革派と結びつき、かつての『現代の理論』を舞台に一つの論陣を形成することになります。これが、いわゆる「市民社会主義」という政治的なまとまりとして現れます。時代としては1970年代の半ばで、このころから政治的なスローガンとして「市民社会主義」という言葉が使われるようになりました。
 代表例は、かつて日本社会党の重鎮で、その後「社会市民連合」の代表を務めた江田三郎が主導した「社公民路線」です。当時の社会党の主流派は、野党共闘としては共産党との連携を追求する「社共路線」を推進していました。その背景には、労働者階級を軸に基幹産業の国有化を指向するような、伝統的なマルクス主義の考え方がありました。
 それに対して江田三郎の社公民路線は、公明党と民社党(当時)という中道政党を連携対象とし、中間層としての市民を軸に議会などを通じて政策を実現していく方向性を示していました。現在で言えば、民主党内の左派部分が持っている路線でしょう。
 江田三郎は1976年、社公民路線の推進に向け、当時の公明党・民社党の実力者とともに「新しい日本を作る会」を設立し、「明日の日本のために一市民社会主義への道」(同年10月)という宣言、いまで言う「マニフェスト」を発表します。その特徴を簡単に紹介すれば、以下の通りです。
 一つは、「産業社会の病理の克服」です。ここでは、「資本主義社会」という言葉は使われていません。変えるべき対象は産業社会であり、「産業社会を自然との調和の上に再組織し、市民社会的諸価値に従属させる」という変革の方向が述べられています。
 もう一つは、「行政と企業管理への勤労者の参加、地方分権の徹底、地域レベルでの直接民主主義による代議制民主主義の補完などによって、自由の拡大、民主主義の革新をめざすのが市民社会主義の立場である」。ここで言われていること自体は、未だにさまざまな機会に耳にすることも多いと思います。それこそ各政党の選挙広報などを見ても、現実的なレベルで目指す路線としては、だいたいこんなところではないかという気がします。こうした内容を称して「市民社会主義」と呼んでいた時期があったということです。
 さらにもう一つが、「市民社会主義を想像し、それを担う人々、市民社会主義のエートスを表現する人間類型は自立的市民である」というところです。これが、当時の社会党左派や共産党などと大きく違っていた点です。つまり、変革主体として[自立的市民]に期待しているわけですが、それは同時に、社会党の最大の支持団体だった「総評」に象徴される[労働者階級]を変革主体とは見ていないということでもあります。
 実際、「市民社会主義への道」という副題を持ったこの宣言に対しては、社会党の中でもとりわけ左派から激しい批判が浴びせられ、路線として受け入れられることはありませんでした。その結果、翌77年に江田は社会党を離れざるを得なくなり、「社会市民連合」というグループを設立します。
 ここに集まったのが安束仁兵衛であり、江田三郎の息予の江田五月、そして菅直人といった人々です。その後も、彼らは江田三郎の提起した方向性を受け継いでおり、その片鱗は現在の民主党の中にも見出すことができます。

