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研究会報告:未来と食卓―食べもの研究会
自然観・人生観と一体化した農業観

当研究所で行っている研究会の一つ「未来と食卓―食べもの研究会」は、よつ葉グループの各現場で働く職員による参加型の研究会である。二年目となる今年度は「お米」をテーマに、学習会や調理加工実習などに取り組んできた。その集大成として、8月と9月には、関西よつ葉連絡会に農産物を出荷し、地域的にも近隣地域に在住する生産者お二人を囲んで、稲作と我々の生活を主題に座談会を実施した。以下、その報告として、座談会の概括および参加者の感想を掲載する。

はじめに

「未来と食卓―食べもの研究会」は第二期の今年、お米をテーマに、ドブロク作りなども交えて勉強会をやってきました。後半では、ハピー農園(※)の堀悦雄さん(京都府南丹市八木町)を招いて「里山と環境と稲作」について、またアグロス胡麻郷(同日吉町)の橋本昭さんを招いて「日本人の暮らしと稲作」について、二回の座談会を行いました。いずれも実に面白い話が引き出せ、参加者一同大いに喜んだ次第です。橋本さんの話はテーマの入口あたりで時間切れとなってしまったため、ひき続き話をうかがう機会を作ろうと思っていますが、堀さんについては、その農業観はもちろん、自然観から人生観まで含めて話が聞けましたので、ここで紹介したいと思います。
 「私は今でも、百姓って米粒を一粒も作れるわけではない、稲という植物が稔らせてくれる、その世話をすることができるだけだって思っています」と堀さんは言います。無農薬はもちろんのこと、無施肥、不耕起(厳密には表土10センチほどは耕す)の自然農法です。まずは、「土が盛りあがっていく」という、びっくりするような話から紹介します。

 ※「ハッピー農園」と誤解されがちですが、「ハピー」が正解です。堀さんが根室で肉牛の繁殖 をしていた際に出会い、印象に残った牛の名前 に由来するそうです。

土が肥える=土が盛りあがってくる

少し長くなりますが、堀さんのお話をそのまま掲載します。
 「いま、日本の農地でも化学肥料や農薬を多投しすぎたところは土がどんどん痩せていますから、頭打ちからさらに下がり始めてるんですね。生産量が。だから、肥料の量を増やしていくんですよ。肥料をもっとたくさんやったら収量があがると思って、どんどん増やしていくでしょう。その結果、土は痩せていく。植物に無理がかかっているから、生産量が伸びるどころか徐々に下がり始めているんです。そういう田んぼというのはどういうものか、いま百姓をやっていると、踏んだときとかね、鍬で触ったりしたら、土の感覚で分かってくるんですけどね。それは、自分で土を育ててみて初めて分かったんですけど。
 私、いまのところ100%小作なんですよ。全部他人の田んぼです。一番古いので16年前に借りた田んぼ。借りたときは分からないんですよ。10年ぐらいやっているあいだに、徐々に田んぼの数が増えてきて、そうすると私が10年間耕作している田んぼと、今年初めて耕作した田んぼでは、はっきり差が出るんです。それが見えてきて初めて、あぁ、自分がやってきたことは間違っていなかったんだな、ということが、実感として分かってくる。
 そういうふうになるまでは、私なりに一生懸命考えて、草が生えないように対策するんですけれども、なかなかうまくいかないんですよ。ところが、10年ぐらい経って、足裏に弾力を感じるような田んぼや畑になってくると、無理しなくてもじゃまになる草はあんまり生えない。」
 この「弾力を感じる」というのは、研究会のメンバーの西田くんが、打ち合わせのために堀さんの圃場を訪ねて実感しています。「ふわふわしていて、熱中症にかかってふらついているのかと思った」と。
 「それは肥料分が多いというわけではないんですよ。土が生き返ってくるというか。基本的には土って固形物と隙間でできてるんですけれども、ちょうどいいぐらいの隙間がうまくできるかどうか。その隙間に水が満たされているか、空気が満たされているか。基本的には順番に、水がいっぱいになって、それから水がほぼなくなっていく。水がなくなるときには地表から空気を吸い込んでいきますよね。それで水が少なくなっていって、また雨が降ったりすると、再び水で満たされる。そうすることで土中の空気が入れ替わっていく。それによって酸素が補給されるから根が活性化する。そういう土になってくると、ちょっとふかふかした感じになるわけです。
 私も不思議やったのは、田んぼの土が高くなるんです。グランドレベルが上がってくるんですわ。最初は気がつかんかったんですが、水路があって、田んぼへ水を入れるコンクリートの水口
がありますよね。そこから水を入れようとするんですが、気がつくと入らなくなっているんですよ。それまでなら、コンクリートの水口から水を入れて田んぼは全面に水が入っているはずなんですが、使って10年目ぐらいになると、水路に水があるのに田んぼに水が入っていないんです。おかしいな、水口が下がったんかなと思ったんですけれども、そんな形跡はありません。水路に直接つながっていますから、まさか水路全体が下がるわけもない。おかしい、なんでやろ、と。
 よく考えてみると、逆なんですわ。田んぼの土が高くなっていたんです。土の量そのものというより、土の中の隙間が増えたからカサが増えて土の面が高くなって、水を入れるのにも苦労するようになったんです。圃場整備されて20センチ、30センチくらいの大きな畦があるところはそうでもないですが、私のところは未整備田がほとんどでしたから、全面に水を入れるのが難しくなる。
 私のところは除草剤を使っていませんけど、除草剤を使わない場合、土に水がつくとすぐ草が発芽するんです。それを防ぐためには、逆に少なくとも田植えから30日間、できたら40日間ぐらい水を切らさずに、いつも水没している状態にしておきたいんですが、なかなかできない。だから、土をどっかに持ち出さなあかんなぁ、と。だいたい百姓というのは「土一升金一升」とかいって土を大事にするけど、これだけ増えてくると、場所にもよりけりですが、水路とギリギリで畦の低いところやったら、なんとかして土を減らさなければ水が張れない。
 そんなことがあって、思ったんですよね。土というのは育つものというか、育てたんじゃなくて、もともとはそういう性質を持っていたんだ、と。にもかかわらず、人間が痛めつけて痩せさせてしまった。けれども、そういう本来の性質は回復させることができるんやなぁ、と。
 肥料分がそんなに多くなくて、しかも肥えた土になってくると、作物にじゃまをする草というのはわりと少なくなるんです。だから管理がしやすくなる。それに気づいたとき、あぁ、百姓はこれを知ってるからいつまでもできるんやなぁ、と思いましたけどね。」

