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研究会報告─『マルクスと哲学』読書研究会
現代に立ち向かう方法としてのマルクス

 当研究所では、約一年にわたり『マルクスと哲学』の読書研究会を行ってきた。参加者の約半分は、かつてマルクスの著作を読んだり、マルクス主義と関わる社会運動に参加した経験のある人々。もう半分は、そうした経験がなく、マルクス再読を主題とする本書で初めてマルクスと出会った人々である。今回は後者の人々に集まってもらい、本書の意図がどこにあるのか、それは我々にとってどんな意味を持つのか、著者の田畑稔さん(大阪経済大学)を交えてまとめの座談会を行った。出席者は寺本陽一郎(能勢農場)、高木隆太(高槻市議会議員)、大木明佳(農業)。以下、その概要を紹介する。

「歴史世界」という視座

 【研究所】『マルクスと哲学」、率直に言って用語や概念は非常に分かりにくかっただろうと思います。ただ、この本の意図がどこにあるのか、それが我々にとってどんな意味を持つのか、そのあたりが掴めれば、細かい部分は玄人筋の話なので、素人はこだわらなくてもいいと思います。
 その上で、まず田畑さんから、著者として強調したい部分、あるいは若い世代とマルクスとの出会い方をめぐって、一言お願いします。


 【田畑】この本は現代のマルクス研究として、専門家の中で色々な反響をいただき、昨年の日本哲学会シンポジウムでも私が報告し色んな意見をいただきました。マルクスとの出会いについては自分なりの歴史的背景があるので、この30年、かなり力を入れて読み直しをしてきたという自負があります。ただ、皆さんとは時代状況もマルクスとの出会い方も違うので、この本で、論じた問題がどれほど皆さんの琴線に触れるかと言えば、難しいと思います。少なくとも、いくつか媒介する努力が必要でしょう。
 媒介の努力の一つとして、日常生活世界と歴史世界との関係という問題が考えられます。いま私は、日常生活社会を主題として、比較的若い世代の一般読者に向けた本を書いています。私たちは直接には日常生活社会に生きているので、しばしば日常生活世界だけがすべてだと思っています。実は日常生活世界は自立して存在しているのではなく、常に歴史限界を「織り込む」形でしか日常生活世界は「織り上げ」られないのです。ただ、生活者は日常生活世界が歴史世界を背景にして営まれていることを直接には意識していません。実践的には「織り込み」ながら生活しているにもかかわらず、それに気づかないわけです。気づかないまま日々「織り込んで」いるそうした歴史世界を正面から問題にするところに、マルクスの最大の現代的意味があると思います。
 たとえば、アメリカのマルクス系の歴史学者イマニュエル・ウォーラスティンはこの歴史世界を「モダン・ワールド・システム」と表現しています。500年ほど前にオランダやイギリスあたりから始まるこの歴史世界が私たちを否応なく包摂しながら、現在はグローバル化という形で展開している。私のように70年近く生きていると、歴史世界が日本社会を捉えていく変容過程について、それなりに実感を持って理解できますが、若い人たちと話していると、そういう歴史の変遷過程を実感する経験が比較的にないわけです。
 しかし、歴史を自覚的に生きるには、そうした視線をどこかで確保しておく必要があります。普段は日常生活世界しか視野に入ってきませんが、少し長い広い視野で見ると歴史世界が焦点化し、日常生活世界は歴史世界や自然世界を「織り込み」ながらしか成立しないというプロセスが浮かび上がってきます。
 私も含めて、いわゆる左翼に属する先行世代の考え方の中で、次世代に継承してほしい最大の点は、そうした歴史世界を、また歴史世界と日常生活世界の緊張関係を、常に視野に入れて活動している点です。マルクスとの出会いの根本も、ここに関わってくると思います。