90年代以降の新たな市民社会論

 最後に、90年代以降の市民社会論について触れたいと思います。まず、代表的な論調として、坂本義和の『相対化の時代』(1997年)の一文を紹介しましょう。
 「[市民社会という言葉で]私が指すのは、人間の尊厳と平等な権利との相互承認に立脚する社会関係がつくる公共空間と、その不断の歴史形成過程である。……それは一つの批判概念であり、規範的な意味をも含んでいる。それは、人間の尊厳と平等な権利を認め合った人間関係や社会を創り支えるという行助をしている市民を指しており、そうした規範意識をもって実在している人々が市民なのである。それは、国内・民際のNGO組織に限るものではなく、都市に限らず農村も含めて、地域、職場、被災地などで自立的で自発的に行動する個人や、また行勁はしていないが、そうした活勁に共感をいだいて広い裾野を形成している市民をも含んでいる」。
 こうした市民たちの自発的で自立的な連合体、あるいは、そこまでいかないような緩いつながり合い、それが市民社会だということです。狭くとれぱNGO(非政府組織)なりNPO(非営利組織)、あるいはボランティア団体のようなもの、広くとれば地域や職場などでの横の関係と、かなり幅があります。
 後者の広さと規範的な意味を持った批判概念という意味では、いわゆる戦後の市民社会派の流れを引き継いでおり、それがNGOやNPO.ボランティアなどに引きつけて使われているという意味では、新たな時代状況を反映していると言えます。日本で90年代以降、市民社会という言葉を肯定的に使う論者の共通理解は、だいたいこのあたりでしょう。
 こうした捉え方は、実は90年代以降にイギリスやアメリカで現れた、新しいcivil society、日本語で[新しい市民社会]と訳されるものに関する議論と、おおむね重なり合っています。というより、それらに対応した日本での議論と言った方が正確だと思います。
 ところで、詳しくは『市民社会とは何か』を参照していただければと思いますが、イギリスやアメリカでの新しいcivil societyは、ある意味で非常に曖昧です。たとえば、イギリスの「第三の道」を代表するアンソニー・ギデンスなどでは、コミュニティという言葉で表現される内容と新たにcivil societyという言葉で表現される内容が、ほとんど重なり合っています。
 コミュニティは、普通に訳せば「共同体」あるいは「地域社会」となります。だから、これまでの捉え方によれば、市民社会とは質的に異なるものとして扱われていました。ところが、新しいcivil societyからみれば、質的な違いはありません。
 アメリカの「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」論を代表するロバート・パットナムなどもそうです。civil societyとコミュニティとアソシエーション、とくに自発的な(ボランタリー)アソシエーションが、ほぼ同じ意味で使われています。
 こうなると、今回の研究会の統一テーマは「共同体・市民社会・アソシエーション」とのことですが、90年代以降のアメリカでもイギリスでも日本でも、それぞれの概念のいったい何が違うのか、なぜ区別すべきか、よく分からないことになります。
 いずれも基本的に想定されているのは、一つはNGOやNPOといった組織であり、もう一つは地域社会の再建といったイメージでしょう。とくに日本では、地域社会が崩壊して「無縁社会」になった状態から、再び絆やつながりを作り直そうという風潮が背景にあると思います。しかし、そこで作り直そうとされているのは、果たして共同体なのか市民社会なのかアソシエーションなのか。イメージは同じでも、人によって表現が違っているのが現状だと思います。

「市民社会」は対抗原理になるか?

 その一方で、同じ言葉を使っていても、人によって意味するところが大きく異なる場合もあります。突際、90年代以降の日本では、とくに市民社会という言葉の使われ方には大きな幅があり、まったく逆の意味合いが表現されている事例もあります。たとえば、経済同友会が97年に出した捉言『こうして日本を変える─日本経済の仕組みを変える具体策』では、市民社会という言葉が次のように使われています。
 「構造改革推進の基本理念は民主主義と市場原理の尊重である。日本の明治維新以後の近代化の進め方は欧米とは異なっていた。欧米の近代化は市民革命を経て、『民』主体で進められ、市民社会の上に近代国家が形成された。ところが日本では近代民主主義国家の前提となる市民社会が十分に育っていなかった。そのため官主導で『上からの』近代化が進められた。形の上では民主主義国家であったが、実態は『官主主義』だったのである」。
 「以上の民主主義、市場原理、法治主義という三つの基本理念の前捉となるものが社会通念としてのパブリックマインドである。三つの理念は市民社会の存在を前提としている。利己的な理念追求のみが行われたり、個人の権利の主張のみが行われる状況の中では市民社会はうまく機能しない。・……これを前提としなければ、透明性の高いルールと自己責任原則に基づく自由競争社会の健全な発展はありえない」。
 要するに、欧米では市民社会の発展の上に近代国家が形成されたけれども、日本では市民社会がきちんと育っておらず、民主主義は形だけだったということで、これは先ほど見た市民社会派の基本認識によく似ています。しかし、肝心の市民社会の内容は大きく違っています。
 経済同友会にとって、市民社会を育てることは、「自己責任原則に基づく自由競争社会」を確立することに他なりません。その観点からすれば、この10年あまりにわたって「官から民へ」のかけ声の下に自己責任原則が強調され、規制緩和が進められたことは、ようやく日本にも市民社会が育ってきた証拠だと捉えられることになるでしょう。民主主義革命の達成を課題とした市民社会派とも、「産業社会の病理の克服」や「行政と企業管理への勤労者の参加」を唱えた市民社会主義の流れとも、大きく異なっています。
 ちなみに、「自己責任原則に基づく自由競争社会」を目指して「構造改革」を進めようとしたのが、かつての小泉政権でした。[構造改革]という言葉も、もともとはイタリア共産党の路線に由来し、共産党や社会党といった左派の中で使われたものです。それが、小泉政権のもとで換骨奪胎され、「改革」というイメージだけが抜き取られ、「自己責任原則に基づく自由競争社会」の方向に
持って行かれてしまいました。
 こうして振り返ってみると、「市民社会」という言葉は歴史的にも、論者の立場からも、さまざまに使い込まれ、すでに手垢にまみれてしまったと言えます。もちろん、先に見たように、この言葉が大きな積極的役割を果たした一時期が存在したことは間違いありませんが、この期に及んで対抗原理として持ち出すことができるのか、非常に疑問です。あまりにも無力だと言わざるを得ません。
 たとえば、『市民社会とは何か』でも例示しましたが、2008年の年末から09年の年始にかけて行われた「年越し派遣村」で脚光を浴びた湯浅誠は『反貧困』(2008年)の中で、次のように記しています。
 「施策は必ず次への課題を残す。満点の施策などありえない。それを一歩前進と見るのか、まだまだ不十分だと不足部分に着目するのか、あるいは踏み出した方向自体が誤っていると全面的に批判するのか………それを検証するのが私たち市民の役割である。その意味では、私たちは公的施策の外部にいて、問題提起し続け、監視し続ける。私は、そうした市民社会領域の復権を願う者の一人である」。
 ここでは、新自由主義や構造改革。規制緩和を批判し、それに代わる施策の充実を政府や行政に要求するための拠りどころとして、「市民社会領域の復権を願う」と言われています。つまり、かつては存在した市民社会が失われてしまったので、それを復権すべきだ、という展闘です。しかし、批判対象の一つである経済同友会でさえ同じ言葉を使っている現在、こうした表現がどれだけ対抗原理としての力を持つでしょうか。簡単に取り込まれてしまうというのが、僕の考えです。

