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「エリザベート解説」



「エリザベート」は、ウィーン産ミュージカルである。
 世界的にヒットするミュージカルといえば、ロンドン産やブロードウェイ産と相場が決まっているなか、「エリザベート」は数少ない例外となった作品だ。

 脚本のミヒャエル・クンツェはチェコ人、作曲家のシルヴェスター・リーヴァイはハンガリー人で、2人ともドイツに在住している。
 彼らが初めてコンビを組んで作ったこのミュージカルは、1992年 にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場(モーツァルトの「魔笛」が初演されたという由緒ある劇場)で開幕して以来、6年間もロングランを続け、150万人の観客を動員した(ちなみに、公演が終了した1998年は、エリザベート没後100年にあたる年で、ウィーンではエリザベートグッズが溢れかえっていた。私はせっかくこの記念すべき年にウィーンに行ったのに、ちょうど劇場がオフシーズンに入ってしまい、結局本場の「エリザベート」を観ることができなかった。痛恨の思い出である)。

 「エリザベート」は、最初はウィーンだけで上演されている、言ってみればローカルなミュージカルだった。
 エリザベートはヨーロッパでは超有名人だから、その生涯を描いたミュージカルが地元で話題になるのはまあそれほど珍しくないだろう。
 その局地的なヒット作を世界に広めた貢献者は、日本の宝塚歌劇団だ。
 宝塚は早くからこの作品に目をつけ、宝塚向きに大幅にアレンジを加えた末、雪組1996年ウィーン以外では初めての上演を行った。
 このミュージカルはいろいろな意味で難易度の高い作品で、宝塚に向かない部分もあったため、最初は懸念の声も聞かれたが、蓋を開けてみたら大成功。
 オリジナル作品の質の高さと宝塚ならではの武器が相乗効果となって、宝塚の評価と「エリザベート」という作品の評価、さらにミュージカルというジャンルの評価、ついでにエリザベートという歴史上の人物の評価までまとめて上がってしまった。
 この後、宝塚版を踏襲した形で1996年〜1998年にはハンガリーでも上演され、昨年からはオランダスウェーデンでも上演が始まっている。
 また、宝塚でも、雪組のあとに続いて1996年〜1997年星組が、1998年〜1999年宙組がそれぞれ上演しており、「エリザベート」は今や宝塚の十八番ともいうべき作品に成長している。

 私が初めて出会った「エリザベート」は、日本初演となった宝塚雪組の「エリザベート」(1996年6月)だった。
 このときの衝撃は今でも忘れることができない。
 最初は物語のおもしろさ、音楽のすばらしさにただただ圧倒され、終わったあとも今までに味わったことのない興奮と混乱が収まらず、人に伝えようとしても「とにかくすごい。すごくいい」としかいえないような状態が続いた。
 今思えば、このときは「エリザベート」のすごさを、本当に表面の皮一枚分くらいしかわかっていなかったんだと思う。
 このあと、ビデオを購入してエリザベート熱はさらにヒートした。
 何回観ても飽きない。
 飽きないどころか、観れば観るほどあらたなおもしろさが見つかってしまう。
 我慢できずにもう一度観る。
 「ビデオがすりきれちゃうー」と思いながら、また観る。
 その繰り返しで、最後にはついにビデオのテープおこしをして採録台本まで作ってしまった。
 まさに「エリザベート地獄」状態。
 誰か私をとめてくれーという感じでした。
 自分自身が充分堪能すると、今度はこの感動を人に伝えたいと思うのが人情。
 で、次は宝塚ファンでない人も含めていろいろな人にせっせとビデオを送りつけては、「ね、いいでしょ。いいでしょ」と賛辞を強要するという布教に励む日々が続いた。
 本当は離れているのがつらいので貸したくないのだが、一方ではこのすばらしさを一人でも多くの人にわかってもらいたいという気持ちもあり、そのジレンマにもだえ苦しんだものです(ちなみに、本当のファンは布教用と観賞用に同じビデオを2本買うのが基本なんだそうだ)。
 その結果、私のまわりにもエリザベート中毒患者が多数発生し、日常会話やメールの件名に「エリザベート」のセリフや歌詞を盛り込むのは当たり前……という理想的な環境が作り上げられていったのでした。
 その後、星組、宙組の「エリザベート」を観ることができ、上演するたびに違う顔を見せるこの作品にますます魅了されていったが、今回初めて宝塚以外で「エリザベート」が上演されると聞いて、久々に胸が高鳴った。
 宝塚版はかなりアレンジが加えられており、それはそれですごく成功していると思うのだが、ファンとして、やはりウィーン原典版がどういうものなのか一度は観ておきたいと常々思っていた(現地まで行って見逃しているだけによけい……)。
 だが、その実態はウィーンで買ったCDから偲ぶしか方法はない。
 ところが、今度の帝劇公演はウィーン原典版に近い形で上演されるのだという。
 完全ではないにしろ、これで幻のオリジナル版が三次元で観られる!という期待をこめて観にいってきた。
 というのが、これまでのあらすじだ。
 前置きが長くなりましたが、以下、ストーリー説明に入ります。