●座談会のもよう

 ただし、先行世代は私も含めていくつか大きな欠点を持っていました。最大の欠点は、20世紀後半に現れた資本主義の新たな展開、新たな形態、それに対抗する変革実践の形について、基本的に読み間違ってしまったことです。率直に言って資本主義の生命力を過小評価し、多くは「ソビエト型社会主義」こ誤った幻想を抱いていました。ここは、先行世代を克服しないといけない点です。
 マルクスの歴史的意義を認めつつ、どのように新しい時代を読み解いたり、、若い人たちに対して説得力のある現状認識や批判理論を展開できるのか。私の思いとしては、そのために、まずアソシエーションを中心に置き、旧い教科書的なマルクス主義を一掃する形でマルクスの再読作業を行いました。社会変革の必要性は日本の現状を見るだけでも依然として切実ですが、マルクスが体験しなかった今日の状況に対して、自分の頭で考え自分たちの実践に即しながら取り組んでいくこと、これが現在の我々の課題だと思います。
 生活世界と変革運動との関係で言うと、私も含めて先行世代の一部には、「革命のためには生活など犠牲にすべきだ」といった考え方が根強くありました。いわば、生活を捨てることが変革への献身を示すという格好だったわけです。しかし、現在は生活そのものが変革のテーマヘと変化しています。この点で、どこまで意識的だったかは別にして、皆さんのネットワークはかねてから政治活動と経済活動をつなぐという立場を貫いてこられた点で、若い世代とつながる部分を持っているのではないかと、外から見ていて思います。

マルクスを踏まえて現代と取り組む

 【研究所】お話にあった「日常世界と歴史世界の関係について、皆さんはどうですか。
 【寺本】これまで先輩方に言われ続けて来たように思います。田畑さんのお話と同じかどうか分かりませんが、要するに自分か今やっていることと世界で起きていることはつながっている、それを見抜く力、自覚する力を身につけなあかん、と。
 それから、新聞や本に書いてあることと身の回りに起きた出来事とを関連させて考えろ、ということもよく言われました。たとえば、新聞で「維新の会」が「国歌を歌う時は起立せえ」と言うた、と。それ自体は一つの出来事だけれども、僕らがこれまで具体的に作ってきた人間関係とのつながりで考えれば、「これまで起立せえへんかったあの先生は、これから起立しはるのやろうか」とかね。そうやって出来事の意味を考える。
 もっと言えば、新聞や本に書いてあることもすべて真実ではない、と。当然メディア操作もあって。そこに権力の持っていこうとする方向が色濃く反映されている。そういう目で見れば、東京で脱原発のデモで1万5000人も集まって、世論も原発に批判的な流れになっているのに、なんで新聞には小さくしか載れへんのか。最近になって、そういうことが少しずつ分かってきたんです。
 【研究所】そういう物事の同時性の一方で、それを支える基盤のような歴史的な流れがありますよね。たとえば、僕らは普段の生活では、農産物を買ってきて食べるという状況について当たり前だと思っている。そうでない可能性についてはほとんど想定外です。でも歴史的に見れば、食べ物を買ってきて食べるというのはたかだか何百年くらいの話でしかない。そうなったのは、資本主義的な生産と消費のあり方が浸透した結果であって、自分たちはその上に乗っかっていると同時に、自分たちでそれを再生産している。
 こうした視点は、やはり日常生活だけからは出てこないし、逆に歴史的世界という視点から見てはじめて、自分たちの日常生活の枠組みなり歴史的基盤なりが見えてくる。そうなると、当たり前に見えるものが実は当たり前ではない。変わらないように見えるものでも実は常に変わってきたということが分かる。もっと言えば、動かし難いように見える現状も、何らかの形で変えていけるという見通しが出てくると思います。