「市民社会」を超えて

 誤解されると困るのですが、私は、ここで言われている市民の役割、あるいは反貧困運動そのものが無力だと言っているわけではありません。また、かつてのような市民社会論が有効性を失ったということと、あるべき市民イメージを当面の媒介にして新しい未来社会を構想する現在の思想や運動とを、同じものとして否定するつもりもありません。
 むしろ逆で、そうであればこそ、現実に存在する運動に相応しい言葉で表現されるべきではないかと言いたいのです。現実に、市民派とか市民運動とか市民団体など、貝体的な活動を表す言葉が存在しており、それぞれが課題や目指す社会の目標を持っているわけですから、それに即した表現が用いられるべきでしょう。
 実際、90年代以降に使われているcivil society(新しい市民吐会)は、明らかにNGOやNPOといった市民団体を指しています。その意味では市民団体と訳すべきにもかかわらず、実際には市民社会と訳されている例が少なくない。これは、内容が茫漠とするだけでなく、誤解を招きがちです。あえて抽象的な埋想社会のようなものを考える必要はないでしょう。
 とはいえ、新しい市民社会も大きな問題を孕んでいます。『市民社会とは何か』でも紹介しましたが、ジョン・エーレンバーグはパットナムを批判して、市民社会を単に政府や市場とは異なる自発的な公共的活動の領域と見るだけでは不十分だと言っています。むしろ、目的や活動内容、役割によって区別が必要ではないか、ということです。また、それらと国家や資本主義経済との関係を考えるべきだとも言っています。
 僕も同感です。政府や市場とは異なる自発的な公共的活動という点では、趣味のサークルも町内会もPTAもcivil society に違いありません。しかし、だからどうしたという話です。それらがどれだけ連携しても、経済には対抗できません。資本主義がもたらす構造的不平等をどのように克服するのか、その点を抜きにしてNGOやNPO、市民団体を持ち上げても、実質的な力にはならないでしょう。
 いずれにせよ、国家(政治)や経済(市場)と区切られ、その中ではあたかも理性的な言論が支配する第三領域としての市民吐会を設定するといった発想は、すでに効力を失っています。そうではなく、現代に生きる私たちが当面なすべきことは、政治的公共圏への参加、そのための経路の再構築を通じて国家(政治)の政策に影響力を行使し、それによって経済(市場)の暴走を抑制し、企業活動の方向転換を促すことだと思うのです。
(終わり、文責:本誌編集部)

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