肥料はいらない、
里山が田んぼを肥やしてくれる

「里山を人間が守るんじゃなくて、里山に人が守られているんだと思うんです。里山があって、そこからいろんな養分を含んだ水が流れてきて、それが里地、田んぼ、畑を潤してくれて、その恵みを百姓がいただいている。」
 このことを意識的に継続的に実現しているのが水田稲作で「水田で稲を育てるというのは、本当に世界に誇れる文化だと思います」。ただし畑はそうはいかない。「一作作れば確実に一作分痩せます。だから何か入れてやらないと続きません」。ちなみに、堀さんは魚のアラを乾燥させたものとか、米糠を発酵させたものなどを使っているようです(ただし豆類は無施肥で)。もっとも、それらの有機肥料でも多投入はよくない、と言っています。「肥料と土の肥え方というのは、ある段階で反比例する時があるんですよ。肥料っ気が増えると土が肥えなくなるというんですかね。そういうのがあって、とにかく入れ過ぎにならないように」。化学肥料が土を痩せさせることは分かっていたが、有機肥料にもそういう面があるとは驚きでした。この点からも、水田というシステムはよくできているわけです。
 「里山が荒れると水がコントロールできなくなる。大雨が降るとドッと流れて、ひどい時には山が崩れていく」と堀さんは憂います。農業者は肥料と農薬に頼ってこれまでの生産レベルを維持できているので、事の深刻さに気づいていない。しかし漁業者の方が敏感で、山に木を植える運動が行われるようになっています。