 それで言えば、大木さんが農業をやっていることも、もちろん個人的な決断もあるけれど、歴史的な流れの中で見れば、自然の一部だった人間が農業からだんだん遠ざかって、でもやはり完全には離れられないから、再び結びつくような動きが常に起きてくる。そうした一環だと考えることもできる。もしかしたら、人類史的な転換点を象徴するものかもしれない。いずれにしても、自分の生きている世界について反省的に、限定して捉えることですよね。そんな感覚はありますか。
 【高木】自分対世界、まして自分対歴史世界というような意識は、僕も含めて若い人にはないように思います。ほとんど受け身というか、生きているというより生かされているという状態ですかね。もちろん、そうでない人たちもたくさんいますが、田畑さんの時代に比べると、そういう人の方が多くなってしまった。しかも、歴史的に急激なスピードでそういう社会になっているように思います。これは何だろうな、と常に感じています。そんな中で、自分がこの先どういう社会で生きていくのか、考えるきっかけになればと思ってこの本を読んだんですが、なかなか全体として掴めなくて。部分部分では、たとえば疎外に関する所を読むと、なるほどそういうことなんや、いま起きていることと繋がっていることも分かるんですが、なかなか全体としてつかみきれないというのが、正直な感想です。
 【研究所】大木さんはどうですか。
 【大木】分からない(笑)。
 【研究所】たとえば、自分のやっていることがもう少し大きな流れの中の一つ何じゃないかと、そういう感覚というのはあまりないですか。
 【大木】ピンと来ない。この研究会で、そういう議論があって、他の人が「あ〜」って納得しているのを聞いて、何で納得しているのかが分からない。もちろん、最初に比べれば、いまは何となく「うーん」と思うけど、それを自分の言葉で言おうとしても出てこないです。
 【田畑】先ほど言ったように、この本の射程は、僕らの世代に固有のマルクスとの出会いを背景に、再読を通してマルクスの現代的意味を再確認したところまでです。現代の日常生活世界と歴史世界の相互関係については、いま執筆中の本の中で展開しようとしています。ただ、そこでの分析の視点はマルクスの現代的意味と無関係ではありません。たとえば、現代の日常生活世界で特徴的な「個人化社会」という現象があります。この背景として、マルクスが資本主義の一つの特徴として指摘した「物象化」というキーワードを挙げることができるでしょう。物象化とは、人と人との関係が物と物との関係に置き換わっていくことです。『資本論』でも最も重要な概念の一つです。
 もちろん、資本主義は歴史的に変化しており、マルクスが対象にした19世紀と現代とではかなりの違いがあります。しかし基本的な枠組みとして、人と人との関係を物と物との関係に置き換えていく巨大な力の問題とか、あるいは当時のイギリスでも問題になっていてマルクスも言及している環境負荷の問題など、現象の形は変わっても、資本制というメカニズムの原理的な特徴は変わっていない。その点でマルクスの視点は非常に役に立つと思います。
 現代の若者論について、社会学者の多くは「個人化」を軸に捉えようとしています。たしかに社会学者たちは非常にリアルな分析をしていますが、なぜ「個人化」が生じるのか、それがどんな歴史世界の展開を背景にしているのか、そうした言及は少ない。たとえば、ドイツの社会学者のベックは『リスク社会』で、主として福祉国家との関連で「個人化」を見ようとしています。しかしマルクスの物象化論も、この問題を考えるための不可欠な理綸となるように思われるのです。
 あるいは、日本社会で中間層の再生産が非常に難しくなり、新たな貧困が拡大していること、これも現代の若者の「生きづらさ」の非常に大きなテーマですが、これについてもマルクスの貧困化論が依然として非常に参考になるでしょう。
 もちろん、いまはマルクスを持ち出せば解決になる時代ではありません。だから、データに基づいた現状分析は不可欠です。しかし理論がなければまともな現状分析もできないでしょう。