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 1898年、ジュネーブ・レマン湖のほとりで、オーストリア皇后エリザベート(一路真輝)が暗殺された。
 暗殺者の名前はルイジ・ルキーニ(高島政宏)。イタリア人の無政府主義者だった。
 逮捕された彼は刑務所独房内で自殺を図ったが、その後煉獄で100年間にわたって同じ質問をされ続けている。
 「なぜ皇后を暗殺したのか?」
 この問いに対し、ルキーニは「皇后本人が望んだから」と不敵な態度で答える。
 それを証明するため、彼は黄泉の国の死者たちを蘇らせ、エリザベートについて語らせ始める。
 エリザベートゆかりの人々が次々に蘇るなか、黄泉の帝王トート=死(山口祐一郎/内野聖陽)が登場し、「エリザベートを愛してしまった」と歌う。
 ルキーニは、自らを2人の愛を成就させるために使わされた使徒だと語り、エリザベートの生涯を再現し始める。

 バイエルンの公女・エリザベートは15歳。
 乗馬と詩を書くのが大好きな彼女は、規律を嫌い、気ままな自由を謳歌するボヘミアンの父マックスを敬愛し、彼のように生きたいと願っていた(「パパみたいに」)
 ある日、エリザベートは空中ブランコの真似事をしていて、ブランコから落ちてしまい、生死の境をさまよう。
 エリザベートを黄泉の世界にいざなおうと現れたトートは、その瞳に魅せられ、エリザベートに恋をしてしまう(「愛と死の輪舞」)
 彼女が自分を求めるようになるまで追い続けようと決意したトートは、エリザベートをもとの世界に返す。

 その頃、エリザベートの姉ヘレネには、お見合いの話が持ち上がっていた。
 ヘレネの見合い相手は、従兄弟であるオーストリアの若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(鈴木綜馬)
 当時、オーストリアのハプスブルク家は、結婚政策によってヨーロッパ諸国で強大な権勢を誇っていた。
 この見合いは、姉妹であるエリザベートの母・ルドヴィカとフランツの母・皇太后ゾフィーによって進められたもので、ヘレネは皇后にふさわしい花嫁修業をうけてきていた。
 ところが、お見合いの席でフランツの目にとまったのは、妹のエリザベートのほうだった(「計画通り」)
 周囲の困惑をよそに、エリザベートに強引に結婚を申し込むフランツ。
 フランツは、皇帝の義務について話してきかせるが、まだ年若いエリザベートにその意味がわかるはずはなかった(「あなたが側にいれば」)
 婚礼の日、ウィーンの貴族たちはさっそく花嫁の品定めを始め、意地の悪い視線でエリザベートの一挙手一投足を辛辣にチェックする。
 不安にかられるエリザベートの前にトートが現れ、「最後のダンスは俺と踊る運命」とエリザベートに宣言する(「最後のダンス」)