除草はしない、
ちゃんとやれば雑草は生えない

「田植えから40日間、草を生やさないように管理できたら、もうあとは何をしようと稲が負けることはないです」と堀さんは言います。そのポイントの第一は水です。
 「水を絶対切らさないように。そこはもう命がけですね。4月の末から田ごしらえを始めて、しろかけして、田植えが終わったら水の管理をして、それで40日間。だから4月から7月の中ごろくらいまでは気が抜けない。朝は夜明けくらいに出ていって、夕方暗くなるまで。夏の暑い盛りには、お昼までは仕事しますけど、お昼に帰って来て、水風呂入って、ご飯食べて、それから昼寝するんです。それで3時か4時くらいにまた出ていくんです。だけど、田植えの直後はもう休む暇ないですね。」
 「田植えから30日間は、かけ流しにならないように、たまり水で水が動かないように、それが理想だと思うんですよ」。ところが、中山間地に田んぼがあるため、水路との関係で理想どおりにできない場所があり、大きな差ができる。写真を見せてもらいましたが、シロウト目にも歴然です。
 もう一つのポイントは、密植しないこと。「昔々百姓が言っていた“尺角二本植え”というのは、要するに縦横30センチ間隔で二本ずつ植えていくのが一番効率がいいということです」。ところが、田植え機の都合でそこまではできないそうです。そこで、できるだけ粗いレンジを使って、他の人たちの倍ぐらいの幅で植える。そうすると、分けつする時に稲が上に伸びるのではなく周りに広がる。「いわゆる、ゴリラのガッツポーズって言うんですけど、百姓言葉で。ぐっと広がって光を最大限受けられるようになる。ぐっと行儀悪く、ぐっと広がってる稲じゃないと、収穫が見込めない」。そして「穂が出てくる時にはそれがシュッと立つんですよ」。
 一方、密植すると稲は細く縦に伸びていき、田植え前に元肥をやっているから分けつもどんどん進んで40本、50本にもなる。ところが結果的に穂が出るのは20本ぐらいで、穂も小さくなる。また風通しも悪いから病気にもなりやすい。
 “ゴリラのガッツポーズ”をした稲は分けつこそ20本くらいと少ないが、全部穂が出て、しかも大きな穂になり、米粒も大きい。うまくいく時には反収400キロが可能だそうです。
 ただし、平均は200キロちょいくらい。稲がしょぼしょぼで短くてコンバインを使えず、いったんバインダーで刈って束ねてからコンバインで脱こくする田んぼや、さらに「バインダーでも刈れなくて穂積みしたという田んぼは毎年ありましたね。だから草藁に小さな穂がピッピッと出ているのも、もったいなくて捨てられなくて。それこそ石包丁で刈り集めるような、縄文人になった気分で穂を集めて歩くという(笑)」。

50年間挫折ばかりだった、
今は幸せだと思う

堀さんのお話を聞いていると、心底から「恵みをいただいている」と考えていることが伝わってきました。天候や水利権との関係で水管理がうまくいかず、縄文人なみの収穫しかなくてもそれを受け入れる。「資本を投下して、それに見合う収穫を得る」という考え方と対極にあります。それでなければ、10年もかかってようやく手応えが出てくるような農法にはたどりつけません。
 「自分で育てた物を毎日食べて」「忙しいけれど、自分でしたいからやっているだけのことで、仕事を前か後ろに分ければ時間も自由になり家族で遊びにもいける」。こんな生活が幸せだと言う。この人生観もまた、堀さんの農法と一体をなしています。
 堀さんは1952年、お寺の住職の子として生まれましたが、19才の時に父親が亡くなります。「酒飲みの親父でね、その当時は嫌いやったんですよ。だから坊主にだけはなりたくなかった」。そのため、家族して寺から放り出されることになり、堀さんと姉二人と母の4人は北海道の根室で牛飼いを始めます。ところが、貯金をはたいて牛20頭を買ったにもかかわらず、翌年にはオイルショックの影響で牛の価格が暴落し、破産してしまいました。
 その後、トラックの運転手で生活を維持する中、ふとしたきっかけで短角種の牛170頭ぐらいの育成牧場を任されます。「朝4時から夜8時ぐらいまでぶっ通しです。生き物が相手ですから、それだけ働かないと、その日に絶対しないといけない仕事は終わらなかったんでね」。そんな仕事を家族全員で何とかやり抜いたものの、しばらくしてオーナーの会社が倒産し、抵当に入っていた牧場も閉鎖することになってしまいました。
 文字どおり波瀾万丈の人生は、まだまだ続きます。新聞の三行広告を見て釧路の潜水会社に入社し、クウェートへ派遣されて1年半。その次は堺の潜水会社で3〜4年。潜水の仕事は公共事業がほとんどのため、冬から春先にかけて潜る仕事をし、春から秋は北海道に帰って農業を続けたそうです。ただし、「根室やから一番厳しくてね、できるものはほとんどないんですよ。ジャガイモやったり、麦をちょっとやってみたりとかしましたけれども、なかなか飯を食えるところまでいけないんですよ」という状態だったそうです。
 堺の潜水会社にいるとき、たまたま知り合った人の紹介で京都府の北西、山深い南丹市八木町にやってきたのが16年前。そこで農業に本腰を入れ取り組みながらも、決して思うようにはいきませんでした。なにしろ、10年間は売上高が100万円にも届かず、「今年芽が出なかったら、というか一息つけなかったら、百姓はもう諦めようと思った」そうです。ところが、「その年にたまたま色米が思ったより売れるようになってきて、それで何とか命がつながった」というのですから、まさに「人生塞翁が馬」です。
 「いま59才ですけど、生まれてから50年間、挫折以外なかったですね」。堀さんはそう言いながら、次のように言葉をつなげました。「けど、その挫折があって積み重ねがあって、それを利用することに気がついて、まあその道が見つかった」。「だから今はこんなに幸せでいいんかなと時々思いますけど。幸せな暮らしをしていますね」。
 お話を聞いて、堀さんが決して平坦でない半生を歩みながらも、一貫して自然と直接向き合う生活を送ってきたこと、そうした過程を通じて、自然の営みの中に自分の生活を位置づける術を見出したことがよくわかりました。堀さんの「幸せ」は、自然の一部としての人生を実感しているところからくるのでしょう。そう、農業は農業だけにとどまるものではありません。自然をどう捉えるか、どのように生きるのか、それらと分けることのできない営みであることに、改めて気づかされた座談会でした。 (河合左千夫:鰍竄ウい村)