今日の変革運動と政治

【田畑】先ほども言いましたが、私たちは現実には、歴史世界を織り込まなければ日常生活世界を「織り上げ」られないにもかかわらず、通常は自覚的にそうしているわけではありません。しかし、変革運動に関わる人々は歴史世界と日常生活世界という二つの世界を視野に入れながら、日常生活世界の危機を通じて歴史世界へ向けた通路を見出すことのできるポジションを取ることが重要になってきます。
 とくに現在は、これまでと違って日常生活世界が変革のテーマになっています。生活の質をめぐる問題、生活世界や地球環境の劣化をめぐる問題、あるいはコミュニティの空洞化や家族の弱体化をめぐる問題など、総じて生活世界をどのように再構築するかが中心テーマになっていると言えます。また反戦運動でも、戦争に反対するだけではなく、むしろ「平和構築」に力点が置かれつつあります。紛争や対立の原因には、貧困、教育の崩壊、農村の困窮といった生活世界の危機があるので、生活世界の再建によってそれらを解決し、平和を構築していくわけです。その意味でも、日常生活世界と歴史世界の相互関係が非常に鮮明になっています。変革の過程そのものが基本的に生活に結びついている。この点で、皆さんのネットワークは非常によいポジションを取っているように思います。
 【研究所】高木君はこの前の統一地方選で市会議員になったわけですが、議員としていわゆる政治の部分と生活の部分との関係をどう考えていくか、迫られる問題ですよね。
 【高木】これまで先輩議員の伝統として、市議会でも国政レベルの質問をするという基本的な姿勢がありますが、日常の仕事の大半は細かい市民相談が基本になるでしょうね。市会議員として、生活に一番密着したところで活動するのは当然と言えば当然ですが、一方でそうした生活を規定する法律なり政策は市のレベルだけで決まるわけではない。むしろ現実には、市は府に指図されないと動けないし、府は国に指図されないと動けない。となると、市会議員の動ける範囲も限定されてしまう。そんなジレンマはあるでしょうね。
 【研究所】生活から何かを変えていくという発想では、たとえば市民運動とか住民運動の方が発言も行動もストレートできて、逆に議会になると限界が多いのかもしれませんね。
 【高木】多いでしょうね。公園のフェンスを付けるだけで何が変わるわけでもないし。
 【研究所】一つ一つ積み上げていくとしても、どこへ向かって積み上げていくのか、行政レベルだけでは、なかなか見えてこない。
 【高木】だから橋下さん(大阪府知事)や河村さん(名古屋市長)が持て囃されるんでしょう。
 【田畑】現代日本の政治の特徴として、そういうポピュリスム政治が続いているわけですよね。マスメディアもポピュリスム政治の温床になっている。つまり既存の議会政治は閉塞状況にあって、これを「突破」する印象を与えるカードを切り、そのことで求心力を確保していく。これはやはりきちんと批判すべきでしょう。その点で高木さんにお願いしたいのは、社会運動と議会政治をどうつなげるかということですね。なかなか難しいでしょうけど。
 【高木】そうですね。僕は無所属でやるつもりですが、少数派ということもあって、どのみち議会の中でやれることは限られています。議会の中だけでやろうとすると、どうしても会派で与党に近づいて具体的に行政を動かすという発想になってしまうので、議会から引いて見ることは重要だと思います。ただ、そうは言っても議員なので、議会の中でどう動くか、そこで市民にどう応えるかという問題は中心になりますね。
 【田畑】鳩山政権の際に「新しい公共」がアッピールされました。私の理解では、このアッピールの背景には、市民の自主的連帯組織の積極展開なしに、国家、家族、会社、市場という現行基本制度の枠組みにとどまる限り、日本の将来展望は全く立たないというきびしい現実があります。しかし、いわゆる労働者協同組合法も、政争がらみでまた先送りになりました。社会運動がいかに独自の政治的な力を蓄え、陣地をつくっていくかということがますます重要になっています。ただし、だからといって、議会なんかどうでもいい、というように捉えると、逆の極論になってしまいます。やはり、軸足は社会運動に置きながら、その力を背景に、議会に対しても働きかけを行うような構えが基本だろうと思います。
 【高木】ポピュリスムで不思議なのは、選挙で投票に行く人の大半が、投票しているにもかかわらず議会を全く無視するというか、議会不要論に集中していくことです。
 【田畑】いまポピュリスム政治で一番受けるのは公務員叩きや議会叩きですね。小泉さんから橋下さんまで一貫しています。公務員は優遇されているとか、議員は少なくていいとか、大した内容はありません。ただ、「新しい公共」もそうですが、行政に任せたり議会に任せたりといった、これまでのやり方が通用しなくなっている面もあります。いわゆる民主主義のモデルとしても、選挙民の代理として代表が政治を行う形ではなく、市民社会の多様な運動体が政治のアクターとして活動し、それが議会を規制していく形、いわゆる「アソシエイティブ・デモクラシー」に変わらねばなりません。行政や官僚が占有してきた権限をできるだけ市民社会に分けていく、そうした変革の戦略は必要でしょう。
 【高木】各自治体でも、役所や議会だけではもう問題解決できないから、何とか市民の力を取り込もうとして自治基本条例などを作ってやっていますが、多くは形骸化しているみたいです。
 【田畑】そうでしょうね。ただ、ポピュリスム政治のイメージする「拍手喝さい」する市民像と、アソシエイティブ・デモクラシーのイメージする市民像とはまったく違うものですから、長期的にはそこが勝負どころになるだろうと思うんですね。その意味でも、ポピュリスム政治は徹底して批判しないといけないと思います。
 現状では民主党も新しい政策一つ満足に実現できずじまいで、幻滅だけが残ったのが実感ですね。だからといって必ずしも自民党が挽回しているわけではない。ほかの既成政党も間違いなく閉塞状況にある。だから閉塞状況を「打破」してくれるかに見えるポピュリスムの土壌は拡大し続けているという感じがしますよね。例え少数でも民主主義の新しい形を実践しているかどうかがポイントだろうと思うんです。
 【高木】僕も実際、これからやって行く中で模索していきたいと思っています。

