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アソシ研リレーエッセイ
40年後の今、研究者の良心は?

40年前、京大農学部の飯沼二郎さんは「有畜複合農業」こそが自然の豊かな日本にふさわしいと提唱していました。それは当時の農林省がすすめていた、単作化、大規模化、粗放化、機械化と真向から対決するものでした。また、彼は市民運動にも熱心で、京都べ平連の定例デモでもよく姿を見かけました。当時、造反派教官と呼ばれた若手研究者たちの良心の拠り所のような存在でした。
 やはり40年前、京大原子炉実験所の小出裕章さんはすでに「反原発」を鮮明にしていました。助手になりたてで20代半ば、長身で颯爽としていました。ただし彼だけが突出していたわけではありません。工学部の原子核工学科には荻野晃也さんがいましたし、それ以外の造反派教官たちの間では「反原発」は常識となっていました。
 危険だからというだけではありません。事故もなく安全に運転したとしても、大量の核物質を生み出し、中でもプルトニウムは人間の手に負えず、しかも何万年、何十万年も手をわずらわすシロモノで、放射能と人間は共生できないという基本認識が共通にありました。当時、原発はトイレのない高級マンション」と言われていました。住み心地がよさそうに見えてもすぐに汚物まみれ
になってとても住めたものではないということでしょう。伊方原発の運転差止め訴訟に、いろんな分野の研究者が参考人としてこぞって参加したのはこの潮流があってのことです。
 この訴訟に先立ち、瀬戸内海総合汚染調査団の運動がありました。関西一円の研究者が実行委員会を作り、72年の夏に船を一隻チャーターして、瀬戸内海の各所の水質を調査して回りました。水の分析だけでなく、「海のことは漁師が一番知っている」を合言葉に、各地の漁師から聞き取り調査をしたことが、この調査団の一大特色でした。水俣を筆頭に各地で闘われた反公害住民運動と、大学での学生反乱とが科学技術のあり方に疑問をつきつけ、若手の研究者たちが造反しました。
 当誌にエッセイを連載している石田紀郎さんは、瀬戸内海総合汚染調査団実行委の事務局長を務めました。その後も、植物病理学という専門を一切捨て、住民や農民のための分析調査をやり続けました。彼が学科内で獲得(占拠)した「災害研究室」の部屋は、反公害運動に関わっていたぼくたち学生の活動拠点にもなりました。金属工学科の槌田さんは後に大学も捨ててリヤカーをひいて廃品回収を始め、使い捨て時代を考える会の結成へと進んでいきました。
 ゴルフ場の農薬問題やゴミ焼却場のダイオキシン問題を告発した中南元さんは当時阪大理学部の講師(後に大学を辞めて環境監視研の所長)。阪大では孤立無援で、夏休みに京大にやってきて学生実験室を使ってコツコツと分析をやっている姿を見かけました。遺伝学の市川定夫さん(当時京大農学部、後に埼玉大)は専門を生かし、原発周辺のムラサキツユクサの突然変異を調べることで放射能汚染を告発しました。
 「原発反対派」という言葉がありますが、これは推進派が勝手につけたレッテルです。推進派と違って、反対する側は派閥を作っても何の得もありません。40年前の科学技術を問い直す運動の中から、一人一人の研究者が自らの立場を賭けて発した、良心の訴えです。40年後の今、それに続く若手研究者は残念ながらいません。
(河合左千人:鰍竄ウい村)


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