参加者の感想@
自然との繋がりを取り戻す
そのヒントをもらった

今回、虹色米の堀さんとアグロスの橋本さんをそれぞれ座談会に参加した感想です。
 今回のテーマは「米」という日本人にとっては意識的にも無意識的にも非常に重要な食物を扱うにあたって、ただ単に自分たちが資料等で知っている知識の中から見えてくるものだけではなく、お米を考えれば考えるほどそれを取り囲む人間の生活や文化や環境を無視しては分析していくのが難しいと思われたので、実際にお米を作ることで見えてきた事やその圃場と取り囲む環境に接する人の生活や文化面を、生産者である堀さんと橋本さんの実体験から探っていく機会をもうけました。ただ聞く側の我々としては、何人かのお米作り経験者も居ますが、ほとんどの参加者が年間を通した経験は乏しく、想像の範囲を超えないことは否めませんでした。その話を元に、これからのこの研究会の方向性や考え方について、さらに示唆を与えてくれる事を期待して望んだ次第です。
 橋本さんのお話の中から、お二人のお話を聞いた中で共通する意識を要約しているなと感じた言葉を抜粋します。それは「自然と人との接点が農業ではないかと思った」です。お話を聞いて、それぞれの経歴に全くと言って良いほど共通点の無い人生を歩んで来られたお二人が、ある時点で農業の重要性と人間が自然と呼んでいる環境との接点に気付いて自らその中に入っていく事になったのは、非常に興味深い事です。堀さんは感覚的に。方や橋本さんはアカデミックに。
※    ※    ※
 堀さんとの座談会は、もともと京滋産直の光久さんの提案で、以前堀さんが話していた「僕は米作りを通して代々受け継がれてきた里山の環境を守っているのです」という言葉の意味を聞く事から始めたいという事でした。
 当然の事ですが、放ったらかしの状態で人間の求めているお米の収穫などできるはずがありません。自然を自分たちの求める環境へと変えていく。それが里山であり、山とは違う領域です。もとは山の恩恵に与ることで暮らしていた人間でしたが、農耕を始めたことで山は動物たちの聖域になり、もともとあったはずの木々がその地域を保全してきました。そこから流れてくる水を利用して、人間に都合の良い圃場を作り食物の種を蒔いて収穫してきました。しかし、人間の需要にあわせて植林された針葉樹の森は山が持っていた本来の力を失わせるため、昔の人たちは山も管理する事でさらに環境の保全を考えました。
 かつて山を見ると藤の木はほとんど見る事がなかったそうですが、現在は夏前になるとそこら中に奇麗な藤色の花を咲かせています。ところが、それは山を管理している人がどんどん減っていて、山が荒れている事を物語っているそうです。戦後はさらに合理化が進んだことや、農薬や化学肥料により田畑も疲弊していったそうです。これではいけない、問題点がどこにあるのか。そう考え、里山の全体像を把握し観察する事で、環境の負荷を減らし、稲やその他の作物の生育にも良い状態を保つ事ができると気付いた。堀さんは、そうおっしゃっていました。
 堀さんの田んぼは不耕起栽培で、冬期湛水をしているそうです。土を耕さないことで稲は逆に根を張ろうとして深く伸び、よく分けつするそうです。冬期湛水をする事で田んぼがよく肥えて、肥料もいらないそうです。それだけ米は日本の土壌に合った植物だそうです。
 すべての農家の人たちにこの観察眼が備われば、さらに里山の環境が良くなると感じました。また、都会に住む消費者がこの事を知って、里山の環境を保全する行動に関わって行く事がどこまでできるのか、都会での生活こそがあるべき姿だと開き直っているとすれば、おのずとそのしっぺ返しを受けざるを得ないと感じました。さらに、私自身を含め、よつ葉の配送員がこの事をどのように会員さんに伝えていくのかも、今後の課題になると思いました。「講釈師、見てきた様に話をし」などと昔は良くいったそうですが、さも体験してきた様に話をしても限界があるのではないかと感じます。いろんな種類のお米が混在して育っている田んぼを見るだけでも何か直に感じる事ができるはずなので、是非一度、堀さんの圃場の見学に行くべきだと思っています。