「哲学」イメージをめぐって

【研究所】さて、『マルクス哲学』というタイトルにあるように、この本はマルクスと哲学との関係を中心テーマにしています。「マルクス」もそうですが、「哲学」と言われると、取っつきやすいイメージではないですよね。皆さん、哲学に対するイメージはどうですか。
 【高木】僕は美大にいたとき先生から、口酸っぱく「哲学の本を読め、それが描く時のヒントになるから」と言われました。結局は中退したんですが、今回の研究会を通じて、やはりそれがあるのとないのでは、絵を描く時でも日常生活でも全然違うんだなと、分かったような気がします。何を描きたいのか、理由というか考え方の元になる部分に哲学がないと、結局は自分がなぜそれを描いているのか分からない。とくに抽象画になると、あるものを描くわけではないですからね。
 【大木】普段の生活で意識してないことを意識させるものという感じですね。今回の研究会で思ったのは、何も考えなかったら普通に流れていくけれど、哲学的に考えたら私たちのいるいまの社会がどう位置づけられるのか、こんなふうに言葉として表わせるのか、と驚きました。これがはっきり理解できたら、たぶん世界はもっと違うように見えるんだろうな、と思いつつ、でも正直なところ全然理解できないという感じです。
 【寺本】僕は農場におるから仕事と生活が一緒になってるんですけど、その中でいろいろ考えることがあります。ほとんど意識せずに過ごしている日常だけれども、哲学で考えるようなことをやっとんねんな、と。この本に限らず、いろいろ難しい本を何回も読んできたというか読まされてきた中で、時々パッと気づいて、あの時の本に書いてあったのはこういうことかな、と思う時があ
るんですね。
 たとえば、自分が決めたり、やろうと思ったことの根拠まで突き詰めて考えていなくて、とりあえずうまくいくということだけで進んでいる。でも、何故それをいいと思うのかというところまでは踏み込んで行かない。たぶんそこに踏み込んで行けば、整理できないことが出てきて、それを整理するためにこういう本を読むことで、もっと深く自分の価値観というか自分が思っていることが分かっていくんじゃないか。
 農場には、そういう場面が散りばめられてるんですよね。たとえば、イチゴ狩り。予約を取って人数を確定し、来たお客さんに800円もらう。きょうぴ800円で無農薬イチゴ食べ放題、時間制限もなしなんて、どこにもないわけですよね。にもかかわらず800円でやっている。これが予約なしで、「いつでも来てください、ただしイチゴがあるかないか分かりません、何人くるかも分かりません」と言うんならまだしも、うちみたいにやっていたら、成り立たんでしょう。
 と、こんな話をしているときに、はたと考えるわけですよね。こういう割に合わんようなことをやっているのは何でやねん。結局、僕らがお客さんとの関係をどんなふうに作っていこうとしているのかにかかわっているんちゃうか、と。現場ではこんなことがけっこう散りばめられていて、そのあたりが哲学につながるんじゃないか。
 もともと、僕は哲学の勉強なんてしたこともないし、よく分からんけれども、よつ葉グループに入って20年の間にこういう本を何冊か読んで、訳の分からん議論をして、なんとなく突き詰めて考えるようなことが身についてきた。僕の勝手な解釈ですけどね。だから、この本についても、現場で考えたことを、もう少し踏み込んで考えてみようという気になるんですよ。