 エリザベートが皇后として未熟なことを憂えたゾフィーは、「皇后の義務」について徹底的にたたきこもうとするが(「皇后の務め」)、しきたりや束縛を嫌うエリザベートはこれに強く反発する(「私だけに」)
 しかし、生まれた子供は次々に姑にとりあげられたうえ、頼みの夫は政務にかまえて彼女を省みない(「結婚1年目」)
 そんな状況のなかで、エリザベートはこの宮廷内でゾフィーにうち勝っていくために、自分の美貌が武器になるということに気がつく。
 激しいダイエットとお金のかかる美容法で持ち前の美しさに磨きをかけたエリザベートは、皇帝を皇太后から引き離し、子供たちも取り返すことに成功する。
 宮廷で嫁姑の争いが激化している間に、国外では600年続いたハプスブルク帝国の崩壊を暗示する出来事が次々に起こり始めていた。
 ヨーロッパ各地で吹き荒れる独立運動の嵐に悩まされたフランツは、エリザベートを連れてハンガリーを訪問する。
 エリザベートの美貌はハプスブルクの人気回復におおいに役立ったが、赤ん坊に与えるミルクにも事欠くオーストリア国内では、美しさを維持するためにミルク風呂に入る皇后に対する不満が渦巻いていた(「ミルク」)
 やがて、エリザベートの尽力でハンガリーは自治権を認められることになった。

 今や皇帝は皇后のいいなりだった。
 このままでは君主制が崩壊してしまうという危機感を抱いたゾフィーと重臣たちは、夫婦の仲を引き裂こうと、ひそかに娼婦マデレーネを送りこむ(「皇后の勝利」「マダム・ヴォルフのコレクション」)
 マデレーネから性病をうつされたフランツは、それをエリザベートにもうつしてしまう。
 夫の裏切りを知ったエリザベートは打ちのめされ、放浪の旅に出たままほとんどウィーンには戻らなくなる(「夢とうつつの狭間で」)
 母の愛に飢えて成人した息子のルドルフは、政治の問題で父親と対立(「闇が広がる」)。ハンガリーの独立運動に荷担して失敗し、自らの命を断つ。
 自分の鏡のような存在だったルドルフを亡くしたエリザベートは、生への執着を失い、トートに死を求めるが、「死を逃げ場にするな」と拒絶される。

 それ以来、エリザベートは喪服を着たまま、ひたすら旅を続ける人生を送り続ける。
 ある日、旅先までエリザベートを訪ねてきたフランツは、彼女に帰ってきてほしいと懇願するが、エリザベートの目にうつるゴールは、フランツの目にはうつらない。2人は限りなくすれちがっていく(「夜のボート」)
 そしてルドルフの死から10年後、トートの指令をうけたルキーニは、ジュネーブでエリザベートを暗殺する。
 61歳にしてようやくすべてのしがらみから解放されたエリザベートは、自らのめざすゴールにたどりつこうとしていた。

