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市民環境研究所から
チェルノブイリからフクシマへ

 東日本大震災の悲しみと怒りが渦巻く日本を後にして、中央アジア・カザフスタン共和国にあるアラル海に出立したのは3月末だった。アルマティ空港に着くと、15年間も一緒に働いている運転手が待っていてくれる。いつもと変わらない笑顔だが、握手するなり「ツナミ、フクシマは大丈夫だったか」と言ってくれる。アラル海はここから2000キロもの彼方。列車で2日間、車で1日かかって、シルダリア川の河口の村・カラテレンに到着する。人口数百人、沙漠のこの村が、我が植林事業の拠点である。
 10年以上の付き合いとなる宿の主人は、シルダリア川の漁師である。会うなり、「ツナミとフクシマ」の見舞いを言われた。面積が日本の7倍あるカザフから見れば、あたかもツナミが細長い日本列島の太平洋側から日本海側まで通り抜けて行ったように思えるらしい。そのためだろう、アルマティの知人は、ダーチャ(別荘)をやるから移住しろよ、と言う。どこへ行っても、真剣に心配してくれた。
 日本の無償援助を受けている団体は、“ツナミとフクシマで大変だから、援助停止になるのでは?”と心配顔で訊ねてくる。ソ連邦の時代、カザフには「セミパラチンスク」という核実験場があった。今なお、放射能汚染による住民の健康被害が深刻である。そんなカザフ人にとって、フクシマはセミパラチンスクであり、チェルノブイリでもあるのだ。
 こんな慰めや励ましを得て、2週間後に帰国して見たフクシマは、悲劇的状況である。20キロ、30キロの退避区域から警戒区域を設定する事態になったという。この地域の人々が自宅へ帰れるのは、いつになるのだろうか。折しもチェルノブイリから25周年、帰りたくても帰れない人々の悲しい物語はフクシマへと続いていく。原子力発電という危険で愚かで未熟な技術を、いつまで使うのだろうか。いまこそ、脱原発の時である。
 4月24日、市民団体「京都反原発めだかの学校」が主催した講演会に出かけた。決して広くはない講演会場は満席、人々は玄関の外にも溢れていた。多くの人々がマスメディアのいい加減な報道を見抜き、事態の深刻さを感知している。ただ、残念なのは、若者の参加が少なかったことだ。心やさしい現代の若者は、ボランティアには応募しても、世の中を批判し、変えようとする行動には出ないのだろうか。若者だけではない。ひたすら沈黙を続ける研究者もあまりに多い。そんな中、槌田劭さんがよびかけてくれた政府への提言書に、これだけは緊急に発言しなければとの思いで協力した。その内容は次の2点である。
 @現在、公表されている大気中の放射線量や甲状腺の内部被曝量は恐るべき高水準にある。30q圏外飯舘村や川俣町、いわき市などでも、その現状は危惧ですますことのできない高レベルの汚染である。まず緊急対策として幼児・妊婦の疎開に政府は責任をとり、そのために経済的支援を用意すべきである。
 A学校敷地、通学路、公園など子供の生活空間・敷地については、早急なる除染の作業を行い、被害軽減の対策を進めることが必要である。
 発生している事態を正確に把握し、被害を拡大しないために動かねば、と思う。(石田紀郎)


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