「哲学」の内部から外部へ

【研究所】この本で内容的なポイントとなるのは、マルクスが哲学の中から外に出たということだと思うんですね。そうなると、その哲学がどういうものか、何故そこから出ざるを得なかったのかという話になると思うんですが、その点についてお願いします。
 【田畑】はい。寺本さんのお話で思ったのは、孔子の「学びて思わざれば罔し」という言葉ですね。これは、本だけ読んで実際の生活で学問なり哲学の意味を考えないような人間は、いつまで経っても迷妄に留まるという意味です。言い換えれば、本を読むことが哲学ではない、生活の中で哲学的思考が働いている。あるいは哲学者だけが哲学するのではなく、本を読む人間が哲学するのでもなく、生活の中で現に哲学が機能している。それを自覚し、鋭くするという、そこが僕の哲学の中心なんです。
 マルクスの哲学に対する態度は、時代とともにいくつか変化しています。それを追いかけることで、哲学をめぐる問題全体が見えてくるのではないかと思います。
 まずは第1段階です。マルクスが最初に哲学を強く意識したのは、理念の重要性という点ですね。社会を変えようと思ったら、何らかの理念が不可欠です。現実がこうなっているという分析だけではなく、こうあるべきだという理念がなければ、そもそも世の中を変えようとも思いません。だから、まずは理念主義・理念論から始まるのも、当然と言えば当然です。
 理念主義・理念論は非常に評判が悪いです。理念は立派だけれども現実が伴わないとか、机上の空論とか。アソシエーションも理念論に終わるのではないかと言われるんですが、しかし哲学の一つの役割は正面から理念を提示することです。これは非常に重要です。経験的現実をいくら列挙しても「あるべき姿」は出てきませんから、本当に世の中変えようと思えば、明確な理念を持たないといけない。これは今でも言えると思いますね。
 では、どうしてマルクスが理念論を越えたかと言えば、それは実際に理念論の挫折を経験したからです。理念論を持つ人間には。往々にして楽観的な信条があります。たとえば、現実は不条理だけれども、一皮剥けば隠れていた理念が現実を支配してくれる。あるいは、エゴイズムだらけの世の中でも、正しいことを言えば分かってくれるんだ、と。
 マルクスも20代の中盤で『ライン新聞』の編集長に就任し、哲学者が理念を説けば世の中はよくなるという楽観的な見通しのもとに「こういうエゴイズムはだめだ」とか、「真に理性的なドイツにしましょう」といった記事を書いています。それを読めば、誰もが「はーっ、よく分りました」と言うと思っていた節があります。しかし実際には、そんなことあり得ない。むしろ、当時のドイツには言論の自由はありませんから、筆禍の責任をとってパリへ追放されてしまう。理念論に基づく楽観的な認識は現実の実践で挫折するんです。
 そこで次にどう考えたかというと、世の中を変えようと思えば哲学が重要で、理念を語らないといけないけれども、それだけでは不十分である。そうした理念に呼応する現実の勢力が出てこないとだめだ、と。そこで、彼はバリで哲学者とプロレタリア(労働者)の「歴史的ブロック」を構想しました。これが第2段階です。
 当時のパリは労働者共産主義運動が盛んで、何十万人も共産主義者がいたと言われています。共産主義が一種のブームだったんですね。非常に感受性の強いマルクスは、まだ若かったこともあって、その渦中で大きな衝撃を受けます。そして、理念を語るだけでは世の中は変わらず、むしろ現実の苦悩の中から理念に呼応する現実の勢力が現れ、それが哲学と手を結ぶことによって初めて世の中が変わるという変革構想に至るわけです。
 哲学とプロレタリアが「歴史的ブロック」を組んで、一つにまとまることによって社会が変わるという発想が出てくるのは、その背景に、身体とか感性の部分を代表するプロレタリアと精神とか理性の部分を代表する哲学とがつながることで、全体としての人間が実現されるという考えがあるからです。いわゆる人間主義ですね。ここから、資本主義の中で危機に瀕したプロレタリアの生活をどう再建するか、プロレタリアの物質的生活を共産主義的にどう編成すべきか、といった局面に焦点が移っていきます。
 ところが、しばらくして、この段階も克服されます。というのも、哲学者とプロレタリアが歴史的ブロックを組むと言っても、プロレタリアにとって哲学者の抽象的な本質論はもう一つピンとこないわけですね。だいたい哲学者は、自分が現に入り込んでいる生活諸関係の具体的なありようよりも、むしろそうした現象の背後に想定する「本質」について専ら関心を持つ傾向があります。哲学者は大衆の意識に対しては批判的に振舞う一方で、哲学的行為自体がその上で行われている現実に対して無批判に留まっている。本質の把握がそのまま変革と見なされるために、「運動」という発想もあまりない。
 社会主義者や共産主義者の中にも、「資本主義は人間の本性には合わないから、我々が人間の本性に合ったシステムのプランを作って提示すれば、うまくいくはずだ」というように考える哲学系の人が結構いたんですね。マルクスも当初はそういう哲学に近かったんですが、運動と結びつこうとすれば、具体的に政治的な選択を迫られるわけで、そこから彼は具体的に現状分析したり、実践的課題を提起して呼びかけたりするようになります。ある人への手紙に「共産主義からの哲学の一掃」 という厳しい表現を使うほどでした。