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 エリザベートというドラマチックな生涯を送った美貌の皇妃がいた。
 これを題材にミュージカルを作ろうという発想までは、けっこう誰でも考えそうなことだが(さしづめ今ならダイアナ妃の生涯あたりでしょうか)、この作品の非凡なところは、単にエリザベートの生涯を表面的に紹介するという形に終わっておらず、批評性と現代性を持っている点だ。
 「エリザベート」の独創性は、「トート=死」がエリザベートに魅入られてしまい、エリザベートも最初は逃れようとしながらも最終的に「死」の愛を受け入れるという斬新な視点でエリザベートの生涯を描いているところにある。
 言ってみれば、美貌の皇妃の話を「死」のストーカーものにしたてあげたわけだ。
 「トート」の造形がこのミュージカルの一番のポイントであることは間違いないのだが、ウィーン原典版と宝塚版ではトートの作られ方が決定的に異なる。
 ウィーン版では、主役は徹頭徹尾エリザベートであり、トートはあくまでもエリザベートが死を意識したときにだけ現れる彼女の心象風景として描かれている。
 エリザベートの中にある一種の狂気(その時代に生きている人間には理解できないような反社会的な精神)の象徴がトートだと考えてもいいかもしれない。
 つまり、エリザベートとトートの対立は、エリザベートの心の中の葛藤を表しているわけで、だからウィーン版ではエリザベートのいない場所でトートが主体的に行動する場面はない(はず。多分)。
 象徴というだけあって、ウィーン版のトートはかなりイロモノ的存在らしい。
 時代を超えた存在ということで、現代のヴィジュアル系ロックスターみたいなノリで出てきてエリザベートを翻弄しまくる。
 CDを聴く限りでは、歌い方もイロモノっぽく、イブを誘惑する蛇のような感じだ。
 一方、男役が主役でなければならないという不文律がある宝塚では、トートを主役として押し出すために、トートをエリザベートの運命を握る存在としてクローズアップしている。革命を扇動する場面に登場したり、結婚式で不吉なコーラスをリードしたりするのはその例だが、最も顕著な違いは、トートのナンバーが新たに増えていることだ。
 死にかけた少女時代のエリザベートが初めてトートに出会う場面に出てくる「愛と死の輪舞」がそれだ(ちなみに、私のケータイの着メロは「愛と死の輪舞」だ←はいはい、それが自慢なのね)。
 ウィーン版では、トートに出会ったあと、すぐにエリザベートは生還してしまうが、宝塚版では、ここでトートがエリザベートに一目惚れをして「彼女が自分を愛してくれるまで彼女を追い続ける」と歌い、愛に目覚めた死神の苦悩を打ち出している。
 ここでのトートはもはや異化効果を狙うイロモノ的存在ではなく、「男でもなく女でもない」という宝塚男役の美学を総動員して作り上げた絶対的な主役である。
 ウィーン版は、エリザベートとトートのパワフルな「戦い」という感じだが、宝塚はもっと甘美で官能的な人間と死のラブロマンスとしてしたてあげられている。
 では、今回の帝劇版はどうかというと、基本的にはウィーン版を踏襲しているが、あちこちに宝塚版の名残も残っているうえ、今回新たに加えられたエリザベートのナンバー(「夢とうつつの狭間で」)もあったりして、かなり複雑になっている。
 宝塚の「エリザベート」に慣れ親しんでいるファンが観ると、ちょっと意外だったり、イメージが違ったり、とまどったりする部分も多いかもしれないが、こちらが本来の「エリザベート」であり、宝塚版は宝塚にしかできないまったく別バージョンの「エリザベート」と考えるべきだろう。
 とはいえ、私も最初に観た雪組の「エリザベート」が正調「エリザベート」として頭の中に存在してしまっているので、どんな「エリザベート」を観ても、まず雪組と比べてしまうことは否定できない。
 しかし、だからといって、自分が考えている「エリザベート」と違うのがいやだというわけではない。
 むしろ「こんな『エリザベート』もありなのか」と、そのたびに「エリザベート」という作品の奥の深さに感動し、ますますこの作品が好きになる。
 それは演じる役者も感じることのようで、同じキャスト・スタッフで上演されていても、1ヶ月2ヶ月たつうちに役作りや演出が変わってくることが多い。

 初めて観てからすでに4年が経過しているが、いまだにこの作品には新鮮な発見がある。
 今回は、雪組でトートを演じた一路真輝がエリザベートを演じ、劇団四季出身でミュージカル界きっての歌唱力を誇る山口祐一郎と、舞台俳優として着実にキャリアを積んでいる文学座のホープ内野聖陽がダブルでトートを演じている。

 

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