トーマス・マン


僕は、トーマス・マンが本当に大好きで、彼の作品はどれも何度も何度も読み返してしまうほどです。ですから本がボロボロになってしまっています。本がボロボロになればなるほど、僕にとってトーマス・マンの作品はどんどん、どんどん輝きを増していきます。
本当に、よい本ばかりです。


「トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す」(高橋義孝訳/新潮文庫)

『トニオ・クレーゲル』から抜粋

 ・・・・・・トニオ・クレーゲルは北の国から、約束どおりその友リザヴェータ・イヴァーノヴナに手紙を書いた。
 遠い楽園におられるリザヴェータさん、と彼は書いた。もう間もなくそちらへ帰りますが、その前にお約束どおり、ここに手紙みたいなものを書いてみました。けれどもこれを読まれてきっと失望なさることでしょう。つまり私は手紙というものを多少一般的に考えたいからです。さりとてお伝えすることが全然ないとか、私なりにあれこれと見聞したことがないとかいうのではありません。それどころか生まれ故郷の町では警官につかまりそうにさえなったのです。・・・・・・しかしそれはお目もじのうえお話ししましょう。現在では話をするかわりに何か一般的なことをうまく言ってみたいという気持ちになる日がよくあるのです。
 むろん覚えていらっしゃいますね、リザヴェータさん、あなたがいつか私を俗人、迷った俗人だとおっしゃったことを。そう、あれはその前に口をすべらした別の告白につられて、私が生命と名づけるところのものにたいする自分の愛情をあなたに告白した時のことでした。あの時あなたは、この言葉でどれほど深く真実を言いあてられたかを、また、私の俗人性と私の「人生」への愛情とが全く同一物であることを、ご承知だったかどうかと私は今自問してみるのです。今度の旅行は、この問題についてよく考えてみるきっかけを与えてくれたのです。
 ご存じのように私の父は北国の人らしい気質でした。考え深く、徹底的で、清教主義を奉じているところから自然几帳面で、どちらかといえば憂鬱な性でした。ところで母のほうは、どこかの外国の血がまじっていて、きれいで官能的で率直で、けれども同時になげやりで情熱的で、一時の情に駆られて、だらしのないことも仕出かすといった人でした。こういう両親を持った私という人間は疑いもなく一つの混合なのです。この混合はすばらしい可能性と――恐ろしい危険とを孕んでいるわけです。さあそこから生まれ出たものが芸術に迷い込んだこの俗人なのです。良い子供部屋への郷愁を持ったボヘミアン、良心にやましいところのある芸術家なのです。つまり私に一切の芸術家生活、一切の非凡なもの、一切の天才を、何かひどく怪し気なもの、ひどくいかがわしいもの、ひどく胡散臭いものに思わせて、単純、誠実、快適な正常さ、天才的ならざるもの、礼儀正しいものへの盲目的な愛情で私の心を満たしているもの、それこそこの私の俗人的良心なのです。
 私は二つの世界のあいだに立っています。そのどちらにも安住の地をえません。だから多少生活が面倒になるのです。あなた方芸術家は私を俗人呼ばわりにするし、それから俗人は俗人で私を逮捕しそうになる。・・・・・・もっともそのどちらが私をひどく悲しませるか、それはわかりません。俗人どもは愚かです。しかし私を粘液質で憧れがないときめつけるあなた方、美の崇拝者たちには次のようなことを考えていただきたいと思うのです。世の中には、平凡なもののもたらすもろもろの快楽への憧れに勝って、甘美で感じ甲斐のある、いかなる憧れもありえぬ、と思われるほどに、それほどに深刻な、それほどに根源的で宿命的な芸術気質があるということを。
 私は、偉大で魔力的な美の小道で数々の冒険を仕遂げて、「人間」を軽蔑する誇りかな冷たい人たちに目をみはります。――けれども羨みはしません。なぜならもし何かあるものに、文士を詩人に変える力があるならば、それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。すべての暖かさ、すべての善意、すべての諧謔はみなこの愛情から流れ出てくるのです。この愛情は「たとい、わがもろもろの国人の言葉および御使いの言葉を語るとも、もし愛なくば、鳴る鐘、響く鐃鉢の如し」と記されてある、あの愛情と同じものなのだと言いたいくらいです。
 私がこれまでにしてきたことは無にすぎません。たいしたものじゃない。まあ無といっていいのです。これからは、もう少しましなことをやるでしょう、リザヴェータさん。――これは一つの約束です.こうして書いているあいだにも、海の音がここまで聞こえてきます。そして私は目を閉じます。私の心の目の前には、秩序と形成を待ち焦れている未生の幻のような世界が浮び上がってきます。入り乱れた影と人間の姿が見えます。そうして、とらえられ解放されることを私に要求しています。悲劇的な、また、滑稽な、また、その両方を一緒にしたような陰のもろもろの姿が。――そして私はそういう姿に深い愛情をいだいているのです。けれども私の一番深い、もっともひそやかな愛情は、金髪で碧眼の、明朗に生きいきとした、幸福な、愛すべき平凡な人たちに捧げられているのです。
 リザヴェータさん、どうぞこの愛情を叱らないでください。それは善良な、みのり豊かな愛情なのです。そこには憧れと、憂鬱な羨望と、それから少しばかりの軽蔑とあふれるばかりの清らかな幸福とがあるのです。