●『マルクスと哲学』新泉社、2004年

 マルクスから見れば、哲学には現に人間たちが生活しているあり方を批判的に分析するという問題意識が欠けており、その意味で哲学は一種のイデオロギー(倒錯した意識)に過ぎない、それに対して自分は、人間たちが現にどういう関係に入り込んでいるのか、現にどういう亀裂を抱え込んでいるのか、どういう実践的な対応が求められているのか、そういうことを考えるんだ、ということですね。とくに経済的な諸関係を軸にしながら、人間の本性ではなくて現実の人間を分析していく。だから人間主義からも脱皮してしまう。これ以降、マルクスは意識的に哲学の外部にポジションを取ろうとしたと思います。

「哲学」と批判的概念把握

 【田畑】ただ、外部のポジションといっても、当初は哲学的認識ではなく実証的認識、つまり具体的な事例を調査し、さまざまなデータを集めた上で、現実の人間の姿を分析し、それによって哲学的な抽象思考を攻撃するという形になります。これが第3段階です。
 ところが、ちょうど『資本論』を執筆した時期になると、また変化します。『資本論』では同時代の人間の経済的諸関係に焦点を当て、非常に膨大なデータを駆使しながら資本主義の理論分析を行っています。しかし、単なるデータの羅列ではありません。むしろ、そうしたデータを通じて、その背後に大きな理論的認識を打ち立てています。先ほども言いましたが、実証研究でデータをどれだけ並べても、それだけでは理論認識になりません。何らかの方法的な前提があったり、理論的なメスを入れて初めて個々のデータを総合し、理論的に再構成できる。実証主義だけだと、限定された範囲の事実レベルは押さえていても、全体的な構図がどうなっているかについては語らないわけです。
 実は、いわゆる近代諸科学が発展していったのは、ちょうどマルクスの生きた時代でした。それまで学問と言えば哲学という大きな括りがあって、その中に自然科学も社会科学も含まれていたわけですが、自然科学や社会科学が哲学から分離して、それぞれ個別の領域を持った実証科学が一挙に現れてきました。
 経済学でも実証主義が主流になっていきます。この立場からすれば、マルクスのように歴史をトータルに扱ったり、社会変革を考えたりするのは現実離れも甚だしい。それはヘーゲルの悪い影響であって、『資本論』は経済学ではなく経済哲学だ、という批判を受ける。
 しかし、マルクスの立場からすれば、『資本論』にあるように、いわゆる「俗流経済学」とかズブズブの実証主義こそ批判されねばなりません。たとえば、誰もが「地代」という現象を当然と思っており、土地を持っている人は必ず地代で儲けようと思いますね。しかし、考えてみたら土地がお金を生むはずがないわけですよ。しかし、経済学では地代そのものを批判することではなく、むしろ当然の前提として置いたうえで理論を組み立てる。あるいは、どんな労働も必ず賃金を伴うと思い込んでいる。それは、実は近代に固有の現象なのに、当然の前提にしてしまう。こうした考え方を、マルクスは「フェティシズム」として批判していますが、悪い意味での実証主義はそうした欠陥を孕んでいます。
 そこでマルクスは。わざわざ『資本論』の第二版で「自分はヘーゲルの弟子である」と、つまり個別の現象を扱いながらも常にそれを全体の中で捉えていくという、ヘーゲル流の「概念的把握」を自分は継承するんだ、と宣言してるんです。これが第4段階ですね。だから、哲学と完全に一線を画すという第3段階とは、明らかにベクトルが変わっている。哲学を全部捨てたら実証主義にやられてしまう、社会変革なんてできっこない、ということですね。        
 この点で、僕は「批判的概念把握」という言葉を使っていますが、概念把握というのは「〜とは」で考えることです。たとえば、人間を概念把握する場合、「人間とは……である」と考える。資本主義の概念把握は、「資本主義とは……である」。
 普通はこんな大上段の構えは取りません。とりあえず儲かればいいとは考えても、そもそも資本主義とは何か、などどいう概念把握は古臭い思考様式と敬遠されるはずです。マルクスはそこが違う。常に歴史世界と日常生活世界の緊張関係という構図の中で物事を捉えようとしているんです。
 ただし、第4段階で哲学に戻ったかというと、そうではありません。ここは非常に重要です。
 マルクスも晩年はけっこう有名人になって、ロシアやフランスで「マルクス主義者」を自称する人たちが現れます。ところが、「マルクス主義者」たちはマルクスを一種の歴史哲学として受け入れようとします。
 マルクスはあくまで19世紀のイギリスの資本主義を中心に実証研究を行い、モデルを作りながら「資本主義とは」という概念把握をしようとしました。にもかかわらず、「マルクス主義者」たちは、それを「本質」と捉え、現実の分析もなしに全世界が分ったような気になってしまった。その結果、歴史というのは必ず原始共同体から始まり、奴隷制になって、封建制になって、資本主義になって共産主義になるんだ、というような一種の歴史哲学に陥るわけです。
 ごく最近まで日本の左翼にも根強かったですが、すでにマルクスの晩年に彼の周辺にそうした傾向が現れていた。それに対してマルクスは「自分とはまったく関係ない」と明言しています。マルクスがあくまで哲学の外にポジションを置いたことの意味として、非常にこだわりたい部分です。