※    ※    ※
 橋本さんのお話は非常に奥が深く、二時間あまりでは話の半分も聞けなかった様に思います。意外だったのは、橋本さんが入植した直後はあまり地元の人達のことを快く思っていなかったという話です。私は実際に橋本さんが地域でいろんな活動をして非常に信頼をされているのを目の当たりにしているので、さらに信じがたいです。
 堀さんとの違いで言えば、堀さんは実践型のお百姓さんで、いろんなことを体験してそのつどいろいろな対処法を考えて失敗する事も多々あったそうです。方や橋本さんは、もともと農学部で勉強していただけに基礎的な知識もあり、耕作だけに終止せず、地域との関わりや環境のこと等もいろんな角度から検証し、いろんな書物や資料を参考にしている様に思いました。最終的にはその場その場での臨機応変な対応になってくるのだと思いますが、アプローチが全く違うのが面白いと思いました。
 橋本さんが参考にした考え方として、安藤昌益の思想があるそうです。先日、図書館で本をひも解いて見たのですが、原本のままの漢文で記されていたので読むのに一苦労しましたし内容の把握にはさらに時間がかかりそうです。もう少しわかりやすく書いた本を探そうと思っています。
 以前橋本さんと個人的にお話する機会あったのですが、橋本さん自身はアグロス胡麻郷という農業生産法人を通じて、完全無農薬を目指す生産よりも、田舎に住む人たちが抱えている問題を克服し、安心して生活していける環境とはどんなものかというような、社会的な意味合いの大きな問題を考えてきたそうです。そのきっかけとして、かつてアグロスが出荷していた消費者組合の会員さんとの関係があったそうです。会員さんからの意見は、非常に消費者側の一方的なもので、生産者の実情を考えているようには感じられず、お金を払えばそれで良いのかという疑問を感じた、とのことでした。このあたりは、よつ葉の考え方に近いと思いました。
 橋本さんのお話は、時間の都合で、お米が我々の文化やアイデンティティにどう関係しているのかを掘り下げるところまでいかなかったので、今後もいろいろとお話を聞く機会を持ちたいと思っています。聞く側の我々も、予習しておく事が必須のように感じました。
※    ※    ※
 今回の座談会で得たこと、そしてこれまでお米をテーマにいろいろな話し合いをしてきたことで、私なりに考えたことをまとめます。まずは、お米が非常に日本の風土に合った穀物であること、そして、実は山から川を通して海につながる水の流れが田んぼや畑だけではなく環境全体に重要なものであり、一部のみを見ていては多くを見失うということがよく分かりました。
 どぶろく作りなども行いましたが、とても簡単にお酒が作れたことで、今までお店で買ってくるだけの非常にドライな感覚であったものが、昔の人たちの有機的な生活の中で活き活きと育まれていたのではないかとダイレクトに感じることができました。
 振り返ってみれば、現代の都市型生活の中では生産の現場というものが見えなくなっていますが、しかし形を変えつつも、今も田舎や里山の生活というものの土台に成り立っているように思います。利便性のみにとらわれて失ってしまった生活の様式を取り戻すことで、今我々が見失っている自然との繋がりについて、実感や知恵が取り戻せるのではないかと感じました。
 3.11以降、東北の米不足が予想されるなか、今一度しっかりと日本人にとってのお米について考察する必要があると考えています。
(西田祐一:鞄吉産地直送センター)

