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アソシ研リレーエッセイ
震災現地の忘れ得ぬことども

 大阪を出発して10日がたった。宮城県東松島市にある住宅をベースキャンプとして使わせてもらい、いくつかの避難所へ救援物資を届けること、また石巻市にある被災された水産加工工場のゴミとヘドロ出し、これが私たちの救援活動の主な内容である。
 たとえ重機を工場内に入れるにしても、ゴミやヘドロを片付けなければ仕事にならない。だが、実のところ頼みの綱の重機がどこに頼んでもない。必然的に、ほとんどがスコップでの手作業となる。時には大きな加工用の機械の下に潜り込み、砂と重油と生魚やすり身の入り混じったヘドロを小さなヘラや指で掻き出さなければならないこともある。かなり根気と勇気のいる作業だ。
 「73人いた従業員を3月30日付で全員解雇した時が一番辛かった」。腐臭の闇の中でポツリとT社長が言った。表情はわからないが、声は微かに震えていた。苦渋の選択だった。幾夜も眠れなかったという。件の日、あまりの胃の痛さに避難所から救急車で運び出されたのだという。
 そんなT社長の表情が、ある日を境に急に明るくなった。元社員の中心メンバーが集まって会議をしたのである。その席上、自らが解雇したメンバーを前にT社長は、後ろめたさ、情けなさに苛まれながらも会社再建を提案した。間髪おかずに参加者全員から「やりましょう。がんばりましょう」の声があがった。従業員たちもT社長のその一言を待っていたのである。明るくなったのは、仲間を得たその翌日からだ。後日、この話を幾分誇らしげに報告してくれたT社長の笑顔を、私たちは一生忘れない。
 陸前高田市は、石巻市とは違う意味で壊滅している。建物という建物がない。一面瓦礫の山である。ほとんど誰も後片付けをしていない。まるで無慈悲な一斉空爆を受けたような風景である。それでも、誰が立てたのか、青空と桜満開の中、三匹の大きな鯉のぼりが海に向かって咆哮しながら泳いでいた。
 先祖代々、この地で味噌・醤油屋を営んできたY商店のK社長のことを報告したい。地震の直後に20数人の従業員を外に待避させ、素早く点呼をとり、全員そろってかねてから集落単位で決まっている避難場所に直行した。だが、直感的に「ここでは危ない」と思い、一旦、平地に降りてから向かいの山に移動したのである。決められた避難場所に留まった人たちは、津波にのまれた。まさにとっさの判断が従業員の命を救ったのだ。
 避難所になっている自動車学校の待合室で、K社長は語った。「俺は従業員にこう言ったんだ。皆さんを一人たりともクビにはしません、とね」。しかし、自信や根拠があったわけではなかったそうだ。ただ、自分の正直な気持ちがそう言わせたのである。周りにも自分にも希望が欲しかったのである。自分はこの地から離れず逃げず、震災に真っ向から挑むことを事業家として誰よりも早く表明したのである。
 従業員の中には、家族や親戚を亡くした人もいる。多くの人が生涯消えない心の傷を負った。そんな中でK社長は言う。「みんないろいろな事情があって、ついてこれないからと見捨てることは絶対にしない」。その凛々しい声を、私たちは一生忘れない。
(渡邊 了:府南産直センター)


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