「隠し味」としてのマルクス

 【研究所】マルクスと哲学との関係は、いろいろな問題と関わってくるでしょうね。たとえば、よつ葉グループの場合で言うと、元々は政治活動をやっていた人たちが集まって、おおむね理念主義で始めた、と。ところが、時代的にも政治活動が行き詰まる中で、理念主義だけではアカン、もっと大衆に食い込んでいかないと、ということで、産直活勁を通じて日常の生活諸関係というか、社会の経済的な部分に入り込んでいった。入り込んでみると、それはそれで面白いんだけども、それだけでは変革にならない。むしろ日常的な経済活動に収斂してしまえば、どこぞの生協みたいになってしまう、と。
 恐らく、そんな形でやってきた結果、先行世代としては、「モノより人」とか「人と人との関係」といった言葉を実践の中で獲得してきたんでしょう。ところが、それを受け継ぐ側としては、その言葉が前提として捉えられ、自分自身の具体的な経験を抜きに、一種の本質として扱われるようになってしまう。そんなことを感じましたね。
 【高木】僕も深く考えもせず、似たようなことを何回も言いましたけど(笑)。
 【寺本】その傾向は否定できひんなあ(笑)。
 【研究所】そういう意味では、哲学との関係に示されるマルクスの思考の変化は、何も特殊な人の特殊な思考の結果ということではなくて、むしろ人間として非常にありがちなパターンじゃないですか。マルクスが特殊なのは、それを突き詰めたことでしょう。僕たちの場合も、現実のいろいろな問題に直面した際に、本質論にも実証主義にも偏らずに正面切って立ち向かっていけるかどうか、難しいけどポイントですね。
 【田畑】だから、僕はマルクスと哲学との関係を4つのモデルで説明しましたが、そのうちのどれがいいとか悪いとか、あるいはどれが真のマルクスか、ではなくて、それぞれが現実を反映していると思いますね。
 【研究所】最後に一言、何かありましたら。
 【高木】この前、知り合いに「こういう研究会があって、僕も参加しているんです」と言ったら、「ええ、まだやってるの」「マルクスなんか終わってるよ」みたいなことを言われまして(苦笑)。
 【田畑】この前の日本哲学会でも、若い人から「いまごろマルクスなんかやって大丈夫か不安になります。先生はどう思いますか」という趣旨の質問をされましたよ(笑)。不安ならやめたらいいのに、と思いつつ、とりあえず質問者の顔を立てて言ったのは、「隠し味としてのマルクス」です。隠し味としてマルクスを持っている人と、持っていない人では雲泥の差がある。政治家や官僚、経営者といった現在の日本の国家システムを動かしている人々の中にも、かつて学生運動をしたり、共産党に所属したりして、少なからず隠し味としてマルクスを持っている人がいるんです。
 つまり、歴史世界を意識しながら日常生活世界を生きるという構えは、大所高所からカードを切れると言う意味で、体制にとっても役に立つんですね。いまは体制側にマルクスの洗礼を受けた人が少なくなって、短期的視野で有能な人間は多いものの、大局を仕切る人間が少なくなっている。その意味で、体制側もしんどくなっているんじゃないでしょうか。
 【研究所】歴史の皮肉ということでしょうか。今日は長時間、どうもありがとうございました。
(終わり)


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