 『ヴェニスに死す』から抜粋

 「なぜなら美というものは、パイドロスよ、覚えておくがいい、美というものだけが神のものであって、同時に人間の目に見えるものなのだ。だから美は、感覚的な人間の歩み行く道であるのだし、小さなパイドロスよ、芸術家が精神へ赴くための道なのだ。しかし君は、こういうことを信じているのだろうか、つまり精神的なものへ行くために感覚を通って行かねばならぬ者は、いつか叡智と真の男性の品位を手に入れることができるのだ、と。それとも君は――これは君が自分で自由に決定するがいい――それは危険で、しかも愛すべき道であり、本当は邪道であり、罪の道であって、必ず人を間違った道へ導くものだと思うだろうか。なぜなら、これはぜひとも言っておかねばなるまい、エロスの神がわれわれの道づれとなり、よろこんで東道主人を勤めてくれるのでなければ、われわれ詩人は美の道を歩いて行くことはできないのだ。たしかにわれわれは、たといわれわれがわれわれなりに英雄であろうと、したたかな軍人であろうと、それでも女のようなところを持っているものなのだ。なぜなら、情熱はわれわれを高めてくれるものだから。そしてわれわれの憧れはいつも恋でなければならないのだから。――これがわれわれの快楽なのだ。しかしまた恥辱でもあるのだ。これで君は、われわれ詩人が賢明でもなければ尊厳を持っていることもできないということがわかっただろうね。われわれが必ず邪な路に踏み入らなければならず、また必ず放恣で、感情上の冒険家でいなければならないということがわかっただろうね。すばらしい文章を書くということは虚偽であり阿呆のする業なのだし、われわれの名声と輝かしい身分とは茶番にすぎないのだし、われわれにたいする世間の信頼は世の中で最も滑稽なものなのだ。芸術によって世間の人たちや青年たちを教育しようというのは、向こう見ずな、禁ぜらるべき企てなのだ。なぜといって生れつき奈落へと志す、改良しがたい天性を持っている人間がどうして教育家として有能であろうか。われわれは深淵を否定したい。人間の品位を保っていたいのだが、われわれがどうじたばたしようと、深淵はわれわれを引寄せるのだ。そんなわけでわれわれは、解放的な認識といったものを拒否したいのだ。なぜなら認識は、パイドロスよ、威厳も厳格も持たぬから。認識はものを知り理解し赦し、性根を持たず、体裁も顧みぬ。認識は奈落に、深淵に気脈を通じているのだ。いや、認識こそは奈落なのだ。だからわれわれは断々固として認識を拒絶する。そして今後われわれは唯ただ美を尊重しようと思う。つまり簡素を、偉大さを、新しい厳格を、第二の純真を、そして形式を。しかし、パイドロスよ、形式と純真とは陶酔と欲望へと導き、高貴な人間をおそらくは、彼自身の美しい厳格さが恥ずべきものとして拒否するような、おぞましい感情の放恣へと導き、奈落へと導くのだ。その美しい厳格ささえも奈落へ導いて行くのだ。いいかね、われわれ詩人をそこへ連れて行くものは、そういうものなのだ。なぜならわれわれには高く翔る能力はないのだ、われわれにはただ彷徨することしかできないのだから。さあ、パイドロスよ、わたしはもう行く、君はここにいるがいい。そして、わたしの姿が見えなくなってから、君も行くがいい」


「トーマス・マン短編集」(実吉捷郎訳/岩波文庫)

『神の剣』から抜粋

 「・・・・・・恥を知らぬ子供や、厚かましい無遠慮者の無智を、称揚と怪しからぬ美の礼讃とでもって、是認し鼓舞し権力づけるというのは、それは罪悪です。なぜなら、そういう無智は、悩みとは縁のない、解脱とはなおさら縁遠いものだからです。――君は暗い見かたをしているよ、どこの人だか知らないが、とあなたがたは僕に答えるでしょう。それなら僕はいいますが、知というものは、この世の最も深い苦悩なのですよ。けれどもそれは煉獄の火です。その火に浄められる苦痛を経なければ、どんな人間の魂も救われることはできないのです。厚かましい童心や罰当たりな奔放が、救いをもたらすのではありませんよ、ブリュウテンツワイクさん、救う力があるのは、われわれのいとわしい肉の情熱を、死に絶えさせ、消え果てさせる、あの認識なのです。」

<中略>

 「・・・・・・僕は芸術を侮辱しはしない。芸術というものは、人を誘惑して、肉的生活の鼓舞と是認にかり立てるような、そんな破廉恥な詐欺じゃありません。芸術とは、人生のあらゆるおそろしい深みへも、恥と悲しみとにみちたあらゆる淵の中へも、慈悲深く光を射し入れる神聖な炬火です。芸術とは、この世に点ぜられた神々しい火です。この世を燃え上がらせて、そのすべての汚辱と呵責ごと、救いをもたらす憐憫のうちに消滅してしまわせるために、点ぜられた火なのです。・・・・・・」


「ブッデンブローク家の人びと」(望月市恵訳/岩波文庫)

      


「魔の山」(高橋義孝/新潮文庫)

   


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