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市民環境研究所から
福島の人々と連帯するために

 東北大震災発生の日は雪が降る寒い冬だったのに、3ヶ月後の6月の猛暑は気象観測歴史上でも異常だという。連日の真夏日と熱帯夜だが、東北震災の被災地の人々にとっては、冬から真夏日までの100日は長かったのだろうか、それともあっと言う間だったのだろうか。いずれにしても、悲しみと怒りが消えない日々だろう。
 先日も南相馬市に在住の知人が当万を訪ねてくれ、ツナミとフクシマ原発を語ってくれた。どのような言葉で相づちを打てばよいのか、戸惑いながら彼の語りに聞き入った。現在は会津若松に避難しているという。
 彼の子供はまだ幼く、妹は妊娠2ヶ月でツナミとフクシマに遭遇したという。ツナミの難を逃れたのに、フクシマ原発崩壊による理不尽な災難を受けられた方々にどのように連帯すればよいのか、オロオロしながら時を過ごしてきた身としては、ひたすら聞き入るしかなかった。
 6月26曰、市民環境研究所も共催団体となった「バイバイ原発・京都」のデモを開催することができた。参加者は1000人と、予想より少なかったが、猛署の中、関西電力京都支店の前を経由しての後進だった。
 ようやく、京都の市民としてフクシマの被災者への連帯を表す機会をつくり出せ、遅ればせながらも我々の思いがフクシマヘ伝わったかと思う。なにも出来ていない我が身なのに、主催者事務局からデモ前のリレートークの一番に指名された。なにかを語らないわけにはいがず、以下のようなメッセージを述べた。
 私たちは、第二次世界大戦を広島、長崎への原爆投下といつ、人類史上はじめての惨事を受け敗戦を迎えた。戦後、その惨事を学びながら、私たちは世界の唯一の被爆国として非核三原則を掲げ、おろかな核使用の根絶を目指し、すくなくとも我が国が核の国でないようにと願ってきた。「核兵器を持たず、作らず、持ち込まず」を守ることを国是として「戦後」を創ってきた。「持ち込まず」はアメリカによって破られているにもかかわらず、守られているかのように装いつつ、「持たず、作らず」だけは固く守られていると思ってきた。
 しかし、今回のフクシマ原発崩壊は「原発という核を持ち作っていたこと」をすべての人に気づかせた。フクシマ原発が地球上に撒き散らした放射能は被爆国として受けたそれよりも大量であり、放出はまだ止んでいない。最早、被爆国にとどまらず自爆国であり、放射能をまき散らした加害国となった。「原子力の平和利用」などというインチキを撲滅することかできなかった我々の責任である。
 私たちは、フクシマ原発崩壊のすぺてを明らかにし、あらゆる原発を廃棄し、真の「非核三原則」を掲げ、「戦後」ではなく「震災後」の新たな社会を構築しなければならない。それが。家を、土地を、田畑を、お墓までも捨てさせて、ふるさとに戻れない流浪の民にしてしまった福島の人々との連帯の始まりである。(石田紀郎)


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