参加者の感想A
学んだことと
職場や日々の暮らしを
どう結びつけるか

「食卓と未来・たべもの研究会」(以下、食研)の今期の大きなテーマは「お米」。様々な資料や情報を持ち寄って議論もしてきました。
 その集大成として、堀さん、橋本さんを迎えての座談会も行いました。
 座談会の前に、お米の価格や備蓄、生産の現状を資料等を持ち寄って議論したのですが、印象的だったのは「自給率」について。お米の生産量や、農業の現状などに目が向きがちですが、実は消費する僕たちによるところも大きい、つまりその食文化によって、自給率は大きく違ってくる、という事です。そもそも僕たちが輸入(食品だけでなく食文化も)に頼らない選択をしていけば、自ずとその数値は改善されます。僕たちの手元から、それも小さな、ひとつひとつの選択から見直していけば、世の中はかなり違ったものになるのではないでしょうか。
 そして、もうひとつ、日本人は必ずしも米食民族ではなかったということ……。多くの農民も日常ではお米を食する事はなかったし、むしろ「米食願望民族」であったという事が分かりました。
 意外と最近まで、地方では身近な(風土に根づいた)実り(木の実・雑穀等)を、食する文化が残っていたという話も興味深かったです。
 堀さんも以前、「たべもの」は本来、選択するものではなく、自然の実り(身近にできたもの)を分かち合うものだ、と語っておられたのを思い出します。
 そして、8月に堀さん、9月に橋本さんを迎えての座談会を行いました。元々は堀さんが昨春のよつ葉交流会のお米シンポジウムで発言された、「僕はただ米作りをしているのではなく、この代々残された環境(里山)を守っているのです」という言葉についてお話を伺いたく企画したのですが、食研に参加を重ねるにつけ、「お米」「稲作」といった括りではおさまらない、「日本人と自然の関わり」へと探究心は深まりました。というより、その事を捉えない限り、日本の稲作及び農業の実情と未来についての考察はあり得ない、という思いが強まりました。
 いわゆる平面的な情報や情勢を知識として蓄積しても、未来の創造はできない。もっと縦軸(それは死者をも含めて、脈々と続く日本人の文化や歴史的背景、自然観)も意識して立体的に物事を捉えないといけないのではないでしょうか。そういった思いもあり、堀さん、橋本さんのお二人は、懐も深く、しなやかでおもしろい、絶好のゲストであったと思います。
 しかし、その思いも、未熟ゆえ少々空回りし、むしろ、お二人の話に感嘆する会となった感は否めません。もっと引き出しを引き出せたのではないかと……。
 それでもお二人の、実践の中から語られる言葉の一つ一つは僕の心に響き、時にかき乱され、さらなる疑問と興味が生まれつつあります。そして、その経験から裏付けされた、哲学ともいうべき「生き方」と「はたらき方」に触れられた事は、僕にとって大きな収穫でした。また、そのテーマ、もしくはゲストに興味を持って、普段のメンバー以外の方も参加して頂けた事は、うれしかったし、まさに「アソシエーション」だと思いました。
 座談会を含め、食研において、それぞれ参加者が持ち寄った資料や情報に触れ、思いのままに議論するうちに、頭の中が整理されるどころか、むしろ混沌となる事がしばしばありました。既成概念というか、それまで自分自身で勝手に落とし込んでしまっていた考えが、根底から覆る事が多々あったのです。
 それは、自分自身の未熟さ、無知を改めて思い知る事になったのですが、その過程で、大事なのは興味を持つ事であり、興味は知識・実感・思想の面で自分を深める入口だと、改めて感じられた数ヶ月でした。また、堅苦しくならず、ざっくばらんに和気あいあいとやってこれた事が、物事を柔軟に捉える事につながったように思います。
 今回は「お米」というテーマを、一見逸脱したようにも見えますが、僕はむしろ、その本質を掘り下げる事ができたと思っています。どんなテーマであれ、情報やモノにとらわれず、むしろそこに関わった人の姿を追いかけていきたいです。そうする事で、自分自身、モノや世の中、そのしくみと、どう向き合い関わって行くのかを、少しでも考えられれば良いと思います。そして、ここで得たものを、各職場や暮らしにどう結び付けていくかを考えていきたいです。(光久健太郎:よつ葉ホームデリバリー京滋)


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